それは酷い大雨の夜のことだった。
空から落ちる水音は煩く屋根を叩く。あまりのそれに、狛枝が気づかなかったのも無理はないだろう。
正しくは、途中から気づいていたのだが放置した──今は人に会いたくなかった。
扉を叩く音が止む。このまま、戻ってくれないだろうか──そんな狛枝の微かな願いは裏切られ、ドアノブが回り扉が開く。
それを目視で確認した時、狛枝は鍵を掛け忘れていた自分の不運を呪った。
「…入るぞ」
入ってきたのは、日向だった。濡れた身体と据わった目から、狛枝には彼がどうしてこのコテージに来たか悟る。
そんな酷い有様なのに律儀に扉を叩いたのは、来訪者としての最低限の礼儀のためだろうか。
できることなら諦めて戻ってくれていたほうが良かったのに。心の中で毒づきながら狛枝は無理矢理に笑顔を作り上げた。
「やぁ、日向クン。この雨の中来てくれたのは嬉しいけれど、ボクは今キミなんかと仲良くお話をしたい気分じゃないんだ」
「俺は帰らないからな」
狛枝の拒絶を、まるで刃で切り捨てるように拒絶で返した日向の目は揺るがない。その瞳は真っ直ぐに狛枝へとむけられたままだった。
その視線に込められた日向の思いは、隠そうともしていないのだろう。痛いくらいに、狛枝へと伝わってきた。
わかりやすいそれに狛枝は酷く苛つく。しかし、狛枝はそれを日向に知らしめるつもりはなかった。
「へぇ?予備学科…じゃないか、『超高校級の希望』である日向創クンがボクのような最低で劣悪な奴にどんな用があるっていうの?」
わかりやすい嫌味にも、日向はただ眉を顰めるだけだった。いっそどなってくれたらいいのに。そんな事を思う。
「お前、記憶ないって…なんであんな嘘をついたんだ」
日向の怒りを込めた言葉は、狛枝の苛立ちに油を注ぐようなものだった。
関係ないでしょ、たかが予備学科のキミなんかに。それが嘘だろうが本当だろうがキミにはどうでもいい話でしょ?
そんな言葉を飲み込んで、狛枝は口端を軽く釣り上げる。
「やだな、日向クン。嘘じゃないって」
へらり、と笑う狛枝に日向の表情が和らぐことはない。寧ろその言葉で更にその顔は険しくなる。
「…でも、お前は」
「ねぇ、なんで日向クンそんなに怒ってるのさ」
理解が出来ない、というように狛枝は息をつく。いい加減にして欲しい、という態度は狛枝の本音だ。
会いたくない。話したくない。同じ空間にいることすら苛立ちの要因に成り得る存在。
狛枝にとって、プログラムの中で一番近くにいた相手が日向である。しかし、目覚めてからというもの、それは多分二番目に遠ざけたい相手へと変わっていた。
最初から素の状態を曝け出しながら日向と新たな関係を結んでいた狛枝だったが、心の中では常にそう思っている。
友人だと思う心に嘘はない。それでも、狛枝は日向と話していると苛々する。
その原因は様々だったが、端的に言うと、日向創という存在自体が気に食わないということだった。
そしてそれを隠すことなく振る舞い、結果として友人としての関係が深まるのは不運か幸運か。
嫌いではないので、多分幸運なのだろう。狛枝の唯一の友人が、眼前の日向創であることは間違いない事実だ。
暫くの沈黙の後、日向は押し潰すような声で告白した。
「…、俺は苗木が好きだ」
ああやっぱり。日向の告白をきいて、狛枝がはじめに思ったのはそれだった。
日向は苗木の前では終始頼れる、優しい友人で在り続けた。前を向いて走り続ける苗木が仕事を離れ頼る事ができる相手──霧切や十神はやはり、同じ未来機関の仲間というのが先に来るようだ──など、今や日向ぐらいしかいない。苗木の前ではそのスタンスを崩すことのなかった日向の思いを知るものはおそらく殆どいないだろう。
けれど、目は口程によく語る。日向の瞳に純粋でそれでいていっそ暴力的な欲を孕んだ色が浮かんでいることに狛枝は気づいていた。
理由は簡単だ──同じ目をして狛枝が苗木を見ていることを自認していたから。
同様の理由から未来機関の二人──霧切響子、十神白夜もそれに気づいている。
しかし、日向は行動を起こさなかった。ただ、苗木の友人という位置に甘んじていた。
そんな日向の選択を狛枝は羨ましいとすら思っている──だって、友人で在り続けることすら、狛枝には酷く難しい。狛枝は自分が酷く欲深いことを知っている。
「…へぇ、それで?」
「告白、した」
ぐらり、と世界が揺らぐ。狛枝は、日向が今日までの安穏とした場所を捨ててまでその思いを告げることを予想していなかった。
しかし、狛枝は眩暈さえするようなその告白にも動じていない風を装う。一瞬消えた笑みを再び貼り付けて、狛枝は浮かんだ考えを切り捨てた。
「へぇ…?『超高校級の希望』同士とはいえ、元予備学科で、絶望の残党であるキミなんかが苗木クンを好きになるなんて、烏滸がましいと思わないの?」
その本音はそのまま、狛枝自身へと跳ね返る。
『超高校級の幸運』同士とはいえ、方や『超高校級の希望』、かたや絶望の残党だ。その比較の結果が、狛枝の行動を肯定する。
「苗木は、そんなふうに俺たちをみたりしない」
「はぁ?何言ってるの?そうだとして、キミが苗木クンを好きだろうが、告白しようがボクになんの関係があるっていうのさ」
「…狛枝、」
「話はそれだけ?それなら帰ってよ。もう、終わったんでしょ?」
さあ、と追い立てるような狛枝に、日向は一言、まだだ、と呟く。
そして、絞りだすように狛枝へと言葉を投げた。
「苗木のいう、好きな人ってお前だろ」
その言葉にじくり、と胸が痛む。同時に浮かぶ呆れる程の嫉妬と、昏い愉悦。
彼が今でも自分を思ってくれているのは、知っている。
しかし、絶望の為に彼を切り捨てた自分が、今更どんな顔をして彼に相対すればいいというのだろうか。
彼は希望だ。誰か一人の、ではない。皆の希望。そんな彼が絶望の残党である狛枝を選ぶということは許されない。
だけど、一度手にした幸福を思えば、欲の重さから友人にすらなれない。手に入れられないのならば、最初から諦めればいい。そんな単純な思考回路から狛枝は自らの記憶を偽った。
苗木誠を知らない。彼の存在は自分には必要ない──そんな風にして、伸ばされる手を振り払った。
しかし、自分で選んだくせに苗木の近くにいるものに嫉妬する。苗木の思う自分にすら苛立つ。殺意さえ抱くほどのそれに、狛枝は自嘲する。
離れたい、けれど、離れないでほしい。話したくない、しかし、その声を聞いていたい。
二律背反、矛盾した思い──それを狛枝は晒すことはなかった。そして、彼に興味のない振りをし続けていた。
苗木が、狛枝へと話をするとき。同じ空間にいる時。ふと、過去の情景と重なる時がある。
そんな時、狛枝は思うのだ。
──彼の思いを一身に受けていたのは自分だった。今も、その残滓を追いかけて、彼は自分を見ている。
それが、狛枝の歪んだ愛情を充足させる。
酷いという自覚はある。彼の好意を利用して、満足しているだけだ。
──ああ、それでも彼はまだこんな自分を好きだというのか。
狛枝は哂いだしたくなる衝動をこらえながら、日向へと言葉を投げかける。
「へぇ、そうなの?苗木クンのような『超高校級の希望』がボクを好きだなんて。ああ、でも苗木クンも趣味が悪いのかな。ボクのようなゴミ屑のような奴を好きとかさぁ」
「否定しないんだな」
「…日向クンがいったんでしょ?」
日向の言葉に、狛枝は自身の失言を悟る。しまった、と思うがもう遅い。
きっと日向は誤魔化されてくれない。そうして狛枝が奥へと仕舞いこんだはずの何かを無理矢理に引きずり出すのだ。
だから、日向とは会いたくなかった。うまく流せると思っていた自身の浅慮さが憎い。
「どうして、お前は…苗木のことが好きなくせに」
「彼は『超高校級の希望』だからね、希望を愛し、希望を求めるボクが彼を愛するのは当然のことでしょう」
狛枝の言葉に、日向はそれは、違うぞ、と口の中で呟いた。
「俺と同じように、苗木を見てるくせに」
「…意外とよくみてるんだね、日向クン」
欲を孕んだ目。嫉妬に狂った男の目。それは、狛枝がよく知っている色をしていた。
口端を釣り上げて、狛枝は右手で頭をがり、と掻く。
「でも、さぁ。思わない?希望である彼が絶望であるボクらをゆるすなんてダメだ。苗木クンはもっとその希望を輝かせるために多くの絶望を食らわなくちゃいけないんだ。だから、好きとか嫌いとか、そんなのどうでもいいんだよ。ボクは苗木クンの希望が一等輝くのをみたいだけなんだから、近づきたいなんて思っちゃダメなんだ。ねぇ、日向クン。苗木クンの希望を近くで見るためのサポートはしたいけれど、ボクがそれを邪魔することがあっちゃあいけないんだよ?だからさぁ、本当に」
「…お前は、どうしてそんななんだ」
ぽつり、と呟いたその言葉に含まれているのは怒りや嫉妬、呆れなどの負の感情を綯交ぜにした色。
日向は、緩く首を振り、その言葉を以って流れるような狛枝の言葉を塞き止めた。
「好きなら好きって言えばいいだろ。なんで覚えてるくせに忘れたなんていうんだ。お前は…っ」
「あのね、日向クン。キミボクの話聞いてた?」
「お前の、心にもない御託なんてどうでもいい。…お前のついた嘘で、苗木が泣くんだよ」
があん、と頭を殴られたような衝撃。
──泣く?苗木クンが?
頭の中の記憶を辿ってみても、彼が感情から泣いていたことは殆どなかったように思う。
笑顔を浮かべていることの多かった彼を、泣かないと、狛枝は勝手に決めつけていたような気になった。
そんな彼が、日向の前で泣いたという事実。そこまで自身が追い詰めたという現実。それら二つがぐるり、と廻る。
離れることを選択したのは狛枝自身だが、それで苗木が傷付くということは考えていなかった。
だから、日向の口から放たれる言葉を、ただ聞いている。その殆どが頭を滑っていっているけれど。
「あいつは素直だから、お前の嘘を信じてる。だけど、それとおなじくらい、お前のことを信じてるんだ」
覚えていない狛枝に過去を押し付けないよう、思いをぶつけないよう。最大限の配慮をもって、苗木は狛枝へと接していた。
しかし、過去の思い出が苗木の想いの矛先を固定したままで、だからこそ苗木の意識は想いは思い出の中の狛枝に。そして、目の前にいる狛枝へと向かう。
苗木をそういう目で見ているものは気づくだろう。そこに今尚残る、確かな恋情に。
それを知っているが故に、狛枝は満足していた。過去の恋という柵に苗木を閉じ込めたということに。
「絶望とか、希望とか。お前はそれでいいかもしれない。じゃあ、苗木は?お前がそんなんだったら、苗木はどうなるんだよ!」
ふつり、と糸が切れたように爆発した日向の怒りに、狛枝は何も返さない。
「苗木のことなんて覚えてないとかそんな訳わかんねぇ嘘ついてないで、はっきり言えばいいだろ!そんなんだから、苗木も、俺も…っ」
「…日向クンに、なんの関係があるっていうのさ」
絞りだすような、まるで呪詛を吐くような声だった。そんな狛枝を気にすることなく、日向は大きく頭を振った。
「さっきもいっただろ。俺は苗木が好きなんだ。苗木はお前が好きだっていう。お前は苗木が好きなくせに、それをかえそうとはしない」
「…」
「別に苗木がお前を好きなままでも俺が苗木を好きだってことは変わらない。別に好きなままでも、いいって思えるぐらいには、俺は苗木が好きだ」
「随分…熱烈だね」
「だけど、苗木は泣くんだ。このままじゃ無理だって。中途半端なまま、俺の思いを受け取れないって」
「…は」
心臓を鷲掴みされたような、天と地がひっくり返るような。そんな感覚が狛枝を襲う。
──中途半端なまま、日向の思いを受け取れない。
それならば、苗木の中でその思いがキレイに溶けた時には、日向の思いを受け入れるのか。
想像だけで、目の前が焼けそうだ。
「なぁ、狛枝。そろそろ苗木を解放してやってくれよ」
「…は、」
ぐるぐると廻る不快さはそのまま嫉妬と怒りへと変わる。
「狛枝?」
「あはははははははははははははははははは!!!」
突然哂い出した狛枝を、日向は訝しげに見つめていた。
狛枝は自分を抱きしめるように、その両腕を交差させる。
「っ苗木クンが他の人を選ぶなんて、本当に絶望的すぎて考えただけで死にたくなるね!」
柵の中にいる苗木を誰かがだそうとするなど、考えてもいなかった。
苗木の視線の先は紛れも無い自分自身だった。だからこそ浸れていた優越感を眼前に突き付けられて、狛枝は今まで目を逸らし続けていた可能性を直視する。
「目が覚めたよ。…そうだよね?記憶の枷で苗木クンを閉じ込めたって、それがずっと続くはずないんだって」
今がそうだから、過去がそうだったから、未来もそれが続くとは限らない。
苗木が狛枝に思いを寄せていても、無理矢理奪われる可能性だってあったはずだった。
あまりにも浅はかだった思考に、狛枝は自分自身を殺したくなる。
淀んだ瞳で、狛枝は日向を見つめた。
「日向クン、キミには渡さない。他の誰にも渡さない」
「…」
「そうだよね。苗木クンが離してっていったって、ボクが離さなければいい話だったんだ。どうして気づかなかったんだろう」
狛枝はさっきまでと言っていたことと真反対のことを壊れたように呟く。
言っていることは違うが、結局根本的なことは変わっていない。苗木のことを話しているのに、苗木の意思は存在していない。
そんな狛枝の話を聞きながら日向は苛立ちに顔を歪める。
そして、暫く何事か呟いたあと、くそ、と吐き捨てるように日向は言った。
「もうちょっと、お前苗木を信じてやれよ」
「は?」
「…苗木は一度決めたことを理由なく反故にする奴か?」
「キミなんかにいわれなくたって、苗木クンの素晴らしさはボクがよく知ってるよ」
「苗木はコレと決めたことを簡単に変えたりしない。裏切らない」
「何が言いたいのさ」
売り言葉に、買い言葉。
日向の言葉に、狛枝は嫌味のように冷たく返した。
「優しいだけじゃないだろ、あいつは」
狛枝の言葉を遮ってきっぱりと日向は言う。
「『狛枝にはあの頃の記憶は【ない】。だから苗木のことも【忘れてる】』『だから、苗木は待ってる。狛枝がきてくれることを』」
苗木の言葉。そこに込められた意味。
考え込んだ狛枝に、日向は深く息をついて、言おうか言うまいか悩むように口をぱくぱくと開いたり閉じたりしていた。
そうして、軽く頭を二三度振って、呟く。
「知ってたか?苗木の左手薬指」
「左手?薬指…」
狛枝の左手の薬指。その下に刻まれた立花紋と呼ばれる三本の線。
幸運の証と呼ばれるそれを、学園の研究者は珍しがっていたが、狛枝自身にはどうでもいいものだった。
それが、特別になったのは苗木と出逢い暫く経った頃。
原因も状況も忘れてしまったが、苗木は左手を硝子へと突っ込むことになった。
それが、狛枝の幸運の代償か、それとも苗木自身の不運だったかはわからない。
その見た目の派手さを裏切って、大きな怪我はなかった。それを苗木は狛枝の幸運の御蔭!と笑っていたが、狛枝には笑えなかった。
突っ込んだ場所が場所だ。運が悪ければ、静脈や動脈まで傷つけていた可能性だってある。それを悔み、苗木の傷が治っても自己否定ばかりを呟いていた狛枝に苗木は小さく笑う。
お揃い、と見せた苗木の掌には全く同じ位置によく似た傷の痕が残っていた。
「あいつ、よく触ってるから、何があるのかって聞いたら、」
一番好きな人との、大切な繋がり、だってよ。
日向の言葉に、狛枝は無自覚に開いた掌をぼうとして眺める。深く刻まれているそれは、あの時と同じものだ。
──覚えてるんだ。
今更、苗木の情の深さを、思いの大きさを狛枝は知る。
こんな小さな繋がりさえ、苗木は大事にしてくれていた。
「…ねぇ、日向クン」
「あぁ」
「なんでこんな──」
あんな目をしてたくせに。あんな言葉を言っていたくせに。
「苗木が好きだからだよ」
ああもう、というように、日向は頭をがしがしと掻きむしる。
「あいつが好きなのはお前だろ。あいつが一番笑っていられるのはお前の横ってことだろ」
なんでわかんないんだ、という苛立ちまで含めたぶっきらぼうな言弾は、真直に狛枝の胸を撃ちぬいた。
「………好きな奴には笑ってて欲しいだろ」
「…キミは本当優しいね」
「お前は本当に嫌な奴だ」
言わせるな、と顔を逸らした日向に狛枝は目を丸くして、呟く。
その言葉を受けて苦々しく呟いた日向に、狛枝は小さく笑った。
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