(最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである)










時刻は二三時過ぎ。朝が早かったから今日はいつもより早く布団へ入ろうとしていた時だった。
呼鈴が鳴った。思わず背筋がぴんと伸びる。この時間帯の来訪者に心当たりなどたった一人しか居ない。
それなのに、その音に驚いてしまったのは予想していなかったからだ。連日ここに来るなんて珍しいにも程がある。
とはいえ、外に放置するわけにもいかなくて、狛枝は玄関へ向かった。
鍵を開けて、扉を開く。果してそこにいたのは、未来機関の『希望』苗木誠だった。
「……何の用?」
「いつでも来ていいっていったのキミじゃないか」
用なんて一つしかないことはお互いにわかっているはずだ。それなのに問いかける狛枝に、苗木は少しだけむっとしたような声で返した。
コートの下の黒いスーツから、直接ここにきたことが見て取れる。少しだけ朱に染まった頬とアルコール独特の匂いで、今迄なにをしていたかの予想は大体ついた。
苗木はおじゃまします、と狛枝のことばも待たずに足を踏み入れる。そして、慣れた手つきで鍵を掛けた。
「明日、ボク仕事なんだけど」
「大丈夫ボクも仕事だから。起こして欲しければ狛枝クンのいい時間に起こすけど」
遠回しな文句をスルーして、苗木が狛枝の首に手を回す。そのまま、少しだけ背伸びをして近づいた口からはアルコールの匂いがした。
少しだけ開いた口から入ってくる苗木の舌が熱い。柔らかな感触と、混ざる吐息。伝わる熱さとアルコールの匂いが狛枝の欲をぐらりと動かす。
この酔っ払いめ、と思いながらその腰と頭に手を回す。粘着質な音が聞こえてきたのは、割とすぐだった。
「……なんだかんだいって、狛枝クンこたえてくれるよね」
その腔内を十分に味わってから、唇を離した。舌先からつうと繋がった銀糸がぷつりと切れて苗木の口から垂れている。
それをぼんやりと眺めていた狛枝に、苗木はくすりと笑ってやさしいね、と呟いた。
「ボクを追い出しもしないしさ」
「……迷い猫保護だと思えば別に気にならないよ」
追い出すのは簡単だ。だけど、追い出して苗木の身に何かあればきっと大事になる。狛枝にとってそれが煩わしいだけだった。
呆れたような顔をしている狛枝に、苗木はまだ笑っていた。何が楽しいのだろう、と思うけれど酔っぱらいに尋ねても無駄だと諦める。
「シャワー借りるね」
暫く笑ってからそれだけいって、苗木は勝手知ったるとばかりに脱衣所へと向かった。それを見送ってから狛枝は自室へと戻る。
電気をつけようと思ったけれど、窓の外から流れこむ月の光が明るかったからやめた。することといったら身体を繋げるだけだったから、この程度で十分だった。
どうせ寝る前だったのだから、やることもない。枕元の煙草に手をのばし、火を付けてその煙で肺を満たす。
ゆっくりと紫煙を吐き出しながら狛枝は、ただ、ぼんやりと苗木が来るのを待っていた。


この不毛な関係が始まってからもう何年だろうか、と頭の片隅で考える。
目覚めてからのことを頭の中で上げ連ねていけば、はじめて触れた時から数えてもう二年以上が過ぎていたことに今更ながら気づいた。
先程のキスの後の苗木の顔を思い出す。これだけの月日が流れているのだ、彼は状況に適応することに優れている。そこまで考えて、あの顔をさせているのが自分自身だと思い知らされた。
思い出の中の苗木誠と、今日のように狛枝の家へとやって来る苗木を、狛枝は別人であると考えている。
あのような顔を、あの頃の苗木ならば絶対にしなかっただろう。それ以前に、彼はノーマルだ。男に抱かれるなんて有り得ない。
じゃあどうして、こうやって苗木が狛枝の家に抱かれるために来ているかといえば一種の逃避だ。
ただの幸運として希望ヶ峰学園にいた普通の少年は、あの絶望に満ち満ちたコロシアイ生活の果てに希望と呼ばれるようになった。
生き残りは、彼を除いて他に五人いたけれど、中継を見ていた人たちが希望と呼んだのは、苗木誠ただ一人だった。
葉隠はその普段の態度から、腐川はその性格ともう一つの人格が殺人者であるということ。朝日奈は、皆を巻き込んだ無理心中未遂、十神はその傲慢な態度と、事件現場を荒らすという非人道な行いから。
そして、霧切は何を考えているのかわからないことと、もう一つ。苗木誠を見捨てたということから希望と呼ばれるには値しなかった。
絶望の化身である彼女にさえ差し伸べられた救いの手も、どんな絶望の中でも輝き続ける希望の光を灯す瞳も。絶望をも撃ち破り、希望を振りまく言弾を生み出すその唇も。
中継を通してそれらを見ていた者たちの思いが、一般人であった苗木誠を『超高校級の希望』へと変えてしまった。
けれど、友人たちの命や思い出、それに加えて『希望』という旗印に寄せられる感情を背負うには、彼は多分真面目すぎたし、優しすぎたのだ。
彼の周囲にいる者たちは多かれ少なかれその瞳に、『希望』への期待を寄せていた。
それは救済だったり、感謝だったり、罪悪感だったりと人によって様々だったけれどそれらも集まればただの重圧だ。
それを捨てられず、だからこそ彼は苦しんでいた。それを偶然狛枝が見てしまったのが、多分はじまりだった。

狛枝が目覚めるにあたり、日向達 ── つまり先に目覚めていたプログラム被験者一同には一番の懸念があった。それは狛枝の尋常でない希望への執着だ。
希望の為に死を選ぶほど盲目的に希望を愛する狛枝が、目の前に現れた確かな『超高校級の希望』へと何をしでかすか。
しかし、彼等の心配を裏切り、狛枝は『はじめまして』と挨拶した『超高校級の希望』 ── 苗木誠へとなんら興味をしめすことはなかった。
寧ろ、狛枝は、『キミが希望?そんなの認めないよ』と言い切った。安堵と新たなる懸念。狛枝が苗木を害するのではないかというそれは、そのまま苗木と狛枝の間の距離となった。
必要最低限の会話と、対面。そこで交わされる応酬は、あのコロシアイの中で『予備学科』だった日向創へ対する態度よりは幾分かマシなものだったけれど、決して友好的といえるものではなかった。
表面上は穏やかに話している。けれど、狛枝の吐き出す言葉は、希望である苗木を否定するものであった。それが悪い方向へと向かわなかった一番の理由は苗木の対応だろう。
言いたい放題の狛枝を、苗木はさらりと受け流す。それが狛枝には面白くなかった。ムキになって反論してくれればいいと思っていた。
狛枝は、希望ではないくせに希望として扱われている苗木がただ気に入らなかったのだ。
そして、そんな苗木を希望として見る他のものも同様に気に入らなかった。

それは狛枝が目覚めて、ニ年と少しの時間が過ぎた頃のことだった。
狛枝は、未来機関の一四支部。つまりは、あのコロシアイ学園生活の生き残りで固められた支部へと所属していた。
その時の構成員は、狛枝、霧切、十神、朝日奈、腐川、葉隠そして、日向の七人だった。
未来機関は、狛枝の【幸運】以上に、対価となる【不運】を。そしてその盲目的な希望信仰と狛枝自身の思考を恐れていた。
狛枝を知る希望ヶ峰学園出身者たちは、そんな彼をまともに扱える自身はないと自らの支部へと彼が来るのを拒否した。巻き込まれたら最悪の場合死だ。そうでなくても、彼の琴線がどこにあるか誰も知らない。
普段がどんなに穏やかで好青年に見えたとしても、絶望時代以前の彼を知る者たちは狛枝凪斗という存在を恐れた。だからこそ、体のいい厄介払いとして一四支部への所属が決まった。
日向の所属理由も中身は異なるけれど、理由はとても良く似ていた。つまりは、一四支部以外の支部が彼を受け入れることを拒否したということ。
目覚めた頃に一四支部の代表扱いだった苗木は、狛枝達が未来機関に所属する頃にはいなかった。噂で聞いた話によると、絶望の残党を匿った罰というのが表向きの理由らしい。
けれど、本当の理由は多分違う。全世界に認められた希望として、扱いやすい偶像として、きっと上層部は苗木誠を手元に置いておきたかったのだ。
そのために、問題を起こさないよう仲間からは遠ざけた。逃げることができないように「希望」という名を世間へとばら撒いた。
『超高校級の希望』 ── 今では枕もとれて、単に希望と呼ばれているけれど ── それは、苗木誠を縛る鎖の名だ。
そんな偶像として作り上げられた希望が苗木誠だ。
そして狛枝は結論づけた。やっぱり、苗木誠は希望では有り得ない。

だから彼が暗い部屋で蹲っているのを見た時に狛枝は思ったのだ。
誂えられた希望にはお似合いの末路だ、と。
『……やぁ久し振りだね』
『だ、れ……?──なん、だ狛枝クン、か』
体を小さくして座り込む苗木の前に立ち、声をかける。ぼんやりと頭をあげた苗木は、狛枝の姿をみとめて小さく息をついた。
泣いていると思っていたのに宛が外れた。安堵したような顔をみて、狛枝は不機嫌そうに息をつく。
『辛いんでしょう?キミは普通の子だもんね。希望なんて分不相応な立場、荷が重いでしょう』
『……そう、だね』
いつもと変わらずに希望としての苗木を否定する言葉を口にした狛枝は、そこで肯定の返事が返って来たことに僅かながら驚いた。
いつも苗木は、その言葉を曖昧に受け流すだけだったから。
『狛枝クンのいうとおりだよ。ボクは皆がいうような立派な人間じゃない』
俯いて、ゆるゆると苗木は言葉を吐き出していく。それはまるで、体の奥から絞り出すような悲鳴のようにも聞こえた。
『ねぇ、希望ってなんだろう。皆がボクを希望と呼ぶ。だけど、どうしてだろうね。そう呼ばれる度にボクはどこにいるのかわからなくなるんだ』
『……でも、キミは希望になったんだ。あのコロシアイを生き残って』
そこにどんな思惑があったとしても、苗木が未来機関の掲げる希望であることは確かだ。
苗木誠は希望に相応しくない。そう口にしているけれど、狛枝も理解っている。
今の情勢において、未来機関、そして世界には希望という形に見える偶像が必要で、それに最も適した存在が苗木だったということを。
それは狛枝の思う希望ではないと、理解していても納得できていなかったから、反発していたけれど。
普通過ぎるほど普通である苗木が、狛枝が最も愛する希望と呼ばれている。
だから、気に入らない。だから、腹が立つ。
それでも、彼を憎んでいるわけではないのだ。
こんなふうに落ち込む姿を見るのは初めてだった。それをみて、酷い言葉を投げかけることは狛枝には出来なかった。
『誰がどう思おうと、キミは未来機関が掲げる希望だ』
『……』
『そしてキミは皆の望む希望に ── 』
狛枝の言葉を打ち切るように苗木は口を開いた。
『ボクは、そんな立派なものじゃ、ない』
『そうだね、キミは希望なんかじゃない』
その言葉に、苗木は顔をあげる。そしてほっとしたように笑った。
『……ありがとう』
その言葉に込められた意味がわからないほど、狛枝も鈍くはない。
そして、今更苗木が狛枝の顔をみて安堵の息をついた理由を理解する。
あれだけ嫌味にも似た言葉を投げかけていたのだ。苗木が狛枝をどう思っているかなんて考えるまでもないと思っていた。
けれど、こうやって苗木と話してわかった。きっと、今となっては苗木を希望としてみないのは狛枝だけなのだ。
だから、こうやって弱音を吐くことができる。こうやって気を張ることなく、苗木誠でいられる。
希望であれ、と望むものたちの前では本当の自分を見せるわけにはいかないと思っているのだろう。

『泣きたいの?』
『……え?』
『泣けないんでしょう、キミ』
それは可哀想の彼のための優しさだったのか、哀れみだったのか。
縋るような目をした苗木を放っておけなかっただけかもしれない。
『忘れたいんだったら忘れさせてあげるけど』
その呟きに、苗木はただ瞳を揺らした。
沈黙を肯定と捉えて、狛枝は腕を引き寄せる。そして後ろから頚椎へと衝撃を与えた。
小さい呻き声と共に、苗木の体からは力が抜ける。思ってた以上の重みに自分の浅はかさを呪った。
それでもこの選択を、間違ったとは思わなかったことが狛枝自身、不思議だった。

部屋に連れ込んだのは都合が良かったからだ。そして気絶させたのも同様に。
彼には口実が必要だ。希望でないくせに希望を演じる彼のことは気に入らなかったけれど、それが今の組織には必要なものだと知っていたからと茶番を演出する。
目を閉じたままの苗木を自分のベッドに落とすようにして横にした。
未来機関の黒いスーツは、まだ似合わない。目を閉じていると尚更感じる幼さが、狛枝の胸を騒がせる。
顔は嫌いじゃない。狛枝よりも頭一つ分小さく、華奢なその身体も許容範囲だ。
ただ一つ心配なのは反応するかどうかだったけれど、この分ならば大丈夫そうだ。
寝ている相手に無理強いするような趣味はないから、とりあえずスーツを脱がしてやる。
黒色のジャケットをハンガーに掛けて、下も脱がせてやる。服なんかのことで、あとから文句を言われるのも面白くない。
シャツはどうしようか、と思ったけれど、これはこれでそういう状況っぽくていいんじゃないかと一人で納得した。
ローションなんて都合のいいものはないから、と代わりになりそうなものを探しに行く。
本当ならば強姦のように犯してやったほうがいいのかもしれないけれど、なんとなくそれは気が引けた。
台所には油があったはず、と戸棚を探る。潤滑油、というぐらいだからありだろう。
三つ目の戸棚の奥に転がっていた目当てのものを手に狛枝は部屋へと戻った。それは以前、日向が家に来て料理を作った時に置いていったオリーブオイル。
持って帰ればいいのに、と漏らした狛枝に叱りつけるように料理の一つや二つ器用だからできるだろ、と残されたものの一つだった。
苗木の意識はまだ戻らない。
とりあえずとばかりに、苗木のシャツのボタンをはずす。見えた肌には小さな傷が付いていて、それなりに過酷な状況におかれている希望のことを狛枝は思った。


いつだっただろうか。情事の後、他の関係を尋ねた狛枝に苗木はただ否定した。
『すきなことかいたんじゃないの』
たとえ好きな人がいたとしても、それが自由になるとは限らないけれど。苗木は未来機関の大事な人形だ。
きっとその利用価値がある間は、その思いさえ自由にはならない。
けれど、苗木には特別な相手がいたはずだ。彼女ならば、きっと未来機関も認めざるをえないだろう。
そんな思いで口に出した名前は、その前に苗木の唇に封じられた。
黙れ、と目がそう言っている。それを無視して、狛枝はその名前を呼ぶことなく話を続けた。
『……あの子とは、そういうのないの』
『……霧切さんはただボクに罪悪感を抱いてるだけなんだよ』
そう呟いた狛枝に、諦めたのか苗木は小さく目を伏せて否定を返す。
『ボクはそうは思っていないけど、霧切さんは忘れてないんだ。あの時の『裏切り』とボクを『希望』と呼んだこと』
報われないな、と狛枝は思った。
たった一つの事柄で、有り得た筈の未来は崩れる。人の関係なんてそんなものだ。
この二人の場合は、あのコロシアイによって生じた擦れ違いだ。
霧切の本心など狛枝には推測しかできないけれど、たまに漏らす言葉の端々には苗木への思いが見えていた。
そこには、確かに苗木のいうように罪悪感もあったけれど、それ以上に彼自身への情が溢れていた。
そんなことも気付けないほどに、多分苗木は歪んでいるのだろう。
コロシアイを経て、未来機関に入って、希望という役割を与えられて。
様々なものを背負って、引き摺って、抱え込んで。
様々な枠を押し付けられて、彼のまっすぐさは歪んで、何もかもを取り込んで。
そして、多分今の形に落ち着いてしまったのだ。それは元の形ととても良く似ていて、だから気づかれにくいのだろうと狛枝は思っている。
ふと隣をみると彼はもう眠りに落ちていた。せめて、眠りの中だけでも昔のように笑えていればいい。

それからずっと関係は続いていた。
それぞれの思惑はあったけれど、多分身体の相性が良かったのが一番の理由だろうと狛枝は思っている。
狛枝が苗木を連れ込む時もあったし、苗木が狛枝の家に来ることもあった。
狛枝が苗木を抱くのは、他の女を相手にするよりも楽で容易く欲を解消できるからだった。
苗木とのセックスは、まるで底なしの沼のようだと思う。
どろどろとした暖かさにのまれていって、多分もう抜け出せない。
激しいわけではない、ただ揺蕩うような温さが心地よかった。
まるで中毒のようなそれに、いつしか狛枝は嵌っていたのだろう。
囚われたのは、どっちだったのだろうか。


気がつけば手元の灰皿には吸殻が増えていた。手元の一本をそれに擦りつけるようにして、同じゴミ屑へと変える。
「狛枝クン」
いつの間にか戻ってきていた苗木を見ると、呆れたような目で狛枝を見ていた。
悪趣味だね、いつか苗木はそういった。自分で自分の体傷めつけて何が楽しいの。
それは多分、煙草のことだけではなく、狛枝の今までの行動についての言葉だったのかもしれない。狛枝は自身を平気で傷付ける。
それはたとえば、左腕。
狛枝の左腕は義手だ。それは目覚めてから一年後。未来機関に入るにあたってつけたものだった。
元の狛枝の腕はというと、狛枝自身が絶望を取り込むために切り落とした。結局、それに耐え切れなくなってまた切り落としたけれど。
それは、自身の信念と理論に基づいた行動だった。狛枝としては意味がちゃんとあったのだけれども、苗木には理解しかねるものだったらしい。
苗木にとって、腕を切り落とすことも喫煙も自分で自分を害するというところで同じにみえるのだろうし、そしてそれを見ていられないからこそこうやって苦言を零すのだ。
全く流石『希望』様だね、なんて心の中で嗤ってみせる。
「結構長かったね」
「そこまで時間かかってないと思うんだけど」
気づかないうちに増えていた吸殻から、適当なことを呟いた。
苗木は、呆れたように呟いて狛枝の隣に腰をおろす。掠めるように触れた唇。
「煙草味、」
「嫌ならしなきゃいいのに」
触れるだけのそれに苗木は眉を顰めて呟いた。いい加減わかっているだろうに、それでもキスをする苗木を狛枝は呆れたように見遣る。
灰皿に溜まった紙屑へと視線を向け、苗木はいつもの言葉を口にする。
「もう中毒だよね、それ」
人にはいえないよ、とは言わなかった。
苗木がこうやってこの家に来るのも、狛枝の煙草と同様に逃避でしかない。
狛枝の逃避先が何でもいいように、多分苗木も誰でもいいのだろう。それこそ、苗木をただの"苗木誠"として見るものであれば。
それが今の苗木にとって狛枝だというだけ。たったそれだけの理由でこうやって苗木は狛枝の家に訪れる。
続くだろう言葉を遮るように、今度は狛枝から口付けた。
先程の触れるだけのものとは違う欲に塗れたそのキスに、はじめは抵抗をしていた苗木も、諦めたのかその目を閉じていた。
唇を舌で割って、歯列をなぞる。次第に深くなっていく口づけに、時折吐息と水音が混ざる。
甘さの欠片もないそれは、二人の関係に似ていた。
「……こまえだくん」
唇が離れた後、口から漏れた批難するような声も無視して狛枝はそのままベッドへと苗木を転がした。
首筋に顔を埋めるとふわりと甘い匂いがした。自分が使っているものと同じのはずだから同じ匂いがするはずだ。それなのに、どうしてこうも甘い匂いがするのだろうか。
不思議に思って狛枝は苗木の首筋に舌を這わせた。当たり前だけれども、甘さを感じるはずがない。それでも、狛枝は舌を這わせることをやめなかった。
そんな狛枝の行為に苗木はあからさまな溜息をつく。そして、その細い腕を狛枝の背に回した。

「声、出しなよ、もっとなけばいいのに、」
ぽろぽろとその大きな瞳から零れ落ちるようにして流れる涙を舌で舐めとりながら、狛枝は呟いた。
首を横に降るのは、否定か拒絶か。そんな苗木の態度が面白くなくて、狛枝は動きを更に激しくする。
締め付けてくる感触も、背に回された腕の力もいつもと何らかわりはない。
慣れた、というぐらいに繰り返された行為はそれでも確かな快楽へと狛枝を導く。
認めてはいないけれど、希望と呼ばれる彼を組み敷くことで屑のような矜持も満たされる。
「いつまで、もつかな」
激しい律動を繰り返すと、喘ぐような息の中に快楽に流される声も確かに聞こえてくる。
奥に付き入れて、一番反応の大きいそこに擦り付けるように動く。
そして、とろとろとした先走りと唾液でぐちゃぐちゃになっている苗木の中心を掴むと、堪えきれなかったのだろう、高い嬌声が響いた。
それからは、先程までとは違い面白いほどに反応が返ってくるようになった。
赤く主張する乳首に触れ、性器の先端に爪を立てる。その度に苗木は口にしていた言葉がもう、なのかもっと、なのかそれすらわからないほどに狛枝自身も熱くなっていた。
顔をくしゃりと歪めて涙を流す苗木に口付ける。その瞬間、締め付けが一際強くなって、苗木の中で狛枝の欲が弾けた。
同じように、苗木の性器も精を吐き出していた。白いべたべたした性器が苗木の腹を汚している。
目元を腕で覆い隠して、はぁはぁと荒い息をついている苗木を見ていると、いつもと同じように微かな蟠りを感じた。
そして、そんな苗木を見ていられなくてその場を後にするのもまたいつものことだった。

狛枝がシャワーを浴びて戻ってきた時、視線は真っ直ぐに月光に照らされている苗木へと向かう。
気を失ったように横たわっている苗木の頬には涙のあとが残っていた。
狛枝は苗木の横に腰掛けてそれを指でなぞる。その瞬間、苗木の目は薄く開いた。
「……あがったんだ、」
ぽそ、と呟いて苗木は目を擦りながら立ち上がる。ぽてぽてと扉のほうへと歩きながら、苗木は「シャワーいってくるね」と呟いた。
その後姿を何も言わず見送って、狛枝はそのまま後ろへと倒れこんだ。
ぼんやりと考えたのはやはり苗木のことだった。布団についた匂いがそうさせるのだろうか。
特別みたいだ、と心の中でひっそりと思って、小さく首を振る。
いや、そうじゃない。特別みたい、ではなく紛れもなく特別なのだ。
希望。世界の希望 ── それは狛枝の望んでいたものとは違うものだったけれど。
それでも、彼が希望であることは紛れもない事実で。だからこそ狛枝にとって苗木は特別なのだろう。
そこにある感情が何か、なんて多分気づかないほうがいい。
同情と憐れみと、この関係を続けるにはそれだけで十分足りるだろうから。






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