「そいつが、苗木誠だよ」
「嘘だ」
そう、告げた日向に狛枝は否定を返す。
苗木誠。一四支部に所属するコロシアイ学園生活の生き残りの一人。
そこでの活躍から『超高校級の希望』となった、『超高校級の幸運』。
逢ったことなんて、数えるくらいしかない。
けれど、確かに狛枝は彼女と逢っている。あのプログラムから出た後、調査という名目で話したことだってあったはずだ。
──そこまで考えて凍りつく。日向はそんな狛枝へと訝しげな視線を向けた。
話した事実も、逢ったという過去も覚えている。
話した内容も、薄れてはいたけれど一応記憶の片隅に残っていた。
けれど、彼女という人間が思い出せない──顔も、声も。
苗木誠と逢ったという記憶はあるけれど、それだけだ。
日向に見せられた画像は確かにあの日出会った少女で、それは苗木誠では有り得ない。
彼女を見たのは、あの日が初めてだ。だからこそ、狛枝はあんなにも必死に探したのに。
「…狛枝?」
大丈夫か。
心配そうな日向の声も、狛枝の耳には入らない。
右手を額に当てて、必死に記憶を探る──該当なし。ぞっとする。
「違う」
「は?」
「その子が苗木誠なわけがない」
彼女が苗木誠だと言うのなら、何故狛枝は覚えていない。思い出さない。
彼女とはあの時が初対面だった。それ以前にもし逢っていたとすれば──本当に苗木誠だとすれば、どうして狛枝は彼女を知らないのか。
記憶力は悪くないと思っている。興味が無いから忘れていたとしても、こうやって写真をみたら記憶の糸に引っかかってもいいはずだ。
嘘だ、と言ったけれどこんなときに日向が嘘をつくことがないことぐらいわかっていた。それでも否定したのは、そうしないではいられなかったからだった。
自分自身が信じられない。綺麗に嵌っていたはずの記憶の欠片がばらばらと崩れ落ちていくような、そんな不安が積もっていく。
「…本当に覚えていないのか」
すぐ近くにいるはずの日向の声も膜を通したように遠い。
「『これからキミたちは、沢山の希望や未来を創っていけるんだよ』」
「…日向クン?」
「これは苗木が、目覚めたばかりのオレたちに言った言葉だ」
絶望の残党だと知らされて、それでも生きなければならなかった。
道を選ぶとき、苗木は狛枝や日向達──目覚めた七七期生の前でそういったのだという。
その言葉にどこか既視感を覚えたけれど、誰が言ったのか、いつ言ったのか。それすらわからなかった。
「霧切の、言った通り…ってこと、か」
「え?」
霧切、霧切響子。狛枝の現在の直属の上司であり、未来機関の監査室長。
唐突に日向の口からでた彼女の名前に呆然とする──彼女が今どうして関係あるのだろう。
視線をあげると、複雑そうな色の浮かんだ日向の視線とぶつかった。
「霧切が言ってたんだ──お前の記憶に穴があるって」
思い当たる節はある。苗木誠。彼女という人間に関わる記憶はあるけれど、彼女のことはどうしても思い出せない。
それだけではない。連綿と繋がっていたと思っていた記憶。それが今、欠損だらけだと気付かされた。
今まで気にしたことはなかったけれど、彼女もまた一四支部の一員だったはずだ。
それならば、彼女もまた苗木誠と同じようにあのプログラムに関することで何かしらの接触を持っているはずだった。
しかし、狛枝にその記憶はない。狛枝の記憶の中で、彼女とはじめて相対したのは、今の部署についてから──つまりは、霧切響子の下についた時だった。
一つに気がつけば、次々にあらわれる記憶に関する違和感と矛盾。
「…あと、お前プログラムから出て一三支部に所属決まったけど、そのあと入院したの、覚えてるか」
入院という言葉に狛枝は小さく横に首を振った。
覚えがない。記憶もない。一三支部のあとは、割りとすぐに今のところへ配属が決まったはずだ。
そこまで、考えて気付く。日向と霧切は同じ支部にいたことがあったはずだ。狛枝は問題があったために異動を言い渡されたが、日向に限ってそれはない。
そして、未来機関に入った日向が最初に所属した支部は確か。
「一四支部──」
「狛枝?」
「ねえ、日向クン。教えて欲しいんだ」
繋がらない糸、欠けたピース。
それを再び繋ぐために必要なのは、失われた記憶でしかない。
立っていた場所が揺らぐような恐怖を感じる。
しかしそれ以上に今はただ、知りたかった。
「…俺も全部知ってるわけじゃないぞ」
そう前置きをして、日向は口を開く。
「俺達がプログラムをでて半年ぐらいした時に、未来機関に入った。それは覚えてるか」
「覚えてるよ。各支部にまわされて皆大体ばらばらだったよね」
未来機関に入るのを認められたとはいえ、一応は絶望の残党だ。それを監視する者が必要だった。
だから、狛枝たちは一人ないし二人ずつ各支部へとまわされた。
「そうだな。お前は一三、俺は一四支部だった。…その時にはもう苗木はいなかった」
「…『超高校級の希望』なのに?」
「だから俺がまわされたらしい。作り物とはいえ、俺も一応『超高校級の希望』らしいからな」
中身ではなく、その名称が必要だということか。今更ながらに納得をする。
「一月もしないうちに、お前はよくわからないけれど入院ってことになってた」
「…よくわかんないって、日向クン…」
呆れが思わず声に出る。日向も理解はできるのか、複雑そうな顔で頷く。
「緘口令が敷かれてたみたいで、本当にその辺よくわからないんだよ。誰に聞いてもそういうと思うぞ。戻ってきたお前は入院したことなんて覚えちゃいなかったしな」
多分、日向は聞いたのだろう。そしてその答えは得られなかった。
「…どのくらい、ボクは」
「二年か、三年か。…俺が気付いた時にはもうお前は霧切のとこにいた」
霧切響子が監査室の室長を任された時が一四支部解散の時だった。そしてそれが、未来機関という組織の在り方が最も大きく変わった時のはずだった。
現在支部の数はもうあの時よりもずっと多くなっているが、一四という数字の付いた支部は存在しない。それがどういう意味なのかはわからないけれど。
「俺は今の支部に異動だったし、他の奴等もそれぞれ異動だった」
「…確かにね」
未来機関は希望を掲げる組織だ。異動など基本的に考えて有り得ない。
けれどあの時から未来機関は形を変えた──名前こそ変わっていないけれどその理念を掲げていた上層部のお偉い様方が一度にいなくなったことで。
どういう経緯でそうなったのか。狛枝は知らない。知らないけれど、結果を知っている。今の在り方がその答えだ。
霧切響子が監査室の室長となったのも、そのためだろう。監査室といっても、便宜上そう呼んでいるだけで実際にやっていることは経理だけに留まらない未来機関内部の洗い出し。
表向き、その室員は一人だ。室長である霧切響子。ただ一人だけ、そこに名が記されている。
狛枝は霧切の補佐だが、監査室の者ではない。他にもいるのだろうが、狛枝も日向も知らない。きっと知る必要はないということだろう。
「…つまり、今の未来機関って一四支部だった人もしくは、一四支部にいた人たち寄りの考えの人たちが残ったってことだよね」
「まあ、な」
「じゃあ、今の第一支部長の十神さんって」
「そこも覚えてないのかよ」
狛枝の言葉に、日向はがくりと肩を落とす。
「設立当時の一四支部の人数は六人。さっきも言ったとおり、苗木に霧切…あとの四人が十神と朝日奈、腐川に葉隠」
それはあのコロシアイの生き残りであるということと同義だ。
あげられた名前は聞き覚えのある名前だった。それは、ただ一人を除いて現在の未来機関の中でそれなりに上の位置にいるものたちだから、というだけのこと。
つまるところ、一四支部の構成員の名前も覚えていなかったということだ。相対したはずの彼らを覚えていない。それは、狛枝の記憶の異常性をより浮き彫りにする。
「日向クンがいうんだから、嘘じゃないと思うけど。…正直、自分自身が信じられない」
「俺もお前の言葉を信じたくない」
真剣な眼差しで同意して、日向は話を再開する。
「それでお前は霧切のところにいた。その時に割と最近復帰した、って聞いた気もするから多分三年しないぐらいじゃないか」
「…」
日向の言葉は確かに狛枝のことなのだろうが、それに全く覚えがない。
狛枝の頭の中では、一三支部から割とすぐに霧切のところへ異動。そして今に至る、となっている。
全てが異なるわけではなく、まるで櫛の歯が欠けたように抜け落ちている記憶。
まるで、ちゃんと形になっていたはずのパズルがよくみたら穴だらけだったときのような。
「…じゃあ、本当にそれは」
日向は狛枝へと携帯を手渡す。
震える手でそれを握る。画像に映る六人の中の一人。
浮かぶ表情は様々だが、皆同じようなスーツ姿だった。それは、狛枝の知る姿からすると、少しだけ昔のものだろうと推測できる。
「間違いなく、苗木だよ」
「どうして、」
視線は画像へと釘付けのまま、狛枝は小さく呟く。
どうして、彼女を覚えていないのか。
どうして、日向は彼女の画像を持っていたのか。
──どうして、日向は狛枝の探し主が苗木誠だと気付いたのか。
「霧切が」
「室長が…」
霧切。再び出てきた彼女の名前に狛枝はもう驚かない。
多分、彼女は全てを知っている。だから、諦めろといったのだ。
「お前の探し人がこいつだって言ったんだ。だけど、俺はお前も苗木とあってるはずだからそれはないだろうって思った。記憶がどうとか言ってたけどお前自身は普通だったし」
「…」
「お前に画像を見せた時は半信半疑だった」
「でも、ボクは覚えていなかった」
「だから、ああ霧切の言ってたことは正しかったんだって思った」
それは同時に狛枝の記憶がおかしいということと同義である。それをわかっているのだろう、日向の表情は浮かないままだ。
「──お前なんで笑ってるんだ」
訝しげな日向の声。
それは今目の前で笑う狛枝へと向けられた言葉だった。
異常性を指摘されてそれでも尚笑顔を浮かべているのだから、確かに日向の疑問は真っ当なものである。
けれど、狛枝にとってそれは愚問に過ぎなかった。
「え?…だってさ、二ヶ月間見つからなかった彼女のことがわかったんだよ?」
心底嬉しそうに声を弾ませる狛枝に、日向は眉を寄せる。
何を当たり前のことを聞いているのだろう。不思議にすら思う。
「お前、」
「確かに記憶が信用できないのは不運だね。でも、そのおかげでボクは彼女が誰なのかわかったし、彼女に繋がる線も見つけた」
求めていたものを手にしたという幸運。それだけで、狛枝の心は歓喜で震えていた。
けれど笑う狛枝の心情が日向には理解できない。
「そいつの事を忘れていたとしてもか」
「忘れたことはしょうがないよ。多分その時のボクには彼女はそれだけの存在だったんだ」
先程までの落ち込みようが嘘のような明るい声。
そして、その瞳には見たことのないどろりとした感情が渦巻いていた。
「ありがとう、日向クン。吹っ切れた」
それだけ言って、狛枝はコートを手に取った。
そしてそれを素早く身に付け、日向が何かを言う前に目をあわせてにこりと笑った。
「じゃあね」
ひらりと手を振って去る狛枝の姿が見送った後、日向は小さく息をついて携帯を手にとった。
「本当に、これでよかったのか…?」
答えなど返ってこないと知りながら、日向はぽつりと呟く。
転送されたメールには、幾つかの画像と情報、そして一言の謝罪があった。
その翌日、狛枝はいつもより一時間ははやく出勤した。
本当ならば、すぐにでも会って尋ねたかった。しかし、狛枝は彼女のプライベートに関する情報を何一つ知らない。
さらに言えば電話越しよりも直接話をしたかった。
今日の予定では特に外に出るような仕事はなかったはずだ。きっと、いつもどおりに彼女は来るだろう。
かつ、という馴染みのヒールの音を耳にして狛枝はその方向へと視線を向けた。
「おはよう、今日ははやいのね」
狛枝の視線を受け止めて、彼女──霧切響子はいつもと同じ表情でそこにいた。
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