長い長い夏休みの初日。
前期のテストが終わって、ゼミの皆とお疲れ様会という名の飲み会をしたその次の日。
日付を跨いだことは覚えているけれど、家に帰って来たのは何時だっただろうか。
とりあえずまだ日が明けない頃に布団に潜った気がする。
何もないことを確認したから、私の眠りを妨げるものなんて何もないはずだった。
それなのに、携帯は私の幸福な眠りを妨害するように喧しく鳴っている。
暫く待って、それでも鳴り続けるそれに私は観念したように携帯を手にとった。
バイト先にも今日がテスト明けということは伝えてある。だから急なシフトなんか入らないだろう。
大学の友人たちも同様だ。大体電話をかけてくるような相手は、私がテスト明けや飲み会のあとは死んでいると知っているはず。
誰かな、と携帯に表示される名前を見た私ははぁ、と小さくため息をついた。

電話は実家の母親からだった。
バイトもあるしレポートもある。だからかえらないっていってたじゃない。
私がそういっても、母親は一度ぐらい戻って来なさいよ、お金はだしてあげるから、と聞く耳を持たない。
あ、これはもう何を言っても無駄だ。と私は今までの経験上割と早く諦めた。
確かにここ一年近く帰ってなかったことは確かだ。年末年始もやれレポートだやれ飲み会だやれバイトだで帰る暇なんてなかった。そもそも、正直家にいたって何をすることもない。
友達が帰省している時とタイミングが合えばいいけれど、バイトだとか夏休み中の予定とかを考えるとそれもあまりうまくいかない気がする。
二三日しか帰れない。というと、それでいいから帰ってらっしゃい。とあっさりいわれた。
また今度日付は連絡するね、といって私は通話を切った。


そして、八月半ば。お盆の時期に合わせて私は家に帰ることを決めた。
というのも、バイト先の店長に帰省のための休みを申請したところ、バイト仲間の帰省予定が綺麗にわかれていたからだ。
そのため、いつでもいい、といった私の休みはお盆時期にまわされた。
お盆時期だからと、新幹線は指定席をとった。そのあとはまあどうにかなるだろう。
どうせ指定席なんてないような電車だ。時間さえ気にしていればいい。

新幹線にのって、実家へ向かう。流石にお盆時期は人が多い。指定席をとっておいてよかったと心底思った。
駅について新幹線を降りてから、その後普通の電車のホームへと向かう。
ボックス席を一人でとるのも居た堪れないので、シートに座る。
席に座ったとき、私は思わずほうと息をついていた。
人混みは余り好きじゃない。都会とよばれる所に住んで三年が経つ。最初と比べるとそれなりに慣れてきたけれど、やっぱり人が多い所ではまだ息が詰まる。
電車は人がいないわけではなかったけれど、新幹線の中とくらべると雲泥の差だ。まだちらほら空きもある。
ここから一時間近く。何もせずぼうっとするには無駄な時間だ。
ごそごそと鞄の中から飲み物と本を出して、準備完了。
高校の時何度か乗り過ごしてしまったことがある私は、電車の中では極力寝ないように努力している。そのために、本を持ち歩くのはもう癖になっていた。
課題として出された文庫本を手にして頁をめくる。かっちりとした文体がどうにも眠気を誘いそうで、私は持ってくる本を間違えたと本気で思った。
ぺらり、ぺらり。車内の小さな話し声や電車の音をBGMに私は頁をめくっていく。
けれど、視線は文章を読み込むことなく滑っていた。眠い。やばい。寝そう。
本から目を離して、私は向かいの窓から外を見る。まだこのへんは家も多いし、見える景色には建物が多い。
そのうち山と海しかみえなくなるんだよなぁ、と前乗った時からそんなに経っていないはずなのに妙に懐かしく思った。

小さく欠伸をする、と向かい側にいた男の子も同じように欠伸をしていた。
うつったのだろうか。欠伸はうつるというけれど、こう全く知らない人だったりするとわけの分からない罪悪感を抱いてしまう。
男の子を見ながら心の中でごめんなさい、と小さく呟くと、男の子と目があってしまった。
心の声が聞こえたのだろうか、と思ったけれど、男の子はちょっと照れたような困った顔でぺこりと頭を下げただけだった。
見られて恥ずかしかったのかもしれない。私の欠伸がうつってしまったかも、なんて多分彼は気付いていないんだろう。
隣に座っていた男の子がくすくすと笑う。それを見て、欠伸の男の子は拗ねたように、小声で「笑わないでよ」と呟いていた。
ごめんね、と隣の子が笑ったままで呟くと、もう!といってその袖をぐいっと引っ張っていた。
なんだあれ、かわいい。思わず私は思う。弟にしたいタイプかもしれない。自分の弟と脳内で比べても満場一致で欠伸の子が可愛い。
欠伸の男の子は顔の造形としては普通の子だ。だけど隣の子に対する反応を見ていると表情がくるくると動いて目が大きくて、小動物みたいで。
思わずちょっと触らせて、と言いたくなる。さすがにそんなことはしないけれど。妄想と現実の境は一応わかっているつもりだ。
対して、笑っている男の子は割と整った顔をしている。そして全体的に色が白い。髪まで白い。上下長袖だから日光にでも弱いのだろうか。アルビノ?初めてみた。
兄弟か、友達だろうか。ちょっと似てる気もするけど──そんなことを考えながら、私は本に視線を戻す。

一度意識すると、彼等の声は他の音とは混ざらないで聞こえる。公共の場だから、と小声で話をしているのだろう。細かいところまではわからないけれど、所々は聞こえてくる。
本よりそっちのほうが面白そうだと私は本を読むフリをしながら正面の二人に意識をうつした。正直な話もうこの本を読みたくなかったから、丁度よかった。

「あとどれくらいかな」
「そうだね…まだかかると思うな。ナエギクン飽きちゃったの?」

どうやら、欠伸の子はナエギクンというらしい。多分普通に苗木という字だろう。
流石にナエギで名前はないと思うから、兄弟ではない…と思う。最近の名前はわからないけれど、いやでも流石にナエギという名前はないだろう。

「そういうわけじゃないけど、はやくつけばいいなぁって」
「まあ、そうだね」
「コマエダクンは…」

コマエダクン。漢字はどう書くのだろうか。コマエだったら狛江か小前あたりだろうけれど、コマエダならば小前田しかおもいつかない。
けれど、その字面は目の前の彼にはそぐわない気がした。なんとなくだけど。

つらつらと考えていると苗木君の反応がちょっと鈍くなってきはじめた。
ちら、と本から顔を上げてその顔を見ると、ああ眠いんだろうなと思う。でも頑張って起きているのは多分隣のコマエダクンのためなんだろう。
それに気付いたのか、コマエダクンは苗木君に「眠ければ寝ていいよ」と優しく笑う。
気遣いのできる男の子。素晴らしい。顔もいいからきっとコマエダクンはモテるんだろう。背も高そうだし、趣味も悪くなさそうだし。
苗木君は遠慮していたけれど、大丈夫、ほら本も持ってきてるから。着いたら起こすから、ね?というコマエダクンの優しい勧めによって、最終的にありがとうと笑って目を閉じた。
暫くするとコマエダクンは手に持っていた本を開いて読み始めたから、多分本当に苗木君は寝てしまったのだろう。
仲良きことは美しきかな。

乗車時と比べると静かになった車内。
駅を通過する毎にどんどん電車の中の人が減っていくだけだからしょうがない。
私の座るシート席にはもう二人しかいない。
スーツの男の人は壁に凭れて眠っていて、学生服の女の子は多分次の駅で降りると思う。

眠っている苗木君を見ているのも悪い気がして、私は本を読もうとまた意識を本にうつした。
どのくらい経っただろう。多分三分も経っていない頃。どうにも集中できなかった私はまたふわあと大きな欠伸をした。
眠い。やっぱりこの本相性悪い。そんなことを思いながら、ちょっとだけ体を伸ばす。
その時に私がみたのは、苗木君がコマエダクンに寄りかかっているところ。電車が傾いた拍子にでもバランスを崩したんだろう。
コマエダクンはそれを気にしていないのか、普通に本を読み進めている。と思ったけれど、そうじゃないことに、私は気付く。
片手に文庫本を持ってはいたけれど、その視線は苗木君へと向いている。優しい顔。幸せそうな顔。
いつかどこかで見たことがあるような、その表情に私は頭の中で考えを巡らせる。ぽん、と答えが見つかった時に私はそうか、と一人で納得した。
その視線が語る。二人の関係がどうであれ、コマエダクンにとって苗木君はとても大切な人だということを。

暫くそうしているうちに、コマエダクンは手に持っていた文庫本をぱたんと閉じる。
そして、自分の着ていた長袖のシャツを脱いで苗木君の体に掛けた。そしてその身体をさっきよりもっと自分に引き寄せてその手を握る。
その仕草はまるで友達というより、寧ろ──と私が考えていると、次は、というアナウンスで制服の女の子が立ち上がった。予想が当たったことに心の中でガッツポーズ。
自分が降りる駅までは、あと二つぐらいだろう。
また本を読み始めて、多分二頁も進んでいない頃。小さい声が聞こえて私はまた意識を目の前の二人に戻した。

「…着いた?」
「まだだよ、あと…うん幾つか先かな。まだ寝てていいよ、苗木君」
「ん…大丈夫、起きる…」

もそ、と苗木君は眠そうな目を擦る。その様子はどうにも幼く見える。
それを幸せそうに緩んだ顔でコマエダクンは見つめていた。

「だいぶ寝てた?…あ、これありがとう」
「そうでもないよ。ちょっとクーラー強い気がしたから…苗木君が風邪引いちゃったら大変だからね」

驚くほど優しくコマエダクンは笑う。
それを受けて苗木君はちょっと照れたように笑った。
可愛いなぁ、と思う。お互いがお互いをとても大切に思っているのだろう。

自分の町の名が車内に流れた。目的の駅にもうすぐ着く。
手にしていた文庫を鞄へ入れ、荷物を持って立ち上がろうとすると、その拍子に持っていたペットボトルを落としてしまった。
ころころと転がるそれは、偶然にも苗木君の足元で止まる。
ペットボトルの存在に気付いた苗木君はそれを手にとって私へと渡してくれた。

「ありがとう、」
「いえいえ」

色々な意味を込めたちょっと複雑な「ありがとう」に苗木君は照れたように笑う。
微笑ましいな、と思った時その後ろで座っているコマエダクンと目があってしまった。
そうすると、コマエダクンは何も言わずに唇に指をあてた。
私はそれをみて、小さく頷き苗木君の手からペットボトルを受け取る。
苗木君はコマエダクンの隣に戻って、また二人の会話ははじまった。

──扉が開きます、ご注意下さい

電車が止まり、私は外へと足を踏み出した。
駐車場にきっと迎えが待っているはず。荷物と一緒に駅の中を歩く。
ふふふ、と思わず顔がにやける。欠伸は伝播するけれど、きっと幸せも伝播するのだろう。
良い物をみたな、と思った。半ば強制的だった帰省もたまには悪くないと思うぐらいには。






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