それ、はいつでも先触れなどなしに突然訪れる。
両親が死んだ時も、自分の命が危機に晒された時も──いつだって、凪斗の【幸運】の代償は、足音もなしに忍び寄り確実に凪斗の心に疵をつけていく。
しかし、人は慣れるもの。そして、それは凪斗も例外ではなく、小さな予兆を感じることはあった。
それが、どのような【不運】かまではわからないけれど、悪い予感というものは大抵当たるものであり──特に多くの【不運】と関わりの強い凪斗の感じる兆しは殆どが悪い現実として降り掛かってきた。
母方の実家へと里帰りをすることになった、と彼らは言った。誠の祖母か、祖父か──どちらかは覚えていないが、入院することになったというのが原因だという。
丁度いいことに春休みでもあるし、見舞いついでに向こうで遊んで来るようだった。
家族で動物園に行くんだ、と笑う誠に凪斗はなんと返したか。
苗木夫婦は凪斗も一緒に、と誘ってくれたのだが、用事があると断りを入れた──それは単なる嘘だったのだが。
後見人の夫婦に感謝し慕ってはいたが、凪斗は苗木家の一員ではない。それを拒んだのは凪斗自身だったし、その自分がその実家へ一緒にいくということは一片足りとも考えたことのないことだったからだ。
凪斗お兄ちゃんはいかないのよ、という母親の言葉に誠は少しだけ拗ねてしまったようだった。だが、電話越しに、お土産を買ってきてね、と告げると機嫌をなおしてくれたらしい。
目をキラキラさせて、凪斗お兄ちゃんに何買っていこうかな、と笑っていたと、そう誠の父親から聞いた。
誠も、その妹もカレンダーを日毎数え、その日を待っていた──だが、不運なことに誠は前日から熱を出した。
幼い子供が熱をおして行くには遠い距離だった。里帰りの日は決まっているし、見舞いの相手の病状もそんなに良くはない。
母親と妹だけ行こうか、という考えも出たが、最終的には誠を除いた三人でいくことに決まった。
誠が熱を出したその日、丁度苗木家へと誠の見舞いへ来ていた凪斗が手を挙げたからだった。
まこちゃんはボクが見てるよ。だからおじさんもおばさんもいっておいでよ、と。
息子同然に思う少年からの言葉に、夫婦は暫し悩んだ。
凪斗は近頃の大学生にしてはとてもしっかりした子だ。そして誠もよく懐いている。置いていくのは忍びないけれど、向こうでの滞在が長引くようならば迎えに来ればいい。
そう結論を出した後に、夫婦は誠にも尋ねた。
誠は少しだけ悩んだあとに、家に残ることを了承した。母も父も妹もいないのは寂しいけれど、大好きな兄がいるなら大丈夫だと。
そして、凪斗はその日誠の家に泊まり、翌日誠以外の苗木家三人を見送った。
──弱い雨の降る日だった。
三人を見送った後、凪斗は眠る誠の隣で最近買った推理小説を読んでいた。
近くの温もりを感じながら、凪斗はただ幸せだった。熱で苦しんでいるまことには悪いと思う。しかし、凪斗にとって二人きりという空間はとても特別なものだった。
昼過ぎになって誠は起きた。熱は平熱とまではいかないけれど、朝測った時よりは大分引いてるようだった。
「楽になった?」
そう尋ねた凪斗に誠は少し眠そうな顔で顔でうん、と頷く。熱のせいで赤くなった頬と少しだけ涙で潤んだ大きな目が余計な思考まで呼んでしまいそうで凪斗は必死に理性の紐を締める。
「まこちゃん熱まだあるね」
凪斗が誠の額にぺたり、と掌を当てると誠は気持ちよさそうに目を閉じる。
「お兄ちゃんのて、つめたくてきもちいー…」
いつもよりも甘えたような声に、凪斗はただ笑みを返す。
「お母さんたちいっちゃったけど大丈夫?寂しくない?」
「えっとね、まこ凪斗お兄ちゃんがいるからへーきだよ」
にこ、と笑う誠の額を緩く撫でてやる。嬉しそうに笑う誠を見ていると先程までの劣情が引いていくのを感じた。
「はやく良くなろうね、そうしたらお母さんたち迎えに来るって」
「ほんと?どうぶつえんいけるかなあ」
話ながら、とろとろと再び眠りに誘われるように閉じていく誠の瞼を見遣り、凪斗は笑って毛布を掛け直してやる。
「まこちゃん、おやすみ」
「ん、──」
すぅ、と再び眠りについた誠を毛布の上からぽんぽんと優しくあやすように叩く。
しんとした部屋にただ雨の音と誠の寝息が聞こえていた。
────!────!
いつの間にか誠に寄り添うように眠っていた凪斗を起こしたのは不躾な電話のコール音だった。
悲鳴にも似たその音は、凪斗には自分の待っていた【幸運】を報せる福音の鐘に聞こえた。
「はい、はい…そう、です。…はい、」
事務的な返事。そこに感情は宿っていない。
暫くの応答の後、凪斗は自身の身に降り掛かった【不運】と先に訪れる【幸運】を確信した。
ぎゅっと瞳を閉じて、また開く。
そして眠っている誠の肩を叩いて起こした。
「まこちゃん、起きて…おきよう、ね」
「ん…ふ」
うっすらと瞳を開いて、誠はその小さな手で目を擦る。
まだ何も知らない子供。今から悲しい現実が襲うことも予測すらしていないだろう。
しかし、凪斗は言わねばならない。どんなに少女が苦しもうとも、伝えねばならないことだ。
それが、苦しくて、辛いのに──同時に、昏い喜びさえ湧き上がる自分に凪斗は気づいていた。
誠の身体を起こして、ぎゅう、と抱きしめる。
「おにいちゃん、おはよ…も、あさ?」
「…違うよ、まこちゃん」
よく、きいてね。と前置きをしてから、まだ幼い少女には残酷すぎる現実を凪斗は伝える。
「まこちゃんのおとうさんたちと、まこちゃんは、」
ゆっくり、ゆっくり。誠が理解できるように。
「もう、あえないんだよ」
「───…ぇ」
目を大きく開いて、誠は凪斗の言葉を聞いていた。そして最後まで聞いて、その大きな目を何度か瞬かせた。
少しだけ身体をはなして、凪斗と誠は向かい合う。
誠の大きな目に凪斗の姿が映る。
「なぎと、おにいちゃ──」
「…まこちゃん、だから、今からボクたちは出かけないといけないんだ」
「っや、」
「お別れ、しなきゃいけないんだよ」
凪斗の真剣な顔と、あえない、おわかれ、といった言葉に誠はゆるゆると頭を左右に振る。
誠は人の気持に聡い子だ。きっと、理解したくないのだろう。認めたくないのだろう。
それでも、現実は変わらない。たった一人遺された彼女は、結局現実に生きるしかないのだ。
「…いこうか、まこちゃん」
再び抱きしめると、誠も凪斗の背に手をまわして強く力を込める。
その沈黙と抱擁が、答だった。
それからはあっという間だった。
結局、遺されたのは彼女一人。遺された誠を誰が引き取るか、という話が論点となったのは当然のことだった。
苗木夫婦が後見人をしていたとはいえ、養子となっていない凪斗には口を挟む権利などなく、ただ黙って聞いているしかなかい。
当たりのいい言葉で拒絶していた親戚たちは、母方の祖父母がたった一人遺された孫を引き取るということに両手を上げて賛成し、凪斗が思うよりもずっとはやくその話は決まってしまった。
ずっと泣いていた誠は今は凪斗に抱かれて眠っている。本当は誠を布団に寝かせてやりたかった。しかし、凪斗が傍を離れようとすると泣く誠を放っておくわけにもいかず結局この体勢へと落ち着いた。
ぽん、ぽんと誠の背を叩きながら通夜の参列客へ挨拶を返す。知っている人、知らない人──それは様々だったけれど、亡くなった三人が愛されていたことはよくわかった。
通夜、葬儀が済み、火葬まで終わった後。誠と共に帰ろうとして誠の姿を探していた凪斗は誰かに呼び止められた。
「…狛枝、凪斗さん、だったかしら」
呼んだのは誠の祖母だった──誠を引き取ると決めた。
「はい、」
「…娘や息子から、貴方の事はよく聞いていました。…とても、良い子だと」
「…ありがとう、ございます」
息をついて、老女は疲れたように笑う。
「突然のことで、貴方も疲れたでしょう…ごめんなさいね、本当に…」
「…」
「単刀直入に、いいますね。…孫の、誠のことです」
「…はい、」
「通夜の席で聞こえていたでしょうけれど、誠を引き取るのは私達ということになりました」
「そう、みたいですね」
「…でも、もし貴方が良ければ…、誠と一緒に暮らして貰えないでしょうか」
老女の話は、端的に言えばこういうことだった。
娘たちは、普段から凪斗のことをよく話していた。息子のような存在であり、誠が懐いているということも含めていろいろなことを。
そして、遺された手紙にも、凪斗くんに誠のことを頼んである。と書かれていた。
更に、自分たちももう年であり、先が長いとは限らない。幼い子どもの環境を大きく変えるよりは、できる限りの現状維持を、ということらしい。
「…こちらにばかり都合がいい話だとは思います。…だけど、この二日間貴方を見ていて…多分私達が引き取るよりも、貴方と共にいたほうが誠は幸せになれるのではないかと思って。…無理なら、無理で構わないけれど…」
「…ひと月ほど前、」
ぽつり、と凪斗は呟いた。
「おじさんと、おばさんにいわれたことがあります。…もし、何かあったら、誠たちを、よろしく。と。…ボクが両親を亡くしてから、ずっと見ていてくれた二人が、ボクに頼んでくれたことがボクは嬉しかった」
「じゃあ、」
「…そちらがいいのであれば…そして、まこちゃんが、望めば。今までの恩返し、には足りませんけれど、」
薄く笑う凪斗に老女はありがとうございます、と頭を下げる。それに凪斗も同じように頭を下げた。
「処理は、こちらのほうでしておきます。…孫をよろしくおねがいします」
再び、深く頭を下げた老女に凪斗は、一言わかりました、と告げる。
誠を探し出し、凪斗はこれからのことを話した。
ぐすぐす、と泣いている誠は多分殆ど聞いていないだろうがそれでも良い。まだ小学生の誠に全てを理解しろ、というほうが無理だ。
そして、凪斗は本題──先程まで誠の祖母と話していた話について誠へと尋ねた。
「まこちゃんは、どうする?おばあちゃんのところにいく?」
「凪斗お兄ちゃんは?」
「もし、まこちゃんがよければ。ボクのところでもいいよ」
「お兄ちゃん、ぼくといっしょにいてくれるの?」
涙で滲んだ瞳を誠は凪斗へと向ける。凪斗はその瞳に応えるように優しく微笑んで一つ頷いた。
それに、安心したのか誠は涙で濡れた顔にやっと笑顔を浮かべる。
「じゃあ、ぼくお兄ちゃんのところがいい。…お兄ちゃんの傍にいる」
ぎゅ、と凪斗の首にしがみつくように抱き着いた誠の背を撫でながら凪斗は笑った。
「うん、大丈夫。ボクとまこちゃんはずっといっしょだよ」
ずっといっしょ、と口の中でもう一度だけ呟いて。凪斗は、その笑みを更に深くした。
──ほら、ボクは【幸運】だ。こんなにも、しあわせだ。
全ては、このための【不運】であった。誠が生まれてから、ずっと望んでいたこと。
今まで狛枝の行動、思惑全てはこの【幸運】のためだった。
様々な【不運】を代償として得た【幸運】──狛枝にとっての絶対的な【希望】を手に入れるというたった一つの目的が果たされた時だった。
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