+狛枝凪斗のキボウ+




気がついたら、狛枝は屋上にいた。
どうしてだろうか──そう思った瞬間に、手や衣服に付いた血が目に入った。
その瞬間に、ぐらりとした感覚と共に、耳の奥に残る声が聞こえてきた。

───…っごめんね、でもボク、は、ボクを信じるっ…だから、狛枝クンは、           ───

────…や、く束して…ボク、は大丈夫だから────


それを認識した途端に、狛枝の頭に、流れる血の熱さと確かに受け止めた重さ、儚い笑みが瞬時にフラッシュバックのように、蘇った。

「っぁあああああああああああ!!!!」

頭を抑えて、蹲る。狛枝は、自分でも何をいっているかわからない叫び声をあげていた。
もしかしたら、叫んでいることすら理解していないのかもしれない。
どれくらいの時間がたったのだろうか。叫ぶことをやめ、狛枝は口元を気持ち悪さに口元を抑える。
どろどろとした不快感が胸に溜まっていた。それがそのまま込み上げる嘔吐気となる。
堪え切れずに、狛枝は吐き出す。地面に零れた吐瀉物には最近食事をとっていなかったためか、固形物は含まれていない。
ほぼ胃液だけで構成されたそれが、狛枝には他のものに見えた。
それがまだ体内に残っていることが気持ち悪くて、不快で、狛枝は嘔吐し続けた。
吐いては嘔吐き、嘔吐いては吐くという繰り返しの中で、吐瀉物に血が混ざりはじめても、狛枝は吐くことをやめなかった。
寧ろ、赤黒いそれをみて、ますます不快になっていた。ひゅうひゅうという、息の音が聞こえ、吐き出す力さえなくなった頃、狛枝はその場に倒れるようにして転がった。
暗くなった空を見上げ、力なく笑う。その頬には涙が流れていた。
ゆるせない、と思った。
そして、死ねるものなら死にたい、と願った。
だけど、耳の奥で廻り続ける彼の言葉はそれを許してくれなかった。

狛枝は苗木のことがすきだった。
多分、それは一目惚れに近かったように思える。
苗木の何気ない一言で、狛枝は確かに救われた。それから苗木を特別に思うようになった。
穏やかで優しい先輩を装って、狛枝は苗木に近づいた。誰とでもすぐに親しくなる苗木と友好的な関係になるのは容易かった。
それこそ、同じ七六期生のクラスメイトすら陥落するほどの苗木の人懐こさが時に憎らしくなるほど、苗木は誰とでも打ち解けた。
だからこそ、狛枝は地道な努力を重ねた。その努力と自身の幸運のおかげで、狛枝は苗木にとって特別な友人という関係を手に入れた。
彼は、普通だった。『超高校級』の才能を持つ生徒たちの中に埋没してしまうような普通さだった。
けれど、狛枝はそれを喜んでいた。彼の特別な所なんて、自分だけが知っていればいいのだと。そう思っていた。
彼のクラスメイトにも同じように思っているものがいると知ったとき、それにすら嫉妬した。
そんな、自身の矮小さを、狛枝はまざまざと思い知らされたのはあの中継を見ていた時だった。
「コロシアイ学園生活」において、他の者が、苗木が【希望】となるための踏み台となったのをみて、狛枝は確かに羨ましいと思ったのだ。
仲間たちの死、コロシアイ、十神白夜による推理妨害、アルターエゴの犠牲、霧切響子の裏切り。
それら全ては確かに、苗木誠を『超高校級の希望』として輝くための糧だった。
ずっと中継を見ていた狛枝は知っている。
彼は、彼だった。自分が愛した、彼のままだった。
──だけど、確かに彼は『超高校級の希望』だった。
それが、泣きたいほど嬉しくて、ぞっとするほど恐ろしかった。
狛枝にとって、苗木は希望だった。与えられた最大の幸運だった。
狛枝には、それが皆に与えられるものであってほしくなかったのだ。
苗木の希望も、幸運も自分だけに与えられるものであればよかった。
そんな子供じみた独占欲を抱えていた狛枝は、『超高校級の希望』となってしまった彼をみて自身の思いがわからなくなっていた。
苗木を思うこの心は、ただ、【希望】を求めたからなのではないだろうか。
あんなにも、好きだと思った思いも全ては【希望】を愛するがゆえなのではないだろうか、と。
島での「コロシアイ生活」を経て目覚めて、苗木にあえると聞いた時、狛枝はただ、会えないと思った。
狛枝はあの島を仮想世界と認識して死んだからなのか、生き残り、早々に目覚めた五人よりもずっと確かな記憶を持っていた。
その中には、絶望の残党として「【希望】のために」と犯した罪や、左腕のこと、そしてあの暖かく優しい学園生活の記憶もあった。
狛枝が好きになったのは、あくまで、後輩の『超高校級の幸運』であり、狛枝にとっての絶対的な【希望】である苗木誠だ。
同じ苗木とはいえ、『超高校級の希望』となってしまった苗木を見てしまった以上、思いに自信がもてなくなっていた。──自分が愛したのが誰なのか。
しかし、霧切との会話を経て、気付かされた。苗木は苗木であること。呼び名が変わったとはいえ、彼が彼であるということは変わらないということを。
苗木が意識して救いを与えるのではなく、苗木の存在、行動によって救いが生まれるということを。
理解していたと思っていたけれど、本当の意味ではわかっていなかった。
いや、多分気付きたくなかっただけだ。苗木に与えられた救いが、自身にのみ与えられた特別であるとそう思っていたかったのだ。
それに気付かされた時に、狛枝は苗木に会いたいと思った。
そして、はじめてあった時に彼が救ってくれたように、もう一度、自分を救って欲しいと思ったからだった。
誰にでも向ける愛情や感情ではなく、彼から向けられる、たった一つの特別が欲しい。
それが、できないのなら、せめて、彼から与えられる終焉が欲しかった。
だから、狛枝は苗木に会いに行った。そのはずだった。
苗木は、やはり変わらないままだった。
しかし、その結果といえば──狛枝は生きていて、苗木は今だに意識不明のままだ。
狛枝の顔からは、既に笑みは消えている。
ただ、頭の中には、慚愧の念がぐるぐると渦巻いていた。
自分が目覚めなければ、会いに行かなければ。自分自身が、死んでいれば──考えることは、ただ過去への後悔だった。
この今の【絶望】が、【幸運】へと転化するという楽観的な思考すらできなかった。
祈り、望めば叶うというのなら、いくらでも願おう。
「なえぎ、くん、」
掠れる声で名前を呼ぶ。
その呼びかけに答える声は、なかった。

それから、どのくらいたっただろうか。次第に空が白んでいたけれど、狛枝は尚も屋上にいた。
泣き叫びたくなる衝動と消えてしまいたくなる欲動は未だ狛枝の中にある。
しかし、それらの感情に流されることもなく、狛枝はただ座り込んでぼんやりと空をみていた。
考えているのは、ただ苗木のことだけだった。
会いたいと思う、その一方でもう会えないと思っていた。
許されるはずがない。自身の行動が、結局苗木をきずつけた。
狛枝の【幸運】に苗木が巻き込まれて傷付くことなどなかったから、多分苗木は大丈夫だと思っていたのだ。
そんな浅慮さが招いた結果がこれだった。
最悪の結末まで想像しながら狛枝はただ祈った。
こんなにも、願い、祈り、望んだことはきっとない。
それが、多分苗木へ向ける、感情の答えだと、狛枝はその時に初めて気づいたのだった。


「ココにいたんだ…」
「なえぎ、くん…」
投げかけられた声に顔を上げた瞬間、狛枝の思考はぴたりと停止した。
眼前に映る苗木の姿が信じられなくて、まるで夢のようで。
熱病に浮かされたような思考のまま、狛枝はその存在を確かめるためにそろそろと指を伸ばす。
触れたい。だけど、触れることが出来なかったら。
苗木にその手を拒絶されたら──。
動き出した思考がその手の動きを止める。
ぎゅっと指を握り込んだのは、触れるのが怖かったからだ。
うまく働かない頭に、少し前の悪夢のような現実が蘇る。
苗木を害した自分が、どうして触れることができるだろうか。
ぐるり、と思考が廻り、狛枝は手を引こうとする。
その時、苗木が狛枝の伸ばした手を逃がさない、というように掴んだ。
伝わる暖かさに、狛枝は小さく苗木の名を呼ぶ。
苗木は狛枝を見つめたままにこりと微笑んだ。
「ねえ、狛枝クン。大丈夫だよ、ボクは生きてる」
ちょっとだけ、話をしようよ。
触れた感触も、暖かさも。
そのすべてが愛おしくて、特別で。苗木の言葉に頷く狛枝の頬にはいつしか涙が伝っていた。


掴んだ手を、苗木は包み込むようにして握った。そして、同じ目線になるようにその場に膝をついて座る。
真っ直ぐ見つめてくる苗木の瞳に灯るのは、あんなにも焦がれていた希望の光だ。
結局、苗木以上の存在を、狛枝は見つけることは出来なかった。瞳で温もりで言葉でこんなにも心を動かされるのは、苗木誠ただ一人だった。
勝てない、と思う。狛枝の執着や思い、身勝手な嫉妬すら全て無意味だった。
「ボクはね、本当は自分自身を希望だと思ったことはないんだ。ボクはただ、皆に助けられて、それでずっと前を向いてここまで走ってきただけ」
静かに、苗木が口を開く。狛枝はその言葉一つ一つを心の中に刻み込む。
苗木を形容する肩書きは、あの「コロシアイ学園生活」を境に『超高校級の幸運』から、『超高校級の希望』へと変わった。
けれど、狛枝は知っている。彼の本質は何も変わってはいない。【幸運】、【希望】そのどちらも、彼の一面を切り取ったただの言葉に過ぎない。
彼は、彼の信念のまま、ずっと前を向いて走り続けていた。それが、皆を巻き込み、【幸運】となり、【希望】となった。ただそれだけのことだった。
狛枝にとって、ずっと苗木は苗木でしか有り得ない。それが狛枝のみつけた【幸運】であり、絶対的な【希望】だった。
「ボクは、ずっと皆のことを忘れない。ボクはボクが生きている限り、皆の死を、思い出を、記憶を引き摺って生きていく」
あの頃を思い出しているのだろう。ゆっくりと紡ぐ苗木の言葉には、過去を悼み、仲間を想い、明日を希う響きがあった。
「ボクはもう誰も失いたくない。狛枝クンや皆に生きていて欲しい。誰も代わりになんてなれない。ボクがボクでしかないように、狛枝クンも狛枝クンしかいないんだ」
そして、強い口調で、諭すように、説くように、苗木は語りかける。そこには、確かな優しさが満ちていた。
「…だから、目の前で死を選ぼうとするキミを止めたい。…それだけしか考えてなかった」
苗木はごめんね、と悲しげに呟く。
悪夢のようなあの出来事を招いたのは、狛枝自身だった。そのことを苗木自身の口から聞かされて、わかってはいたけれど胸が押し潰されそうなほど痛む。
もしも、最悪の結果になっていたら──なんて、想像したくもない。
狛枝は、先ほどよりも強く苗木の手を握る。それはまるで、決して離さないとでもいうように。
「泣いてるキミをみた時に、ボクはボクがしたことを知ったんだ」
それに気づいたのか、苗木はぽん、と狛枝の手の上に大丈夫という言葉のかわりとして、もう片方の手をのせた。
そして、少しだけ浮かべる笑顔に悲しみの色を混ぜて、小さく呟いた。
こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、と前置きをして。
「…でも、キミが生きてくれるのなら、いいかなって思ったんだ」
狛枝は、有り得ないとでもいうように、苗木の瞳を見つめた。
その瞳に視線をあわせて、苗木はまるで泣きそうな顔で笑う。
「ねえ狛枝クン。生きてるって凄いことだよ。…キミは今生きてる。そして、ボクも生きてる。」
苗木はぎゅっと握る手に力を込めた。
「一緒に、生きようよ…狛枝クン」
苗木の顔をみて、握られた手をみて、狛枝は瞳を二三度瞬かせて、戸惑ったように呟く。
「ココに、居ても、いいの…?」
「狛枝クンにいてほしいんだ」
そういって笑う苗木の瞳には拒絶も恐れも見えない。
「ボクは、キミを傷つけたんだよ…?」
「でもボクは生きてる」
「ボクは──」
苗木の傍にはいられない。そう思う理由はたくさんある。
それを狛枝が告げようとした時、ゆるりと首をふって笑顔を浮かべた。
「キミが何をしようとどんな罪を犯そうと、狛枝クンは狛枝クンだ。ボクがダメだと思ったことは怒るし、キミがしたこと全てを正しいとは思わない。…でも、ボクはキミのそばにいる。同情とかじゃなくて、ボクがいたいから傍にいるんだ」
「…ボクの【幸運】が、苗木クンを、傷つける、かもしれない」
「狛枝クンが守ってくれるんでしょ?」
狛枝が恐る恐る口にした言葉を、まるで当たり前のように苗木は笑って否定した。
いいの?と尋ねると、勿論、と力強く肯定される。
「ボクはボクの【幸運】を信じてる。あのときいったよね、ボクはボクを信じるよって」
狛枝は、倒れた時に苗木が掠れた声で呟いた言葉を思い出した。
「だから、狛枝クンも、自分自身を信じて。そして、自分をもっと大切にして。希望のためだとか、そういうのじゃなくって自分自身の【幸せ】を望んでほしい」
「なえぎくん」
「狛枝クンは特別で、大切な人だ。誰もキミの代わりなんて出来ない──だからボクは、キミと一緒に生きていきたい」
言葉、視線、態度、全てでココにいてもいいんだ、と苗木は告げる。
それは、狛枝にとって、はじめて与えられた福音だった。
狛枝の過去も性質も才能も──先刻起きた事実すら含めて、苗木は《狛枝凪斗》という存在を肯定し、受け入れ、赦している。
「だから、キミにも望んでほしい。ボクの傍にいることを」
苗木と握り合っている手を狛枝はみる。
温かで小さな手──この手はいくつの希望を生み出したのだろう。何人のおもいを救ったのだろう。
その前向きな意志が、どれだけの人を導いてきたのだろう。
そう思うと、今まで以上に、その手が神聖で崇高なものに感じられた。
狛枝は苗木が『超高校級の希望』と呼ばれる訳を改めて理解する。
「…なえぎ、くん」
震える声で名前を呼ぶ。その響きすら、今の狛枝にとっては神の名に等しかった。
「なに?狛枝クン」
名前を呼ばれることが、嬉しい。今までもだったけれど、ずっとずっと。
泣きたくなるほどの愛しさが、狛枝を動かしている。
そして、狛枝ははじめて与えられた至福の中で尊い温度を抱きしめた。
苗木は、突然の抱擁に一瞬だけ驚いた顔をしたけれど、すぐに笑顔を浮かべてその背に手を回す。
「大丈夫だよ」
全てを肯定するような慈愛にみちたその声に、狛枝は笑顔を浮かべて瞳を閉じ、ただ肯いた。





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