ぼくは知らない。狛枝さんのことを知らない。
でも多分記憶を奪われる前のぼくは知ってたんだと思う。

「なぎと、さん」
「ああ、やっぱりボクは幸運だ」

無意識のうちに呟いた名前、なぎとさん。
こまえだ、なぎと──それが、彼の名前。
──多分、昔、ぼくは彼をそうよんでいたんだとおもう。

嬉しそうな声。
抱きしめられてるから、表情はわからない──だけどほんのすこしだけ寂しそうにきこえた。

「でもキミのあの頃の記憶はまだ戻らないんだね。多分、それがキミにとって一番いいと思うんだけど」

それだけいって、狛枝さん──凪斗さんはぱっと離れた。
ちょっとだけ、さっきより距離をおくように椅子をひいて座る。

「さっきも言った通り、ボクは結構全部覚えてるんだ」

にこ、と笑った顔はどこか無理をしてるように見える。

「凪斗さん、とぼくは」
「覚えてないんでしょ?好きなようによんでいいよ」

どう呼ばれたって、キミがよんでくれるってことだけでボクはしあわせなんだから。

そうはいうものの、ちょっとだけ寂しそうに眉が下がったのが見える。
狛枝さん、凪斗さん、…うん、こっちだ。

「凪斗さんってよんでもいいですか」

記憶にはなくても自分自身が覚えてるのか、「凪斗さん」という呼び方のほうがしっくりくる気がした。
そういうと、凪斗さんは嬉しそうに笑う。

「うん…ありがとう、まことくん」

誠。今ではもう呼ぶ人もいない名前だった。
だからなのか──それともこっちも自分自身が覚えているのか──どこか懐かしい感じがした。

「凪斗さんとぼくは、むかしどんな関係だったんですか?」

皆の反応、凪斗さんの言葉、自分自身の感覚。
それらすべてがぼくと凪斗さんが初対面ではないことを教えてくれる。
だけど、そこから、ぼくらがどんな関係を築いていたかはわからない。
そんな酷い仲ではなかったとは、思うのだけど。

「うーん、同じ「超高校級の幸運」だった友達兼同士、かな」

すごく綺麗な笑顔でこたえた凪斗さんにちょっとだけ引っかかる。
それは違うよ!と喉のところまででかかった言葉をがんばって引っ込めた。
何が違うのか、うまくといかけることができないとおもったから。
そして多分、凪斗さんは教えてくれない。
──さっきも言っていたように多分、彼はぼくが昔のことをおもいだすのを望んでいないのだ。

「そ、ですか」
「うん。キミはね、ボクなんかと違って、本当にすばらしいこだったんだ」

にこにこ、と笑いながら凪斗さんは学園生活のぼくと凪斗さんがどうやってであったか、どういう関係だったのかを話している。
でも、ぼくは凪斗さんのいう「むかしのぼくら」の話を半ば流すように聞いていた。
嘘ではないと思う。でも多分、彼のいうことは本当のなかのほんの一部なんだろう。
──記憶はないけど、そう思った。

話は学園生活から凪斗さんの絶望時代へといつのまにかかわっていた。
このへんは未来機関にきて聞いた話や日向くん、ソニアさんたちからきいたこととあんまりかわらない。
ぼくたちはずっと希望ヶ峰学園という大きなシェルターの中にいた。
だから、それらのことは知っているだけ。
凪斗さんもぼくたちのコロシアイ生活の中継をみていたという。

「『希望』なんてないっていわれたよ。ボクの信じる『希望』が消えていくのをじっとその目で見届けろってね。…でもね、『希望』は存在したんだ。それを彼女は身をもって証明した。」

凪斗さんは袖を捲り上げて左腕を目線の高さまで持ち上げた。
赤い爪、細い腕──けして生きてはいない腕。

「ねえ、まことくん。さっきもいったけど、ボクは『絶望』は『希望』の為のものだって思ってる。絶対的な『絶望』があるところにこそ、絶対的な『希望』が生まれるんだ」

だからこの『絶望』の塊みたいな左腕がボクのものになれば、また『希望』がボクの前に現れるって思ったんだよ。

「超高校級の絶望」であった江ノ島さんの左腕。
あのとき、最後のオシオキでいなくなってしまった江ノ島さんの一部。
ぼくはそれに目を奪われ──思い出す。最後の彼女の表情を。彼女の言葉を。

「ごめんね。本当はこんなものをキミに見せるなんて、許されるはずはないんだ」

凪斗さんは左腕をぼくの視界に入れないよう、左半身を隠すように角度を変えた。

そして、話はこの島でのことにうつり、おわった。
凪斗さんの話は、全部本当で、でも全部じゃない。
話さなかったのか、話せなかったのか…それは、ぼくにはわからないけど。

ただ、やっぱり未来機関がいうように処分していいはずがない。
確かに凪斗さんは「超高校級の絶望」としての加害者かも知れない。
だけど…日向くんやソニアさん、ぼくたちとおなじ、『絶望』による被害者だ。
できるなら──自分なんかがおこがましいとおもうけれども──生きて、ほしい。

「ボクなんかの長くてつまらない話をきかせてごめんね。でも、ボクなんかのためにキミが胸を痛める必要はないんだ。だから、キミがボクのことを思い出す必要もないんだよ。…ねえ、まことくん。ボクの「幸運」は同じだけの「不幸」が必要だ」

──だから、もう、これ以上を望んだらいけないんだよ。


*