たった一巡りしかしていない少年の世界は万事がモノトーンであった。
普通というには悲しすぎた。平穏というには血が流れすぎた。
そして、平凡というには手にしたものが大きすぎた。
齢十にして両親を亡くし天涯孤独の身となった少年は、その対価としてその家の財産全てを手にした。
彼はいう。ボクはとても【幸運】だと。
飛行機事故に遭ったけど、助かった。両親は死んだけど、多額の財産と自由を手に入れた。
『幸せか』と問われれば、彼は笑うだろう。
「ボクはとても幸せだよ!」と。
しかし、彼の【幸運】にはひとつ、条件がある。それは、それに見合うだけの【不運】が代償として訪れる、というもの。
つまり、彼の大きな【幸運】には、それと同等の【不運】が必要だということだ。
それを証明するように、彼の周りの人々は次々に去っていった。その理由は様々だったが、周囲のものは決して彼を【幸運】とは認めなかった。
そんな彼が幾つか転々と流された後、新たな居場所となったのはそんな【幸運】など気にしないあまりにも普通の家族だった。
彼の両親の親友であったその夫婦は喜んで彼を受け入れたが、彼は自分のもつ、【幸運】がいつ作用するかと心の中で怯えていた。
平凡で平穏な普通の暮らし。初めて手に入れたそれを失うことを恐れるほど。喜びで受け入れてくれた夫婦を傷つけたくないと思うほど。少年はその生活を幸せだと思っていた。
しかし、いくらまてどもその【幸運】の代価は訪れない。
代償としての【不運】が作用しないことは有り得ない。そして、いつ【不運】が起こるかは、誰にもわからない。
──そう、楽観的に考えることなどできないぐらい、彼のその【幸運】は彼の奥底に根付いていた。
微温湯に浸かったような、しかし、色のない世界に少年はいた。
幸せだと感じている。だけど、朝が来るのが怖かった。
誰かが救ってくれるだろう、という希望的観測さえ抱けないほどに、彼の思考は自身の才能によって歪められていた。
凪斗が引き取られて、半年ほどたった日のことだった。
引き取ってくれた夫婦のもとに子が生まれた。
凪斗は、それをきっかけにして自分がどんな待遇を受けようが構わなかった。半年の幸運の代価としてもお釣りが来るだろう。
多分、それが、自身の幸せの終焉だと、そう信じていた。
しかしながら、赤子が生まれたことによって齎された変化は、凪斗を苛むものではなかった。
寧ろ、逆だった。
母親と共に家へと帰ってきた赤子は笑っていた。ただ、笑い、泣き、眠る。普通の子供。
その世話を夫婦は凪斗にも頼んだ。「お兄ちゃんになるんだよ」 そう、優しく微笑んで。
自分よりも幼いその子を傷つけそうで、壊してしまいそうで。それでも、凪斗は優しい夫婦の言葉を拒絶することはできなかった。
笑うその赤子の手を握り、声をかけて、硝子細工に接するように、細心の注意を払いながら接していた。
そして、赤子が生まれて幾月かの時を経たある日のことだった。
飛んできた石が窓を破る──そして、それは、赤子の近くへと落ちた。
【不運】というには、粗末なそれを、凪斗は【幸運】だと思った。当たっていたらきっと無事ではなかっただろう。
石が落ちてきたことで泣きだした赤子を、凪斗はいつものように恐る恐る抱き上げる。そして、その頭をそっと撫でた。
その瞬間、赤子は、凪斗をみていつものように笑った。そして、戸惑った凪斗の人差指を握り、凪斗を呼んだ。
──呼んだ、というのは、凪斗の思い込みかも知れない。
それでも赤子は、他の誰でもなく、確かに凪斗へ向かい言葉を発していた。
それを聞いた瞬間、凪斗は全身を走る感情に気づいた。──そして、思う。きっと、先程の【幸運】は、目の前の赤子が呼んだものだと。
だから、今まで凪斗や夫婦へと【不運】が振りかかることがなかったのではないか──ただの思いつきが、凪斗の中の真実へと変化する。凪斗の視界に入る世界が様々な色で彩られていく。
そして、自分の腕の中にいる存在が、ただの子供から、特別な存在となったのを自覚した時。
凪斗は、それが唯一、自身を救済する【希望】であると確信したのだった。
凪斗は自身の才能に振り回され、人生もその価値観さえも歪んでしまっていた。
そんな彼に与えられた光は《苗木誠》という名の一人の少女だった。
それから、凪斗は誰よりも特別だと認識するその少女がいれば大丈夫だと思うようになっていた。
自身の【不運】は、誠の【幸運】によって相殺され、害を齎すことはない。
なによりも、傍にいる、それだけで満たされるそんな存在が他にあるはずがないと凪斗は知っている。
だから、凪斗は自身に与えられた最大の祝福を決して手放さないとその時決めたのだった。
凪斗が苗木家を出て、狛枝の家に戻ったのは、高校生になってからだった。
本当ならば、はじめから凪斗は自分に遺された家に住むはずだった。
しかし、引き取られてからの何年かを苗木家で過ごしたのは、苗木夫婦が望んだことだった。
「誠のお兄ちゃんになってね」といって夫婦は凪斗にも誠の世話を任せた。
生まれたばかりの赤子の世話を凪斗に任せたのは、それが凪斗のためになると思ったからだった。
常に一歩引いた所にいる、養い子。血は繋がっていないけれど、大切な友人の遺した大切な子供。
凪斗が人と関わらないようにしているのを苗木夫婦は知っていた。それが彼の生い立ちから培われた性格ということも。
出来のいい子供、聞き分けのいい子供、優秀な子供──それが苗木夫婦は少しだけ悲しかった。
だから、少しでも子供らしさを、と思って赤子の世話を頼んだのだった。
凪斗は「良い兄」であった。誠に感化されたようによく笑うようになった。少なくとも、苗木夫婦にはそう見えた。
誠の生まれた二年後、また女の子が生まれた。そして、家族が増えて暫く経った時、凪斗は家を出ることを申し出たのだった。
そもそも凪斗は苗木家の養子ではない。そして、狛枝の家に戻ることもはじめから決まっていたことだ。
家を出るといっても、距離としては歩いて何分もかからない場所にある。
ただ帰る場所が違うだけ。高校生になった凪斗が自分から望んだこと自体を夫婦は祝福した。
会おうと思えば会える距離。これからも関係性は何ら変わらない。
「ごはんぐらいは食べにおいで」と笑った夫婦に、凪斗は同じように笑った。
凪斗に遺された家は一人暮らしをするには広いところだった。
しん、としたリビングに一人──今までの生活が恋しくなるぐらいには凪斗は苗木家での生活に愛着を感じていた。
けれど、家を出たのは目的遂行のために凪斗が望んだこと。
たった一つ、欲しい物を手に入れるための布石。
凪斗はそのたった一つを手にするという【幸運】のために、どのような【不運】であっても被る覚悟を既に持っている。
それが、たとえどんな結末を呼びこんだとしても、きっと望みが叶うだろう──凪斗はただ、自分自身の【幸運】を盲目的に信じていた。
そして、それは遠くない未来に訪れる。
自分を愛してくれた家族の死という【不運】を代償として。
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