+霧切響子の幇助+




苗木が病室から出ていくのを見送った後、霧切は小さく溜息をついた。
何が間違っているか、何が正しいのかを知るものは誰もいない。
結局、何かを為さなければ、何も変わらない。それならば、思うままに行動すればいいと思っただけ。それだけのことだった。
苗木の意志を汲み、霧切との約束を果たしてくれた二人に礼を告げて霧切もまた病室を出る。
小さな明かりしかない廊下に人影がひとつ。
それが思い描いていた人物であることに、霧切は複雑な気持ちになった。
しかし、それを尾首にも出さずに立ち止まる。
「苗木君ならいないわよ」
知っているであろう事実を口にしたのは、多分それ以外に口にする言葉がなかったからだ。
霧切と目の前の人物──日向創が今この状況で語る内容など一つしかない。
当たり前の事実に口を挟むこともなく、日向はただ知りたいことを尋ねようとする。
「霧切、その──」
しかし、その言葉が続くことはない。何が知りたいのか、何を聞きたいのか、尋ねたいことが多すぎるのだろう。
霧切響子は日向の望む答えを持っている。そして、霧切はその答えを隠そうとは思っていない。日向が望めば、明らかにするつもりだ。
甘くなったのか、もともとこうだったのか。結局、霧切も苗木には敵わないということだ。
暫くの沈黙の後、口火を切ったのは霧切だった。

「…結構苗木君は狡いのよ」
「ずるい?」
その言葉に、日向は首をひねる。
苗木は日向たちに対していつだって優しかった。日向は恩人である苗木に大きな感謝と好意を抱いている。その苗木は狡いという言葉からは程遠い人物であるように思う。
日向と苗木の距離を考えれば、当然のことだった。
霧切はその疑問には答えずに、ただ淡々と話を続ける。
「苗木君の怪我。あれは、苗木君自身がしたこと。でも、苗木君自身に自傷のつもりはないと思うわ。苗木君の考えた中で、狛枝凪斗の行動を止めるための最良の行動を無意識で選んでしまったのね。その結果があれ。…ね、狡いでしょう?」
「自分でって…苗木が?止めるためって、」
「狛枝凪斗は、自分を、そして苗木君を試そうとした。その結果苗木君を傷つけるかもしれないと思ったわ。でも、苗木君が望まなければあの結果はまた別のものになってたでしょうね」
だから、止めなかったと言外に告げると、日向は目を大きく見開いた。
「霧切、お前わかって…?」
「ただの推測。根拠はないの」
納得しかねている日向に、霧切は小さく息をつく。
「…黙っていたけれど、苗木君の怪我はそんなに酷いものではないわ。命に関わるものでないことは確かよ」
「酷いものじゃないって…」
「切った場所が悪かったから血は多めに出たけど、それだけね。まあ、あの人相手のショック療法には効果があったんじゃないかしら」
最近の寝不足も祟って気を失ったというのは苗木の為を思って他言しないよう、治療に携わった二人にもいい含めてある。
そのため、目覚からさめた苗木が病室を走って出ていくことができたのだが、そこまで日向にいう必要はないだろう。
「ショック療法って…」
「あら、違う?そうでもしなければあの人と苗木君は碌に話も出来なかったでしょうね」
「話って…じゃあ苗木は?」
「あなたが思ってる通りだと思うわ」
「っ大丈夫なのか!?」
「今の苗木君なら大丈夫でしょう」
慌てる日向は自分とは対照的に落ち着いている霧切の冷静さが不思議だった。
そして、同時に苛立った。霧切と苗木は仲間だ。付き合いはそれほど長くない日向ですら、彼と彼女の間の絆の強さは見て取れる。
そこに下世話な類推を産むぐらいの距離の近さが、それを裏付けする。
それなのに、霧切の言葉はあまりにも苗木を軽視しているように感じられた。
狛枝の性格をモニター越しで見ていた霧切たちならば知っているだろうに。大丈夫、という言葉はどこから出てくるのか。
「お前は、心配じゃないのか」
日向にはさっきの苗木の姿がまだ目に焼き付いている。
大量の血を流して、目を閉じたままの苗木。呼んでも反応はなく、ただ倒れ伏したままで。
失ったと思った──ここは現実だ。あのプログラムの中で味わった喪失感と同様のそれを抱いた。違うのは、ここで失うということは、もう二度と戻らないということ。
先程の苗木の怪我が致命傷でなくとも、次もそうだとは限らない。
可能性は0ではない。寧ろ先程のことを繰り返すだけかもしれないのに。
「苗木が」
「馬鹿なことを言わないで」
霧切は日向の言葉を遮り口を開いた。
「心配に決まってるじゃない」
さらり、と返された言葉に日向は目を瞠る。
じゃあ、と続けようとした瞬間、だけど、と霧切がその言葉を遮る。
「彼は大丈夫、といった。私はそれを信じているわ」
相変わらずのポーカーフェイス。霧切が何を考えているのか、日向には推し量ることができない。
苗木ならわかってやれるんだろうか。屈託なく、頼りになる人だよ、そう笑った苗木ならば。
そう考えた日向に霧切はそうね、と呟く。
「あなたが危惧するのは、多分狛枝凪斗の人間性。…だけど、多分今の彼に苗木君を傷つけることは出来ない」
「どうしてそんなことが言い切れるんだ」
向けられる視線は研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。逸らしたくなる気持ちをおさえて、日向は絞りだすように疑問を投げかける。
狛枝の心理が日向にはわからない。独自の理論に基く彼の行動の理由など日向には理解できない。
あとになってわかることもあるけれど、日向は狛枝の言葉を何一つ聞いていないのだから、推測することすらできやしない。
しかし、霧切はできない、と口にした。頭に多分、とはついていたけれど。
「狛枝凪斗が苗木君に対して抱いている感情を知っているから」
「…友達、じゃないのか」
確か、狛枝はそういっていた。苗木が『超高校級の希望』となるよりはやく、学園内で互いに『超高校級の幸運』として友情を築いていたと。
日向の言葉に霧切はそう、と一言呟いたあとに、瞳を伏せ息をついた。
そして、再び瞳を開く。
「狛枝凪斗はあなたにそういったのね」
「…ああ」
「じゃあ、そういうことにしておきましょう。その名前がなんであれ、狛枝凪斗にとって苗木君が特別な相手であることが大事なのだから」
妙に含みのある言い方だった。しかし日向がその中身を尋ねても多分教えてはくれないだろう。
一つ頷いて、日向は霧切に言葉を促す。
「そんな大事な相手が、自分のせいで自らを傷付ける。それを目の前で見て、次にあった時にその人をまた傷付けようって思う?」
思わないだろう。そんな日向の心を読んだのか、霧切は頷く。
「そして、彼は大丈夫といった。それで大事になることなんてない、でしょう?」
だから、私にできるのは苗木君を信じることだけ。そう口にする霧切の真意を日向はやっと理解した。
多分日向以上に、心配しているのだ。だけどそれ以上に苗木のことを信じている。
霧切の心情は一見ではわからない。それでも、そこにある苗木への思いがとても強いと日向は知った。
「私はもう二度と彼を裏切らない。だから彼の望むことをするだけよ」
「…ああ、そうか」
そして、その言葉に納得する。霧切がここまで話してくれたのは多分、苗木自身の望みだ。
話すことが、ではなく。ここに日向を足止めすることが。放っておけば多分、日向は苗木と狛枝のいるところにまでいっていただろう。
それは苗木の望むところではなかったということだ。その方法として、日向へ現状の説明を選んだのは、霧切の独断かもしれないけれど。
「…じゃあ、私は行くわ。昨日あまり寝てないの」
それだけいって、霧切は日向の横を通り過ぎる。
窓から見える空はもう朝の色をしていた。




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