少しだけ温度の低い、柔らかな感触。
それを、自覚した瞬間に苗木は瞳を開いた。
その眼前には、誰かがいる──瞳の焦点があわないほど、近くに。
そう気付いた時に呆けている頭は、やっと動き始める。
そして、現状を認めた瞬間、反射的に苗木はその相手の胸を力一杯押した。
「っ、」
「……いきなり、なにをするんですか」
それでも、肩を掴む手は離れない。離れたのは、さっきまでくっついていた唇だけ。
状況がわからずに、ただ羞恥で俯いた苗木の耳に届いたのは、少しだけ不機嫌そうな男の声だった。
唇を、指でこする。感触が離れなくて、何度も、何度も。それでも、取れない。
「まこと」
「え……」
名前を呼ばれて、思わず動きが止まる。
優しい声だ。不機嫌そう、というより、その声音は自分を心配しているものだった。
けれど、苗木は自身をそんなふうに呼ぶ男の存在を知らなかった。だから、そろりと顔を上げた。
呆れたような、それでいて優しい瞳が自分を見ている。表情には笑みが浮かんでいるわけではないのだが、それでも苗木にはそう見えた。
長い黒い髪。光の加減で赤色にも見える瞳。
その男を、苗木は知っていた。
「……かむ、くらくん……?」
カムクライズル──苗木の通う学園において、多分一番有名な生徒だ。
希望ヶ峰学園創立以来の天才と名高い彼は、なんでも出来る。どれか一つに特出しているわけではなく、本当になんでも出来るのだ。
それゆえに彼は『超高校級の希望』と呼ばれている。
それに対し、苗木は『超高校級の幸運』だ。『希望』と『幸運』、どちらも、漠然としていて専門分野があるというわけではないから、同じ特別棟に、才能のための研究機関はある。
そういうわけで、苗木は、他の生徒と比べると『幸運』に関する研究や授業で関わる頻度はそれなりに高いから、面識はある。けれど、特に仲が良いというわけではない。
そもそも世界が違う。そんな彼が、どうして目の前にいるのだろうか。
その、カムクラくんが、ぼく、に……──そこまで考えた時に、一気に意識してしまって頬が熱くなった。
怒りよりも先にどうして、という疑問ばかりが頭に浮かんだ。
「……どうして、カムクラくんがこんなとこに」
その疑問に、カムクラは小さく首を傾げた。
「何を言ってるんです、誠」
「何をいって、って……」
カムクラのことは嫌いではない。特別仲のいいことはないけれど、授業中にはそれなりに会話をするし、寧ろ授業で関わるもう一人の先輩が苦手なこともあって、苗木はカムクラにそれなりの好意を抱いていた。
それは、彼の才能や、性格に寄るもので──けれど、こんな関係になるほど、距離は近くはなかったはずだ。
口ごもる苗木に、カムクラは一つ息をついた。
「どうしてって、」
ぐる、とカムクラは周囲を見回す。
「ここは、僕の自室です」
その言葉を聞いて、苗木も同じようにあたりを見回した。
モノトーンの部屋。机と、ベッドと。クローゼット。必要最低限のものしかない、簡素な部屋。
見覚えのない部屋だ。大体において寮の部屋のつくりは似ているはずだ。だから、ここがカムクラの部屋だというのなら、少しは既視感があってもいいのだろうけれど、やっぱり全く見た記憶のない部屋だった。
不思議そうな苗木に、カムクラは一言「実家です」と呟いた。
「それに、今のはあなたが──」
カムクラは、そこまでいってピタリと口を止める。そうして、何かに気付いたように口元を抑えた。
「そう、ですか……そういうことですか」
「なにが、そういうこと、なの?」
カムクラが神妙な顔をして顔を逸らしたものだから、苗木は心配そうに、カムクラへ問いかける。
何か、気付いたのだろうか──そう思った苗木だったが、何か様子がおかしい。
よくよく見ると、口元を抑えて、肩を震わせて、カムクラは笑っていた。
「、すみません」
その声も震えている。笑いは止まらない。
大体が無表情で、何事にも興味を持つことなく、ツマラナイツマラナイと口癖のように呟くいつもの彼の姿からは想像もつかない。
「ちょっと、カムクラくん──」
呼びかける、苗木の声も聞こえていないのだろうか。カムクラは、その細い身体を折るようにして声と身体を震わせている。
「ねえ、カムクラくん」
もう一度、呼びかける──変化は、ない。
はぁ、と諦めたように、苗木は息をついた。
こんなカムクラを見たことがないのだから、止め方もわからない。そのうち止まるだろう、と苗木は再び周囲を見回した。
物のない部屋。あまり、人の気配がしない部屋だ。いつもは寮の部屋にいるのだから、確かにカムクラがここで寝泊まりをしているわけではないのだろうが、それにしても、人の部屋というには、あまりにも──そんなことを、苗木は思う。同時に思い浮かべた自分の部屋は、戻ったらちょっとは掃除でもしようか、という気分にはなれたけれど。
けれど、やはり何度見ても見知らぬ部屋だ。来たことはない、と自信を持って言える。
そもそも、カムクラが苗木にそんな嘘をつくメリットなどないのだから、本当なのだろう。けれど苗木は、カムクラの部屋──しかも、寮ではなく自宅の──に来るほどの関係ではない。そんな親しい関係性など作っていない。授業以外では、時々廊下であった時、苗木が挨拶をするとカムクラは無言で頭を下げるか、そのままスルーされるかの二択だ。
そんな関係なのだから、カムクラの家を知ることなんてないし、家にくるという状況すらありえない。
そんなカムクラの部屋にいるという現状が今になってとても不思議なことに思えてきた。
どうして。わからない。
それなのに、理由を知ってそうな唯一は、今もバカみたいに笑い続けている。学校中の人にこの事実をばらまいてやりたい。
はぁ、と息をついてもう一度考える。
苗木の記憶が確かならば、やはり、この現実はありえないこと、となる。
じゃあ、夢、だとしたら。
それは、つまり──そこまで考えて、苗木はぶんぶんと頭を振った。違う。そうじゃない。顔をさっきよりずっと赤くして、苗木は浮かんでしまった考えを否定する。そんな、はず、ないよ。
ちら、とカムクラのほうを見る。まだ、笑っているその姿をみて、む、と少しだけ腹がたった。
こっちがこんなに悩んでいるのに、そんな気も知らないでずっと笑い続けているなんて。
「……いい加減、笑うのやめて説明してよ」
カムクラの腹部を軽く押す。
すると、カムクラは驚いたのかびくんと身体を痙攣させて、いたい、と呟いた。
「笑いすぎでしょ」
苗木の言葉に、カムクラはやっと少しだけ身体を起こした。脇腹が痛いのか、まだそこに手をあててはいるが、笑いの発作は止まっている。たまに軽く身体が揺れる程度だ。
「カムクラくん?」
「まこと、」
大丈夫、と問いかけようとしたと同時にカムクラが苗木の名前を呼んだ。
「駄目です。貴女には、まだ、教えることはできません」
「どういうこと?」
「そのうち、わかります」
そこまでいって、カムクラは脇腹をおさえたまま静かに笑い出した。さっきまでとは様子が違うが、どちらにしても笑いが抑えられないのだろう。
はあ、と息をついたその瞬間に、視界へと時計の姿が飛び込んできた。
夜、九時半──寮の、門限は十時だ。
外泊届けを出した覚えはない。遅くなったからと、罰があるわけではないけれど、鍵は締まる。そうしたら友人に連絡して開けてもらわなければならない。
「カムクラくん、ぼく、帰るね」
立ち上がり、静かに笑うカムクラをおいて苗木は周囲を見回す。
荷物は、いつも持っている鞄が一つ。それを掴んで、部屋を出た。
扉を開けた、向かい側にはもう一つ扉があった。二つの部屋の間の廊下は、真っ直ぐそのまま階段へと向かっている。
やっぱり見覚えはない。こんなところ、初めて来た。
そう考えながら、苗木は階段を降ろうと、一歩足を踏み出した。
「まこと、」
「え?」
不意に呼ばれて振り返り──その瞬間に苗木は、足を滑らせる。
その瞬間見えたのは、天井と──そして、まだ脇腹をおさえて、階段の手摺に身体預けているカムクラの姿だった。
「頑張ってください」
そう、唇が動いたような気がしたけれど、確認する暇などなく、苗木はそのまま階段を落ちていった。
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