「おつかれさ──」

ボクはその異変に扉をあけた瞬間に気づいた。
空気が違う。
それはたとえるならば、パワースポットとよばれる滝や神社や寺や山の空気。
それぐらいその部屋は澄んだ空気の満ちていた。ボクにはその部屋が今まで自分の通いつめた演習室だとは思えなくて、反射的に部屋を出て扉をしめる。
扉にかけてあるプレートに記されているのはボクの記憶どおり、誰が書いたのかわからない無駄に達筆な「民俗学」という文字だった。

間違いなく、ボクの属する民俗学系の演習室である。
もう一度、扉を開いた。やっぱり空気が澄んでいる。邪悪とか魔とか全く寄せ付けないほどキレイな空気。ささくれだっていた心もつかれた体も自然と癒される。
今日はここに来るまでいろんなものをつけて来たはずだが、あまりの澄明さにとんでしまったらしい。

「おつかれさまです、先輩」
「おつかれさまでーす」
「何やってんだ、お前」

部屋の中にいた、同期や後輩は気づいていないのだろう。
演習室は本をよんだりレポートを書いたり、レジュメを作成したりといつもどおりの光景だった。
違うのは、室内の空気と──。

(あれ…?)

「ねえ、日向クンそのこ」
「…ああ、こないだ行った調査で貰ったんだ」

小さく溜息をついたあと、日向クンは目の前に置いていた鉢を小さくつついた。
鉢には種類はよくわからないけど、小さな苗木が植わっている。
その鉢に向ける日向クンの瞳はとてもやさしい。

「いや、」

違って、と続けようとしてやめる。
視線は明らかに鉢に向いている──ということは、ボクのいうそのこ、は日向クンにとって鉢のことだ。
その思考を肯定するように、後輩の一人が言葉を放った。

「狛枝先輩、その鉢凄いんですよ!それ日向先輩が持ってきてからここのところラッキーばっかり!」

曰く、一限に遅刻しそうだったのに休講になってよかっただの。
曰く、珍しく教授からお褒めの言葉をもらっただの。
曰く、当たり付きのおかしが連続何回あたっただの。
曰く、事故にあいそうだったけど間一髪で助かっただの。

そんな些細な、でも確かな【幸運】がこの演習室に身を寄せる生徒に訪れているという。

「すごくないですか?だからその鉢が幸せ呼んでるんじゃないかって皆でいってるんです」
「…まあ、日向先輩が貰ってきた場所も場所ですしね。座敷わらし的な何かが憑いてるんじゃないですか」

「…へぇ、そうなんだ」

つまり、この鉢は、それこそ座敷わらしよろしくこの民俗学演習室に【幸運】を呼びこんでいるということだ。
それは、同時にこの場に似合わないこの静謐で清らかな空気はその鉢から生まれているということだろうか。
(…それは、違うよ、)
自問自答。否定という解を即座に弾きだしたのは、その空気の製造元が皆の注目を集める苗木とは思えなかったからだ。
ちらり、と視線をうつす──日向クンの膝の上にいる男の子、に。
にこにこと笑うその子はどう贔屓目にみたって、大学生とは思えない。中学生か、よくて高校生。つまるところ部外者だ。
しかし、そんな彼を誰も気にしていないようだった。そんな目の前の現実が導く答えなんてひとつしかない。
(──日向クンにも、他の皆にも、みえてないんだ)

それは即ち、その子が狛枝のよく知る、ちょっと外れた人だということだ。
狛枝はそういう体質だ。他の人の見ないものをきき、他の人の聞かない声を聞く。
祓うことも、救うこともできず、ただ「そこにいる」と認識ができるというだけの厄介なその体質。
霊感体質、と言い換えることのできるそれは、狛枝が生まれた時からもつ特別なものの一つだった。
悩み、呪い、苦しみはしたけれど、結局開き直るしかなかった。今ではなんとなく織り合わせをつけて生きている。
だけど、違う。今まで見てきた人たちとは絶対的に異なるその子に狛枝の意識は惹かれていた。
苗木じゃない。澄んだ空気の真ん中は、空気清浄機は彼だ。
そう思った瞬間、狛枝はよくわからない感情が湧き上がるのを感じた。
どろり、と溢れだすようなそれが狛枝を乱す。わからない。なんだろう。

「お前にやろうと思って」
「え?」

唐突な、友人の言葉に現実に引き戻される。
後輩がちょっとした批難の声を上げるのが聞こえる。
そして、え?と男の子が表情を変えたのがわかった。

「ほら、お前色々災難に巻き込まれるだろ?…まあ、気休めかも知れないが。幸運の苗木らしいし、そのご利益もちゃんと出てるみたいだし」

その言葉に、ボクと日向クンを交互に見る男の子。
ボクが、ありがとう、と呟くと男の子は、日向クンに向かってぺこり、と頭を下げて、次にボクに向かって同じように頭を下げた。

"ありがとう"

聞こえた声。男の子の声。
そして彼は日向クンの膝からおりて、ボクの近くに寄ってくる。なんというか、ものすごい。
空気が違う。ぜんぜん違う。
例えるなら、聖域といわれる空間にいるような感覚に陥りそうなそれに、ボクが呆然としていると、日向クンは呆れたようにこっちを見ていた。
後輩たちは、もう話題は終了した、とばかりに各々の作業に入っている。

「…それ、本物か」

ぼそり、と日向クンが小声で尋ねる。
ボクは何も言わずに頷いた。



*