逢いたい人がいた。
触れたい人がいた。
それが叶わないことを知っていて、男は願いを閉じ込めた。
閉じ込めてしまった呪いのような想いを、けれど捨てることなんて出来ずにずっと抱えていた。じっと抱えて、時に眺めて。忘れてしまったらいっそ楽になれるのだろうかと思いながら、それでも男はそれを失くしたりはしなかった。
けれど、時が過ぎ、いつしか男はその思いを封じたものをどこかへと落としてきてしまった。
けれども、その想いが失われたわけではなく、それはしっかりと男の魂に根を張ってしまって、封じたと思っていたそれが意味をなしていないことに、男は突然気付いたのだ。
けれど、なんの問題にもならなかった。
だって男は、それを失くしたことすら気づいていなかった。そして、男がそれを知った時にはすでにもうその叶わないはずの想いは叶った後だったのだから。
「おはようさんやで、ロスさん」
目が覚めた瞬間に、にゅっと伸びてきた頭。その瞬間に、オレは跳ね起きて、その声の主から距離をとった。
じりじりと感じる得体の知れない気味悪さに、勇者さんは、と思ったところで目眩がした。ぐらりとまるで世界が揺れるような感覚の中、楽しそうにそれはにやりと口元を歪めて薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「おお、成功やん。さっすがオレ!」
「おまえはだれだ」
呟く声に、それは、ふと首を傾げる。そして一人で納得したのか、うんうんと頷いたと思えばその瞬間、それの右手がオレの身体の中に刺さっていた。
刺さる、という表現が正しいかはわからない。けれど、胸のところから真っ直ぐに伸びたその腕を剣と見做せば刺さっているというのもきっと間違いじゃないだろう。こんなことを考えているのも一種の現実逃避だ。その光景はそこそこの人生経験を積んだという自負のあるオレでもお目にかかったことはない。そして痛みもないし、そもそもそこに腕が刺さっている、ということだって、その光景を見ているからわかっているだけで、オレ自身では触れているという感覚すらなかったのだ。
「な──」
何をしてるんだ。そう言おうとしたオレの言葉が、最後まで音になることはなかった。ぐにゃりと視界が歪む。頭の中に流れ込んでくる沢山の『光景』がどんどんオレの中を圧迫していく。
その沢山の『光景』が自身の記憶なのだと知ったのは、オレが地面へと倒れた後だ。倒れているということに気付いたのは、さっきまでオレの胸に右手を突っ込んでいたそれが、にやにやと満足そうにしゃがみこんでオレの顔を覗きこんでいたからだった。
「これで、お前が『戦士ロス』や」
苛々する程腹立つ顔で、そいつは笑っている。
どういうことだ、そんな事を思っていても、口からは言葉が出てこない。気がつけば後ろ手で縛られていたようで、抵抗らしい抵抗も出来ない。
「おーこわ、さすがロスさんやな。おっかない」
じり、と睨みつければそれは両手で自分を抱きしめて身体をぶるぶると震わせた。日焼けの男がそんなことをやっても気持ち悪いだけで、目に毒だ。そんなことを考えていれば、
「気持ち悪いってそんな言い方ないやん」
男はふざけた口調でそんなことを言った。
「なんでわかるかって?絆やね」
ドヤ顔でそう言ったそいつに、心の中で殺意を込めればそれは両手を目の前でぶんぶんと振った。
「嘘やって!ほんと美人さんやけどつまらんなー」
どうせ心の中のことは読まれているのだろう。内々に男へ対する罵詈雑言を並べ立てればそれは、困ったように眉を寄せて笑った。
「ほんとさすがロスさんやな」
そう言って、男はもう一度オレの中に手を突っ込んだ。ぐるりと中身を掻き回される気持ち悪さに、オレは思わず目を瞑る。先程の流れてきた記憶とは違う、けれどよく似た何かが流れてくる。その中に、赤い何かを見つけた瞬間のことだった。
「それが、お前の正体や」
くすくすと、それは笑った。まるで闇の深淵を垣間見たような薄気味悪さがそこにはある。与えられた情報。それを真実とわかるはずがないのに、わかるのは何故なのか──きっとそれが答えだ。
ぐるぐると回る感情、記憶、声。
その中で、何をすればいいのか。そう考えていたら、それは楽しそうに呟いた。
「お前が『戦士ロス』になればいい」
酷く奇妙な、歪な笑みを浮かべてそれは嗤っている。
「物語のハッピーエンドは決まっとるやろ、王子様に選ばれればいいんやで」
王子様──流れとして、それがさすのは勇者さんのことなんだろう。ただ、想像は出来ないけれど。あの人は王子なんて柄じゃない。
「正解や。アルバさんが『戦士ロス』を選べばおめでとさん。お前が本物や」
わかってはいても思考を読まれるのは楽しくない。けれど、これのお陰でオレが起きたことは確からしい。
「……何が、目的だ」
「ちょーっと最近アルバさんが構ってくれへんから、ロスさんつこて遊ぼおもてな」
やっと口に出すことが出来た疑問に、男はにやにやと笑うことで答えた。そうして、片手を前に出して、呟く。
「なぁ『ロス』さん、あんたが本物になりたい言うならオレは手ぇ貸したるからな」
感じる魔力の波動。僅かに身構えたが、小さな抵抗など、あってないようなものだ。そしてその考えは正しく、気付けば目の前には日焼けではなく、オレが多分誰よりも逢いたいと望んでいた人が居た。
ばくりと心臓が一つ跳ねる。どうすればいいのか──だって、オレにとってはあの別離からはじめての再会だ──一瞬だけ考えて、けれど、オレは『戦士』として、どういう行動をとれば『正解』なのかを『識って』いることに、気がついた。
「誰だ!」
「声が大きい!」
「……ロス?」
「そうだ。よくわかったな、絆だな」
久しぶりに『逢った』勇者さんは、オレの知る勇者さんだった。
時折見せる表情に、時の経過を感じるが、それでも勇者さんは勇者さんだ。近くにいる本物の『シオン』がやけに目障りだけれども、それは向こうも同じなのだろう。やたらと見覚えのある顔でこちらを睨んでいる。
オレとしては勇者さんと二人きりで話がしたかった。それこそ、あの頃のように。けれど、『シオン』がいる限り、それは叶わない。どうすればいいか──そう考えれば幾つかの選択肢と、そしてそれを叶えるための方法が頭に浮かぶ。先程のことといい、あの男が言っていた、手を貸す、という言葉の意味をオレはここでようやく知ったのだった。
そして、それは成功する。オレは、魔法の使えない、『シオン』を余所へと飛ばし、勇者さんとの時間をその言葉の通り、作り上げた。
「こっちですよ、アルバさん」
そう言って声を掛ければ、気づいたのか勇者さんは片手を上げて答えてくれた。そして、開口一番に涙目で叫ぶ。
「置いてくなよ!酷いだろ!」
「何ハァハァ言ってるんですかアルバさん。変態ですか?」
「えぇ!?」
勇者さんは目を見開いて叫ぶ。その表情にぞくぞくと背筋を走るのはきっと喜びだ。
「何ってお前見てただろ!?ボクさっきまでモンスターと戦ってた!お前は置いていったけどボクはモンスターと戦ってたの!」
おまけにロスを追ってここまで走ってきたし……。
ぼやくような勇者さんの台詞に、オレは間髪入れずに言葉を投げた。
彼に、考えるような間を与えてはならない。
「あぁモンスターフェチですね。モンスターはボク以外には触れさせはしません!……愛の形はそれぞれですよね」
「可哀想な人を見る目で見るなー!くっそお前には言われたくない!」
「はいはい、アルバさんはオレを愛しちゃってるんですもんねー」
きゃんきゃんとまるで子犬のような勇者さん。オレの頭の中にある、ガキくさい顔と寸分違わない。それが嬉しくて、安心して、オレは小さく笑った。
その瞬間に、ざわりと空気が変わる。さっきまでの、日常めいた空気は霧消してしまった。
それと一緒に、勇者さんの視線にも違う色が混じる。そのどこか縋るように、問い詰めるように真っ直ぐに見つめてくる瞳がオレには痛くて、悲しかった。
口元に笑みを浮かべたまま、必死にその二色へと視線を返す。あの時とは違う、黒と赤。
彼の変化が誰のためか、なんて考えたくなかった。
「……おまえ戦士だな」
「そうだ絆だな」
ああ、やっぱり。本物にはなれないのだと、オレは泣きたくなった。
「ロスはどこに……っ!」
「ロスはオレですよ」
勇者さんが求める『ロス』は、本物だ。
記憶も、想いも、オレの中身全てがあの頃の『戦士ロス』のものなのに、勇者さんはそれでもアイツだけを求めている。
何が違うんだと、そう考えるのが偽物だからなのか。
けれど、諦めを口にするのも、ただ認めてしまうのもなんだか癪でオレは自身の欲に忠実に行動した。
記憶の中のものよりも傷が増えて引き締まった腕。相変わらずの細さは喜ぶべきところなのかわからない。そのまま流れで腕の中に引き込んでそっと唇を奪った。
柔らかな感触。触れたくて、けれど触れられなかったものにあっさりと触れてしまった。
けれど、それだけで欲が留まることはない。触れたところから伝わる熱と、吐息は思っていたよりもずっとオレの頭をぐちゃぐちゃに掻き回した。
舌を入れて、その中を味わう。そして、咄嗟に口の中に含んだ『魔法』を彼の腔内へと押し付けた。
抵抗らしい抵抗がないことに、それがどういう意味なのか必死で考える。
勘違いしそうになる。彼が受け入れてくれているのだと。
けれど、どこかで冷静な声が言う。彼は、結局『ロス』を傷つけられないだけなのだ、と。
二律背反。ぐるぐると渦を巻く二つの思考を振り払うように、オレは彼の中に溺れた。
舌でなぞって、その中を吸って。甘いはずのないそれが、何よりも甘く感じてしまう。
出来るならずっとこうしていたい。
はじめて触れた勇者さんの中は、オレにとっては甘露に等しいものだった。
「なに、を」
押し付けた『魔法』を勇者さんが飲み込んだのを確認して、名残惜しさを感じながらオレは唇を解放した。
唾液で濡れた唇は、もっと大きな欲も連れてきたけれどそれを堪えて一言呟く。
「……勇者さん」
呟いた音にはわかりやすいぐらいに熱が籠っていた。
本当は、その名前を呼んでみたかった。
──『シオン』がそうしているように。
あの頃の『ロス』は彼をそんな熱を込めて呼んだことなどなかったはずだ。
触れた指先から。溢れる言葉から。
何一つ想いが伝わったりしないように、あの頃の『戦士』は必死に取り繕っていたのだから。
だから想いを指輪に封じて、けれど捨てることなど出来なくて抱えたままだった。
今はもう表に出しても問題はないけれど、それでもオレが『戦士ロス』である限りは、きっとその名に想いをのせて呼ぶことなんて出来ないのだろう。
「前も言いましたが、オレずっとあの頃からアナタのこと好きだったんです」
泣きたくなるような想いを唇にのせて、全てを見せないようにオレはまた勇者さんの唇を零れた息ごと塞いでしまった。
深くなる口付けに、勇者さんはオレの腕の中で意識を失った。
あいつがくれた『魔法』はよくきくものだ、と小さく笑う。
あの時と違う二色の瞳は今はもう見えない。見慣れないそれを、それでも『戦士』は識っている。
相変わらずの甘さに、そこが心底愛おしいと思う。変わった沢山の事象の中で、けれど確かに変わらないものも存在するのだ。
そうして、オレは泣きたい気持ちを誤魔化すように笑って、今度はその額に口付けた。
勇者さんの意識がないうちに──そんなことを考えながら、更にそのあちらこちらに唇を落として。ぎゅうと記憶の中のものより大きくなった身体を強く抱きしめる。彼が、勇者さんが聞こえていないことを知りながら、ただ一言。
泣きたいような愛しさと。
縋ってしまいたいような祈りを込めて。
「ねぇ、勇者さん。"また"一緒に旅をしましょう」
その願いを、口にした。
「どうせ、どっちかが消えて、どっちかが残るんだ」
だからオレが本物の、勇者さんの望む『シオン』になったって、構わないだろう。
「祝儀だ、受け取りな」
そう言った瞬間に、違う気配を感じた。
そう気付いた時にはもう、遅かった。
風に揺れる黒のマント。
『シオン』を庇うように両手を広げた勇者さん。
言葉なんて、出なかった。
崩れ落ちこそしなかったが、じわりと滲む赤色に、その傷が浅いものではないことを知らされる。
──当然だ、だってオレは手加減なんてしなかった。
どうして、なんで。勇者さんが。どうして。
抱く疑問が言葉になることはない。ひゅうひゅうと、ただ喉が鳴るだけだ。
頭の中に聞こえる言葉。巡る記憶。
焼き付いたように離れない、目の前で真っ二つになった彼の姿。
『シオン』が彼に近づいて、なにかを話していることすら、その時のオレには見えていなかった。
そんなオレを現実へと引き戻したのは、やはりと言うべきか、勇者さんの言葉だった。
「……『戦士』、いや、ロス」
「……あ、るば?」
優しい声。泣きたくなる。縋り付きたくなる。
それはきっとあの頃のように。
触れて、全てを吐き出して、そうして抱きしめて欲しいと思っていたあの時のように。
実際にはそんなこと、出来やしなかったのだけれども。
逢いたかった。
触れたかった。
本当は、ずっと、そう思っていたのに。
「ロス、ボクはおまえがすきだよ。でもそれだけじゃないんだ」
制止する、『シオン』の声が聞こえる。けれど、それすらも躱して、勇者さんは、オレのほうへとゆっくりと近づいてくる。
流れる血が地面を染めていく。他の誰でもない、自分が付けた傷だ。
逃げ出したい。けれど、動けない。
断罪される前の咎人のような心で、オレは勇者さんの歩みを見つめていた。
「ゆーしゃ、さん」
零れた言葉に、彼がふっと笑う。そうして、赤く染まった両手を広げてオレの身体を抱きしめた。
「大丈夫、ボクはここにいるよ……ずっと傍にいるから」
とくりとくりと聞こえる心音。全身から伝わる温かさに、胸が詰まって、そしてオレは一つ涙を流した。
一度零れた涙は止まらない。それでも、勇者さんは優しくオレの背を叩いてくれる。
ぽつぽつと呟かれる言葉は、どれもオレの心に滲みていく。温かな言葉。与えられる感情。そこに偽りがないと知るからこそ、それが嬉しいし、同時にかなしい。
「──ボクが好きなのは、たった一人『ロス』だけだよ」
「……勇者さん」
オレも、『シオン』も本物なのだと、彼は言う。
そんな優しい彼の出した答えを、オレは一つ頷いて受け入れた。
「──ねぇ、ロス。また一緒に旅をしよう」
視線の先、勇者さんはそっと瞳を閉じて唇を動かした。
「だから、 」
肩口で囁くように紡がれた言葉。
それを聞いた瞬間に、オレは自分が消えることを知った。それはきっと向こうも同じだ。
消えるという表現は必ずしも正しいとは限らないけれど、それでも今の『戦士ロス』としての意識も、そして『シオン』も、一つに、 もとの『シオン』そして、『ロス』へと溶ける。
一つだったものが分かたれて、けれどそれが自我を持ってしまったから、歪みは大きくなっていった。
感じるもう一つの鼓動。二つのそれが、一つへと合わさっていく。
別々だった鼓動が、綺麗に重なり、一つの心音を紡ぐ。とくんとくんと、規則正しく鳴るそれを聞きながら、『オレ』は、彼の名を呼んだ。
『──ボクを信じて』
そうして、勇者さんの言葉を巡っていく記憶の中、頭の中に響かせる。
ああ信じよう。
だっていつだって、『アルバ』は、『ロス』を──そして、『シオン』を救う、たった一人の『勇者』なのだから。
back