しゃきんしゃきんと音をたてて、狐色の長い髪がぱらぱらと床へと落ちていく。
部屋にはクレアとアルバ以外、誰もいない。窓から夕陽の差し込むそこには、クレアの動かす鋏の音だけが響いていた。
さらさらと流れるようなそれが光を透かせばきれいな金色に輝くことをクレアは知っている。彼女の長い髪を結うのも、手入れをするのも長いこと従兄であるクレアにだけ与えられた特権だった。
幼い頃はまるで少年のように髪を短くしていたアルバだったけれど、クレアはずっと折角キレイな髪してるんだから伸ばせばいいのに、と思っていた。
けれど、可愛い可愛いその少女は、女の子らしくなどなりたくなかったのだろう。
髪は短く、着る服もクレアのお下がりや男の子らしいものを選んで、本当に少年のようだったし、きっと周囲は男の子だと思っていた。そう振舞っていた理由を、ずっと傍で見ていたクレアは知っているが、他に何人がそれを知っているのだろう。彼女はそうしなければダメだと思っていたのだ。そうさせたうちの一人は間違いなくクレアであるのだが。
兄弟のいないクレアにとって、アルバはまるで可愛い妹のような存在だった。守ってやらなければ、という庇護欲さえ抱いていた。特別で、大切で。彼女の目にうつるものは何よりきれいなものであればいいとずっと思っていたし、アルバは望まなかったけれど、本当はずっとオヒメサマのように可愛がってあげたかった。
だから、そんな彼女が髪を伸ばしてみたい、と言った時。クレアはとても喜んで。そして、その目に浮かぶ淡い色の感情を見つけて、少しだけ、寂しくなった。
クレアは知っているのだ。それが、誰のための行動であるかということを。
大切にしたかった彼女を、女の子にしたのが誰かということを。
それでも、ずっとずっと見てきたキレイな狐色が少しずつ伸びていくのをみることも、それを可愛らしく結ってあげることも、それを整えてあげることも、クレアは好きだった。その笑顔が、今の職業を決めたといっても過言ではないほど、クレアはアルバの髪に触れることが好きだった。
彼女の髪はクレアにとって、とても特別なものだった。その金色にも見える狐色も、軽いくせがついているけれど柔らかな感触も、そして触れる時に見せる表情も、終わったあとの笑顔も、どれもクレアの好きなものだった。それが他の誰かのために伸ばされていたものと知っていたとしても。
目の前の鏡越しに見えるアルバの表情は今は少し柔らかい。
触れてしまえばまるで壊れそうな彼女が、酷く暗い顔をして制服のままクレアの部屋へと来たのは丁度一時間ほど前のことだった。
一人暮らしをし始めたクレアであったけれど、従兄ということでアルバはその部屋の合鍵を持っていた。女子高生が独り者の男の部屋に入るなんて、と文句を言う幼馴染はいたけれど、クレアの両親は寧ろたまに様子を見てやってちょうだい、という態度だったからアルバは今でも合鍵を持って、週一程でクレアの部屋へと訪れる。そして食事を一緒にして近況を話して帰っていく。きっと近隣の住人には仲の良い兄妹だと認識されていることだろう。
そして今日、インターフォンの音を聞いて、玄関を開けた先にいる彼女を見てクレアは驚いた。
一つ目は、来客がアルバだったということだ。大体アルバは来る前に必ずクレアへと連絡を入れる。別に構わないとクレアは言うのだが、律儀に毎回アルバはクレアへとお伺いを立てるのだ。それが今日はなかったから、アルバが来るとは全く思考になかったせいだ。
二つ目は、アルバの様子だった。
肩を越えて背中まで流れていたはずの彼女の髪──二つにまとめていたらしいその髪の束は、クレアから向かって右側のほうが丁度耳の下ところでぷつりと切れている。その顔はまるで泣きそうなほど痛々しい。笑い顔も、泣き顔も、怒った顔も。クレアは今まで沢山のアルバの表情をみてきたけれど、こんなに感情を押し殺したような顔は、はじめてみた。
(どうしたの)
そう尋ねようとして、クレアはそっと喉まできた言葉を飲み込む。
理由なんて、聞かずともわかっている。彼女がここに一人で、こんな顔をして来るということ自体が答えのようなものだった。
「……おにいちゃん」
ぽつり、まるで昔のように震える声でアルバが呟いた。
大きくなって、アルバはクレアのことを『クレアさん』と呼ぶようになった。まるで他人のようなそれにクレアは少し切なくなったけれど、そこに響く感情は変わらなかったからすぐに慣れた。
「寒かったでしょ、ココア入れるから飲んだら髪キレイにしてあげるね」
クレアがそういえば、アルバは小さく笑って頷いた。
お邪魔します、そういって、高校指定のローファーをきちんと並べてクレアの後をついてくる。
ココアの粉を入れたカップに牛乳を注いで、電子レンジへと入れる。
一分、時間をセットして、入り口近くに立ち尽くす彼女へと近づいた。その手を握りしめて、無理やりソファへと引きずって行く。
「くれあさん?」
「そんなとこいない!ソファに座る!遠慮はダメだっていつもお兄さん言ってるだろー」
「え、えっとすみません」
「すみませんじゃないよー!」
ソファに腰をかけさせて、床に荷物を置けばタイミングよく電子レンジがクレアを呼んだ。
待っててね、とアルバへと声を掛けてレンジへと向かう。
中にいれた二つのカップはちゃんと温かくなっていた。それをゆっくりとスプーンでかき混ぜて、そっと口をつける。うん、おいしい。
納得の甘さに、クレアはカップを二つ持ってアルバの傍へと戻る。
「はい、どーぞ、クレアさん特製ココアだよー」
特製っていってもレンジいれただけじゃん!
そんなツッコミが脳内で聞こえたけれど、現実のアルバはただ俯いてありがとう、と微かに笑っただけだった。
こくりこくりとゆっくりココアを飲んでいるアルバへと、クレアは首を傾げて尋ねる。
「おいしい?」
「おいしいよ。……クレアさんのココア、ボクすきなんだ」
ソファに腰掛けてココアを飲むアルバは、そんなクレアの問いかけにぽつんと呟いて小さく笑った。まだいつもよりずっと沈んだままのアルバに、浮かぶのは只管に彼への恨み事だ。折角アルバといるのに、そんな沈んだ顔ばかりをさせたくなくて、クレアはいつものようにアルバへと笑いかけるのだ。
「だっろー?だってアルバくんへの愛一杯詰めてるから!おにーさんにもっと甘えなさい!」
そう言えば、一瞬ぽかん、とした後にアルバはくすくすと笑う。
よかった、笑えるんだ。
アルバの笑みをみて、クレアはほっと息をついた。
そして、その傍らで髪を切るための準備を続ける。
床のものを片付けて、ビニールを敷いて。椅子を置いて簡易美容室の出来上がりだ。
「準備出来たから、アルバくんが良い時に呼んでね」
「あ、じゃあここまで飲んだら」
まだカップにはココアが残っていたのだろう。アルバの指さしたそれをみて、クレアは笑って頷いた。
「これくらいで大丈夫?」
「わ、凄い……やっぱクレアさんさすがだね」
「そりゃ、本業ですから?」
鏡をアルバへと渡して前から後ろから、その出来を確認させる。
短くなってしまった髪をみながら、アルバはちょいちょいとその毛先を指で摘まんでいる。
「はい、お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
首に巻いていたケープを外して、そっとクレアが首周りを指で払うと、アルバも自分の服についた髪を手でぱっぱっと払う。
そうして再びまじまじと鏡を見て、もう切り落とされてしまった髪をそっと一房摘まむように手を動かした。
「もうずっと長かったから、慣れるまで時間かかかりそう」
むむむ、と眉根を寄せて髪をさらさらと指で梳くアルバに、クレアはそっと笑う。
「でもまあシャンプーとかは楽になるよ?」
「……そうだね、もう冬も終わるし丁度良かったかもしれない」
その動作に、言葉に。アルバの想いをクレアは思い知る。
約、十年。
彼女が彼を思って伸ばした髪はそれだけの想いが詰まったものだった。
しん、と沈黙が落ちる。
何があったのかを推測することは出来ても、所詮は推測でそれは真実ではないことをクレアは知っている。だけど、クレアは自分から聞き出そうとは思っていなかった。アルバが話したければ話せばいいし、口にするのも辛いと言うのならば、それでいい。
だって、クレアはそれを聞いたとしてもアルバのために出来ることなんて、髪を整えてあげることしかないのだから。
「……聞かないの?」
「アルバくんのことだもん、聞かなくてもわかるよ」
鏡越しに目を合わせてそっとアルバはクレアへと尋ねた。
夜色の瞳がひたりとクレアの空色の瞳を見つめている。
静かに微笑みをのせた表情をまるで見透かすようなその瞳に、クレアの胸がざわりと騒ぐ。いつだって、この年下の従妹に隠し事をするのはとてもむずかしい。
「シーたんのことそんなすき?」
ぽろり、と零れた言葉に、アルバは静かに瞳を伏せた。そうして、少しの時間のあと、再び瞳を開いて、一つ頷いてそっとその口元に笑みを浮かべた。
「……うん、好き」
その言葉に、その表情に、クレアは一瞬息を止めた。
ずっと見てきたはずだった。彼女の想いも知っていたはずだった。
けれど、知らない。こんな表情をする"少女"をクレアは知らない。
ずっと一緒だったはずの少女の初めて見るそんな表情に不思議な程、クレアは魅入っていた。
「本当はわかってるんだけどね、でもいつかは、って思ってるうちにこんななっちゃった」
「……」
「重いよね、……もう、ずっとだもん」
そう、言われたのだろうか。
長く積もり続けたその感情は、確かに重いものなのかもしれない。
幼いころからずっとずっと大切に抱いていたことをクレアは知っている。
少女自身が自覚さえしていない頃から、彼女がたった一人を特別と認識していたことを、クレアは知っているのだ。
「……でも、まだ好きなんだ」
未練がましいかなぁ。
そう言って、アルバはふと顔を上げる。鏡越しじゃないその目には涙が少し滲んでいて、その水面に揺れるクレアの姿が映っていた。
泣きそうに笑うアルバを見ていられなくて、クレアはそっとその目に掌を当てる。
「未練がましくなんてないよ」
彼女のキレイな感情を重いというのならば、なら彼のものはどうなのだろう。
アルバの抱く感情が誰に対してのどういうものか、ということを知っているように、彼がアルバへと抱く特別な感情をクレアは知っているのだ。
素直になれない彼と、自分に自身の持てない彼女が本当はお互いを特別に想っていて、ただ気づいていないだけだということも。
アルバの言う『いつか』、はクレアにとっても『いつか』だった。
いっそ、もっとはやく気づけば良かったのかもしれない。
それは、アルバが、なのか彼が、なのか。それとも、クレアが、なのかはわからないけれど。
それでもいい加減、ケリをつけなければならない。
クレアにとって一番大切なことは、自分の幼馴染たちが幸せであること、なのだから。
「大丈夫だよ」
そうクレアが笑えば、アルバも同じようにへにゃりと笑った。
その笑みをみて、大丈夫、ともう一度心の中で繰り返す。
きっと、アルバがこんな調子なのだから、向こうも同じように、いやそれ以上に落ち込んでいるだろう。暴力的で素直になれないけれど、その精神面は酷く脆い子供のような人だから。
(……でも、アルバくんがこっちきたんだったらシーたんどこいったかなぁ)
今更なことをクレアは考えて、心の中で頭をくるくると回す。
そうして、まあいっか、と思考を停止させた。
(理由がなんであろうと、今回のはシーたんが悪い)
「クレアさん?」
一人の世界へと入り込んでいたクレアを、アルバが現実へと引き戻す。
その短くなった髪を見て、クレアはもう一度頷いた。
(とりあえず、暫くシーたんにアルバくんは逢わせない)
二人の進まない関係を進める手助けをする決心はついたが、それとこれとは別問題だ。
職業柄、クレアは髪は女の命だと思っている。自分の進路を決めたアルバの髪は尚更のことだ。
どういう経緯でこうなったのか、まではわからないけれど、どうせ全部シオンが悪いに決まってる、と半ば八つ当たりめいた気持ちのまま決めつけた。
「アルバくん、大丈夫だよ。おにーさんにまかせなさい!」
大丈夫、と繰り返し告げるクレアに、アルバはよくわからないまま、こくりと素直に頷く。
その反応をみて、クレアはにこりと笑いながら、これからのことについて頭の片隅で考えていた。
*
→