『私が話すより適任者がいるから、その人に聞いて』
それだけいって、霧切は一枚の紙を狛枝へと手渡した。
霧切に渡されたのは地図だった。そこに何があるのか、霧切は何も言わなかった。
ただ、今日から二日間は強制休暇を取らされた。この件はそれでおしまい、と。つまりこの休みの間の二日間で片付かなければ、それまでということだ。
狛枝は地図を確認しつつ、この先に待つものを考える。
頭の良い彼女が渡したものだ。この地図については何も触れなかったけれど、話した内容と望んだ情報を突き合わせるとそこにあるものが狛枝の探していた少女──つまり、元『超高校級の希望』である「苗木誠」へと繋がる何かであることに間違いはないと考えていいだろう。
地図に書かれていた時間にはまだ早い。目的の場所まではまだあるけれど、狛枝はそこまで歩くことを決めた。
運転手に代金を支払い、タクシーを降りる。
歩きながら、狛枝は彼女と道で逢った時の事を思い出していた。
目的の場所へ行く道すがら、突然ぶつかって狛枝は彼女と出逢った。ただの偶然といえばそれまでだけど、狛枝はそれを運命と呼んだ。
それが本物かどうか、それも今日わかるだろう。

Wahrheit──真実、という名のついたそこは蔦で覆われた喫茶店だった。まだ時間までは少しあるけれど、問題はないだろうと狛枝はそこに足を踏み入れる。
店内は照明が少ないためか暗く、コーヒーの匂いで満たされていた。そして、流れている曲が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
騒がしいのがあまり好きではない狛枝は、その店の場所と名前を覚えておくことに決めた。
霧切のメモの通りであるならば、ここで何かを手に入れられるはずだ。それはきっと狛枝が望んでいるものという確信があった。
店内をそっと見渡すと、奥の席から一人の少女が現れる。
微笑みながら手招く彼女の誘いに乗って、狛枝は彼女のもとへと歩を進めた。

向かい側に座ると、コーヒーが運ばれてきた。
彼女は狛枝にかわりコーヒーを注文してくれていたらしい。
栗色の長い髪。数ヶ月前に逢ったきりのその姿に、狛枝の胸が騒ぐ。
どうしようもなく好きだと思う。恋に理屈など存在しないという言葉は正しいと、狛枝は身を持って体験することが出来た。
ほぼ初対面に近いはずの彼女に対する途方も無い想いと欲が狛枝の頭を支配する。
彼女が苗木誠だろうが、なんだろうがどうでもいい。失った記憶の中にその答えがあるかもしれないけれど、それすら今はどうでもよかった。
ただ、目の前にいる彼女を好きだということ。それが狛枝が手に入れた最初の真実だった。
声も出せない狛枝の硬直をといたのは、当然のように彼女の言葉だった。

「久しぶり、でいいのかな。…狛枝クン」
なんかこうやって話すのも懐かしいね。
そういって、彼女は笑った。まさか、探していた当人が現れるとは思ってもいなかった狛枝はここで日向の言葉が正しかったことを身を持って知った。
──探していた少女と苗木誠が同じ人物だということを。
狛枝が覚えていないだけで、数年前、彼女と狛枝は逢って話したことがあるという。
狛枝が眠りから目覚め未来機関に入る頃に未来機関を抜けた彼女。元『超高校級の希望』、苗木誠。
こうやって話していても、その時の記憶は少しも浮かんでこないけれど。
「…そっか、覚えてないんだね」
寂しそうに笑う彼女に狛枝の胸は締め付けられる。その細い身体を抱きしめてしまいたいという衝動を覚えた。
けれど、それを必死で堪える。抱きしめて、それだけでいられる自信なんてなかったからだ。
「ごめんね」
「狛枝クンのせいじゃないよ!…えっと何から話せばいいのかな」

軽い自己紹介の後、苗木は「ボクもそんなには詳しくないんだけど」という言葉を置いて話し始めた。
苗木の話によると、狛枝の記憶障害はプログラムの副作用というよりは、狛枝自身の【幸運】の副作用だろうということだった。
狛枝の記憶には他の人よりも欠けているところが多い。
学園時代、絶望時代の記憶がないのが普通だ。日向を含めた何人かはプログラム以前の記憶もあるようで、研究者たちは有り得ないと騒いでいたらしい。
狛枝自身は、というと学園時代、絶望時代に関する記憶はない。それはシステム上の仕様とでもいえることだったから特に問題はなく、だからこそその後に未来機関への所属が決まった。
けれど、狛枝の記憶に異常があることが発覚したのは所属して1ヶ月もたたないころだった。
一四支部に関する記憶──というよりも、あのコロシアイ学園生活の生き残りに関する事柄を狛枝は異常といえるほどに覚えていなかった。
私的に話したことについては然程問題視されなかったが、職務上での繋がりや連絡もある。
狛枝の所属していた一三支部は一四支部と番号が一つ違いということもあり、他の支部と比べると比較的交流があった。
それなりに仕事を要領よくこなす狛枝が一四支部絡みのことになるとおかしい、と誰かが行ったのがきっかけだった。
研究者による調査や、病院。様々なことを試したけれど、目立った異常は発見できずに、要経過観察となった所で一つの事件が起きた。
「…きっかけっていっていいのかはわからないんだけどね」
そう前置きをして、苗木は言い難そうに話を続けた。
その事件とは、苗木の巻き込まれたテロのことだ。『超高校級の希望』と呼ばれる彼女は未来機関の中でも狙われることが非常に多かった。
霧切や十神、ジェノサイダーなど、同じ一四支部のメンバーに合わせて幾人かのSPも付いていたけれど、それでも例外というものはある。
そして、その時は何故か狛枝も同じようにして巻き込まれたのだという。
「大怪我したとか?」
「えっと、それがね」
驚くことに全く被害がなかったらしい。けれど、後日そのことに関して全く何も覚えていなかった狛枝を未来機関の上層部は入院と称して研究所へと縛り付けた。
記憶を対価に狛枝は【幸運】を呼ぶと見做されたのだろう。それの研究のためらしいけれど、希望ヶ峰学園とやってることは何ら変わらない。学園のOBOGで構成された組織なのだからまあ無理もない。
その間に、苗木は未来機関を離れる。その理由は、と聞けば、ちょっと色々あってね、と濁された。
その後に未来機関という組織の内部が大々的に代わり、狛枝は研究所を出ることになったという。

「こんなとこかな。他に聞きたいことは?」
そう、苗木は微笑んで問いかける。
本当に聞きたいことはまだ聞いていない。
けれど、苗木の話を聞いていて気付いたことがあった。
苗木は狛枝の記憶が戻って欲しいとは思っていない。だから苗木はあくまで未来機関の『超高校級の希望』であり、かつて『超高校級の幸運』で狛枝の後輩だった苗木誠としての答えしか口にしなかったのだろう。
きっと、今尋ねた所で望む答えは帰ってこない。押しには弱いけれど、苗木は頑固だ。そうと決めたことは譲らないだろうと思い、一旦引くことにする。
「ううん、ありがとう。色々と聞けてよかった」
そういうと、苗木はほっと息をついた。あまりにあからさまなそれに笑いたい気持ちを抑える。
さあ帰ろうとして苗木が手に取ろうとした机の上の伝票を狛枝は先に握った。
「狛枝クンそれっ」
「大丈夫だよ。ボク結構お金持ちなんだ」
「いやしってるけど──」
「教えてもらったのはこっちなんだから奢らせてよ。お礼だよ」
納得しきれてない顔の苗木をおいてさっさと勘定を済ませた。ついでにレジの横においてあった店のマッチを一箱貰うことにする。
また今度、個人的にこよう。そう思うぐらいには、狛枝はこの店を気に入っていた。

「…じゃあ、狛枝クン」
顔を合わせないで去ろうとする苗木の手首を掴む。
ここからは、遠慮をしない。折角貰った明日までの猶予だ。好機をみすみす逃せるほど、狛枝は愚鈍ではない。
「送らせてよ」
「え?」
「ほら、もうこんな時間だ。苗木クンだって一人の女性でしょう」
そういって、遠慮する苗木をあの手この手で丸め込む。
大体苗木は押しに弱い。こういうことにおいて、弁の立つ狛枝に苗木が勝てるはずがない。
いや、でもね。と否定を口にする苗木を理屈で押せば、最終的に「…じゃあお願いします」と不服そうに呟く。腹芸なんてできないところもまた可愛いと狛枝は心のなかでひっそり思った。

多分、苗木はこれで終わりにするつもりだったのだ。だから、完全に笑顔という仮面をつけて狛枝の前へと現れた。
あくまでかつて未来機関の『超高校級の希望』であり『超高校級の幸運』で狛枝の後輩だった苗木誠として振舞い、そのまま姿を消す気だろう。
──そんなことはさせない。
穏やかに笑顔を作り他愛ない話をしながら、狛枝と苗木は並び歩いていた。
手首は掴んだままだ。逃げられないように、という意を込めての行動だったけれどそこから伝わる温度が離し難かったから、というのも理由の一つだった。
苗木は目を合わせない。笑ってはいるけれど、作り笑いとすぐにわかるぐらいのお粗末さ。
「あ、狛枝クンここがボクの家だよ」
そういって、着いたのは店からは然程遠くない、徒歩で五分もない程の場所だった。
幾つもの家が並ぶ中に埋もれるぐらいの、あまりにも普通の一軒家。それが苗木の家だという。
「普通だね。マンションかなんかかなって思ってた」
「あはは…まあ、やすかったしね。こういう家の方がボクも楽なんだ」
苗木が何もいわないのをいいことに玄関先まで歩く。多分苗木はもう帰って欲しいと思っているだろうけれど、帰ろうなんて狛枝は一寸足りとも思っていなかった。
扉の前、そこでやっと狛枝は苗木の手首を離した。さっと後ろに手を隠して苗木はにこりと笑う。
「…本当にありがとう、送ってもらっちゃってごめんね」
「大丈夫。ボク明日も休み貰ってるし暇だったんだよね」
「そうなんだ…霧切さんや日向クンたちにもよろしくね」
ほっと息をついて、苗木は笑う。そこには安堵の色が濃く現れていた。
じゃあね、と狛枝が去ってくれることを苗木は期待していたのだろう。
けれど狛枝がなんのためにここまで来たのか。それをわかっていれば、少しは違う未来もあっただろうけれど。

「──まことくん」
狛枝が名前を呼ぶと、さっきの安堵の笑顔はわかりやすく歪んだ。
さっきまでの貼りつけたような笑顔よりよっぽどいいと思う。
素の表情を見ることが出来て満足そうに笑う狛枝に、諦めたように苗木は息をついた。
気付いたのだろう。苗木もただ押しに弱いわけではない。
「霧切さん?それとも──」
「彼女は何も言わなかった」
ただ見せてくれただけだ。それも一枚の地図だけだから、彼女が狛枝へと渡したものは『苗木誠と逢う約束』だけだ。
けれど、それでよかった。それが狛枝の問に対する明確な答えだったからだ。

「ねえまことくん。ボクとキミは恋人同士だったんだよね」
「それは、違うよ」
狛枝の言葉を苗木は否定する。カマをかけただけ。与えられた情報からの推測を口にしただけだった。
けれどその声は震えていて、それが嘘だということはすぐにわかった。
嘘とすぐにわかるその言葉に、狛枝は無意識のうちに口元が緩んでいた。
浮かぶのは歓喜だ。苗木はまだ、狛枝と思いを交わした過去を捨てていない。
「…子供がいるんだって?」
苗木は答えない。俯いたまま、口を閉ざしている。
それを見ながら狛枝は薄い笑みを浮かべた。
「誰の子供、なんてきかないけどね」
聞かなくても大体予想はついている。
霧切の対応、日向の言葉、苗木から聞いた話──そして、何より苗木の性格と、自身に降りかかった不運を考えれば答えは一つしかない。
「…キミには、関係ない」
ぽつり、と苗木が呟く。
「キミには関係ない。あの子はボクの子供だ。ボクが産んで、ボクが育てた。ボクだけの子供」
だから、キミには関係ないんだ、という苗木に苛立った。
だん、と扉に拳を叩きつける。
「…キミが好きだ」
その言葉を聞いて、苗木は首を小さく横に振った。
「違う…っ」
そんなの錯覚だ、と苗木は呟く。
「違わない。ボクはキミが好きだよ…この間、ボクはキミにあった、それからずっとボクはキミをさがしてた。キミは言ったよね。ボクの記憶には欠けているところが多いって」
否定の言葉を聞きたくなくて、狛枝は早口で捲し立てた。
「それが幸運の代償であるって未来機関が見做したって」
失われた学園時代、生き残り達に関する記憶、『超高校級の希望』という存在。
欠けた記憶の全ては苗木誠という一つの存在へと集約する。
「じゃあその元の幸運ってまことくんはなんだと思うの?」
問いかける形をとっているけれど、答えは求めていない。苗木が口を開く前に、狛枝は自身で答えを語る。
「…ボクはね、思うんだ。キミとの思い出、キミに関する記憶が代償となるほどの幸運」
恋人同士という過去が本物であるのなら、それを対価として奪われるには相当の幸運が必要だ。
プログラムが無事に終了したということを苗木は挙げていたけれど、それでは等価に成り得ない。
再会という観点に絞って言えば納得もできるかもしれないが、それでも彼女に関する全ての記憶が奪われる道理はないはずだ。
「違う、しらない、しらないよ…っ」
「じゃあ、まことくん。キミの子供をボクに見せて。違うというのなら、それを証拠として示して」
必死に否定を繰り返す苗木に、狛枝は気付く。
苗木は多分わかっていて、否定している。それは、子供のためでも、苗木自身のためでもない。
思考がそこまで辿り着いた時、先程までの激情がすうっと冷えていくのがわかった。
それと同時に、どうしようもなく悲しくなった。

「どうして知らないなんていうの」
一目見て心を奪われた。
その身体に触れて、欲を覚えた。
それからずっと、消えないもの──彼女への途方もない呆れるような想いと欲。
そして今、再会を果たし、望んでいた存在に触れて気付かされた。
「知ってるはずなんだ。ねぇ、キミは」
記憶を失くす前の自分への嫉妬もある。それでも、今ここにいるのは自分と彼女だけ。
覚えている感覚に戸惑いながら、好きだという思いは強くなるばかりだ。
「ボクはキミの手を握ったことも、抱いたことも、あるはずだ…そうだろう」
狛枝は苗木の手を握りながら、涙声で呟く。繋いだ手のぬくもりが暖かくて、泣きそうになる。
初めてなのに、覚えのある温もり。苗木と逢うときに襲う激情は、既視感も含まれていた。
こうやって触れたことが、きっと過去にもあった。それは狛枝の頭には記憶されていないことだけれど。
「…嘘はいらないんだよ、まことくん」
失ったはずの記憶が欲しいと望んだのは初めてだった。
失ったことすら忘れていたのだから、それも無理はないことだと思う。
だけど、こうやって苗木の身体に触れているとどうしようもなく苦しい。
それでも、愛おしさは本物だから。それを否定されたくはなくて、必死に苗木の手を握り締めた。
「…ごめんね」
苗木がぽつりと呟いた。
「ごめんね、ごめんなさい」
「…どうして、謝るの」
「…………」
苗木はその大きな目に涙をうっすらと浮かべていた。
その表情を見た瞬間、狛枝は彼女を自分の腕の中に引き込んでいた。
抱き締めた時、ずっと失っていたものを取り戻したような気になる。
「ボクも、ごめん」
忘れてごめん。離してごめん。傍に居られなくてごめん。
謝罪を繰り返す狛枝に、苗木は小さく首を振る。
こういうことが昔、あったような気がする。けれど、狛枝の記憶はやはり戻らないのだろう。思い出すことはなかった。
それでもいい、記憶よりも今は腕の中の存在を確かめていたかった。
忘れてもきっとこうやって何度でも、狛枝凪斗は苗木誠に出会う度、恋に堕ちるのだろう。
苗木の細い腕が狛枝の背に回される。
「……凪斗さん」
少女が涙を零しながら小さく呟いた声に、狛枝はただ肯いた。


「ボクは本当、酷い男だね」
狛枝は、自嘲気味に一つ呟いた。シーツに包まっていた苗木ごとぎゅうぎゅうと抱きしめる。
狛枝の腕の中で苗木はふわりと笑みを浮かべて否定した。
「そんなことないよ」
微笑む苗木の姿に愛しさが込み上げる。もう二度と離したくない、忘れたくないという思いが胸を締め付けた。
かつては触れていた筈の身体は、確かな幸福と酩酊を狛枝へ齎してくれた。
どうして忘れてしまったのだろう。どうして手放すことができたのだろう。
考えたとして詮なきことだとわかっていても、それでも後悔はやまない。
失っていたかもしれない。それは有り得たかもしれない現在だ。そう考えるとゾッとする。
あの時に逢わなければ。日向が、霧切が教えてくれなければ。
数々の幸運が重なりあわなければ、今というこの瞬間は訪れなかった。
この温もりを失うなんて考えることはできない。

最後にこういうふうに触れた時から数えて、一体どれくらいの夜を重ねただろうか。狛枝の知らない彼女がきっとそこにはいる。
けれど、沢山の変わっていくものたちのなかで、多分彼女は変わっていないのだろう──その心の在り方も、狛枝への触れ方さえも。
何も言わずに離れたのも、きっと自分のためというより狛枝のことを思ってなのだろう、と簡単に想像がついた。
記憶をなくした狛枝にとって、苗木はただの未来機関の構成員だ。恩人、『超高校級の希望』ことから【ただの】という言葉は正しくないかもしれないけれど、それでもほぼ初対面の相手だったことに変わりはない。
そんな狛枝に、恋人でした。貴方の子供を妊娠しています。なんて苗木が言えるはずがない。
『これからキミたちは、沢山の希望や未来を創っていけるんだよ』
あの言葉の通り、苗木は狛枝が過去に縛られず自由に未来を創ることを望んでいた。だから、過去である自身のことを口にはしなかった。想像でしかないけれど、多分間違ってはいないだろう。
あの頃は今とは違い、まだ治安も安定していなかったはずだ。そんな中、『超高校級の希望』という名を持ちながら、未来機関の手の中から出て行った彼女は絶望たちにとって恰好の獲物だっただろう。
それなりの援助や保護はあったと思うけれど父親の居ない子供を抱えて、一人の女性が生きるには沢山の苦労があっただろう。
それでも、苗木は狛枝に何も言わない。それを苛立たしく思う心もあるけれど、きっと怒る権利なんて狛枝にはない。
正直に言ってしまえば、狛枝は言って欲しかった。縋って欲しかった。
記憶の話を苗木から聞いている間、ずっと考えていた。
苗木の性格を思えば、言えるはずなんてなかったとわかるけれども。それでも狛枝は苗木から求めて欲しかった。
忘れたのは自分自身のくせに勝手なことを考えている自覚はある。

「…こわいな」
呟いて、その身体をぎゅっと抱きしめる。夜が明けても、この記憶はあるだろうか。
苗木と触れ合うことが幸運で、その対価としてそれに関する記憶が奪われるとするのなら、再びその心を寄り添わせることが出来た今。何を失ったっておかしくはない。
心に刻み付けるように、狛枝は彼女の温もりを覚えておきたかった──そう考えて、気付く。
多分狛枝はずっとこういうふうに考えていたのだろう。この尊い存在を喪うかもしれない、失くすかもしれないという恐怖に怯えながら。
だから、記憶でなく感覚で、狛枝は苗木を覚えているのだろう。
抱き締めた時の感触や、瞼の裏に残る笑顔。
そして、愛しているという、感情。
「大丈夫だよ」
そっと腕の中から這い出して、苗木は優しく狛枝の頭をぽんぽんと撫でる。
きっと、また狛枝がその記憶を失った時には苗木はそこにいないのだろう。すきだよ、といいながら彼女は狛枝にとって残酷なことを平気でする。
それは優しさかもしれないけれど、狛枝にとっては望まない優しさだ。
できるなら傍にいて欲しい。烏滸がましく浅ましいかもしれないけれど、苗木さえいればきっと生きていける。
幸せを望むことができる。
「傍にいてね」
「凪斗さん?」
「離れないでね」
忘れても、思い出すから。またキミを好きになるから──離れようなんて思わないで。
震える声で呟く狛枝に、苗木はただ優しく笑う。
「…うん」
「まことくんが離れてもボクは探すよ。まことくんがボクの希望で幸せなんだ…だからボクの幸せをどう思っていたとしても…まことくんがいなければ幸せになれないんだって覚えててね」
言葉で呪いをかける。離れても無駄だということを、苗木は気付けばいい。



「すきだよ」

ずっとキミを、キミだけを愛している。
たとえ忘れても、何度でも出逢い、何度でも恋に堕ちていくだろう。
ひっそりと呟いた愛の言葉に苗木は涙を滲ませながら「ぼくもだよ」と微笑んだ。






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