ルキはアルバに近づくなり、いきなりべろんと赤く濡れている服を捲り上げた。露わになったそこはやはりと言うべきか血塗れで、それを目にしたルキは小さく顔を顰める。
「わわわッ、ルキちょっと、それは!!」
しかしそんなルキの表情の変化にも気付かないアルバは、ただ服を捲られ肌が露わにされたことに慌てている。しかしその挙動は、きっと羞恥のためというより、ルキという幼い少女に酷い有様を見せたくないという思考のほうが強いのだろう。駄目だよ、ほら、手を離して、とぱたぱたと力なく腕を動かすアルバへ、ルキは呆れたように大きな溜息を一つついた。
「言うこと聞かないアルバさんの言うことをなんで私が聞かないといけないの」
そう零しながら、掌をアルバの胸元へと翳す。淡い光。ルキの手から伝わる癒しの力に、アルバは力なく頭を振った。
「……ね、ルキ。ボクは大丈夫だよ、」
「アルバさん?」
力ない掠れた声で呟かれた言葉に、ルキはぴくりと反応する。そしてそっと視線を向ければ、アルバは驚く程穏やかに微笑んでいた。
「ボクはいいから、クレアさんのほう行ってあげて」
優しい言葉。優しい声。けれど、それはルキの行動を制止するためのものだ。
――ルキは、知っている。押しに弱いように見える彼は、けれど肝心なところで頑固だということを。だから、彼がそう口にしたのならば、ルキのしようとしていることを受け入れないだろうということだって。
「黙って、ねぇアルバさん。アルバさんだって酷い怪我してるんだよ?放っとけば死んじゃうよ?」
ぐしゃりと泣きそうな声で、ルキは呟く。そんなルキの頭を、アルバはゆっくりと腕を上げてそっと撫でた。アルバの力ない動きに、ルキの胸はぎゅっと締め付けられる。アルバはルキによる治癒を拒んでいる――ルキがそれを聞き入れるかどうかはまた別の話だだけれども。
「でもそれはクレアさんだって一緒じゃないか」
「……クレアさんだって魔性だから自分で自分ぐらい回復出来るよ」
アルバの婉曲な拒絶に気づきながら、それでもルキは食い下がる。痛くないはずがない。アルバは笑みを浮かべてはいるけれど、顔色は決していいとはいえないし、時折痛みに顔を歪めている。確かにアルバの言うように、クレアの傷も浅くはなかったかもしれない。しかし、クレアは――半分とはいえ――魔性だ。血統書付きであるルキや、妖主であるロスには敵わないものの、それでも自分で自分の傷を癒やすことぐらいは出来る。それに対し、アルバは人間で、自分で自分を癒やす手段を持たない。それに加え、人は魔性よりも遥かに弱い存在だ。最強と呼ばれる破妖刀に選ばれようが、妖主をも魅縛する魅了眼を持っていようが、アルバは正真正銘人間なのだ。だから、ルキは彼を放っておくことが出来ない。アルバの身体の傷は、それ程に酷いものなのだから。
「いいんだ、ルキ……ボクはいいんだ……」
けれど、そんなルキの懇願にさえ、アルバは緩く首を振る。余りに頑ななそれに、ルキは心配と、疑問の色をその瞳にのせて小さな声で名前を呼んだ。
「アルバさん……?」
「ボクの護り手は、ロスだから……」
「まだロスさんのこと信用してるの?……悪口みたいで、いいたくないけど、アルバさんが信じる価値なんてないじゃないッ!」
アルバさんがこんな目にあってても、こないじゃない、とルキはぼろりと涙をその瞳から零した。アルバがルキの申し出を断る理由。それが、あの青年――アルバの護り手であるロスの存在だとであることをルキは気付いていた。
――気付かないはずがない。だって、ルキは知っていたのだ。アルバがロスを特別に思っていることを――それは、同じように、ルキがアルバを見ていたから気付いたことだったけれど。
ルキにとって、アルバは特別だった。だから、魔性であると知った時。彼を守れるだけの強さがあると知った時――彼の護り手になりたいとそう、思ったのだ。それは、決して敵わない願いだったけれど。
なぜなら、アルバには既に護り手がいた。
それが、どんな妖鬼――いや、例え妖貴であっても、きっとルキは退けただろう。ルキは世界の王と呼ばれる妖主のうち二人を親としている。まだ発展途上とはいえ、それでもその辺の魔性に負けはしないだけの力を確かに持っているのだ。
けれど、アルバについていた護り手は、その辺の魔性なんかではなかった。それこそ、世界の王と呼ばれる妖主のうちの一人――赤を支配する王が護り手として、もう彼の隣にいたのだから。だからルキは一度は諦めた。悔しいけれど魔性にとって力は絶対で、ルキが絶対に敵わない相手だということはわかっていたし、何よりも、ルキが見ている限り、あの青年は酷くアルバへと執着しているように見えたからだ。
けれど、今は違う。さっき話した彼は、まるでアルバを見捨てるようなことを口にした。それはまるで、彼と共にいた時間を間違いだったかのように。
しかし、それをアルバに言うことは出来ないルキは、ただ泣きながら口を噤んだ。アルバが、ロスを特別に思うことを知っているから。そして何より、ルキにとっても、ロスは確かに――それはアルバへのものとは違うけれど――特別な相手だったのだから。
「――でも、それはボクが呼んでないから」
「……私じゃ、だめなの……?」
宥めるような優しいアルバの声に、ぽつり、ルキは言葉を零した――だって、ルキは気付いてしまった。ルキではきっと駄目なのだ、ということに。アルバは多分ルキがなんと言おうともロスを待つのだろう。その結果、傷つき、命を落とすことになったとしても。そこまで考えて、ルキは以前アルバから、そしてクレアから聞いた話を思い出す。アルバとロスの出逢いと、それからを。アルバの命を救ったのは紛れも無く、ロスで。だから――。
「ルキ?」
不思議そうに、アルバが首を傾げた。その様子をみたルキの胸は、ずきずきと痛み出す。そして、答えのわかりきった問いを、そっと口にした。
「私じゃ、アルバさんの特別にはなれないの……?」
「ルキも、ボクの特別だよ」
にっこり笑ってアルバが口にした答えは、ルキが望んでいたものではなかった――予想したものではあったけれど。
――ルキが欲しかったのは、アルバのたったひとつの特別だった。
「ルキだから、お願い出来るんだ」
重ねられる、アルバの優しい言葉は、とても甘い。甘くて、けれどどこか苦い。
だって、それはルキが本当に望んだ『特別』ではないのだから。
その一等欲しかったそれは、もうたった一人のものになってしまっている。とっくに理解していたはずのそれを、改めて思い知らされて、ルキはだけど――と強く掌を握り締めた。
「……じゃあ、クレアさんちゃっちゃか治して戻ってくるから。その時までにロスさんが来てなければ私もう遠慮なんてしないから」
その遠慮がどういう意味なのか、きっとアルバにはわからないに違いない。それでもよかった。アルバの特別はもうたった一人のものになっているけれど、それを彼が放棄すると言うのなら、きっと奪ってしまっても構わないだろう。
にこりと笑顔を向ければ、アルバはやはりわかっていないのだろう。小さく首を傾げて、へらりと笑った。
「わかった、じゃあよろしくね、ルキ」
「ッアルバさんの、ばーかッ!!」
そんな笑顔も、やはり好きなのだと――そう思ったけれど素直にそれを言うことは出来るはずがなく、ルキはただ一言、捨て台詞のような憎まれ口を置いて、アルバに言われたようにクレアの元へ向かった。
ルキがいなくなって、アルバはぼうと虚空を見つめていた。
ああは言ったけれど、アルバが呼んだとして、本当に彼が来てくれるかはわからない。
それでも呼ばなければならないと、アルバは知っていた。そうしなければ、きっともう彼に会うことは出来ないだろうから。
だから――震える唇で、小さく、けれど確かに彼の――自分の護り手の名を、呼んだ。
「――……ロスッ」
暗闇の中、ぼうと赤色が見える。それが、彼の瞳だとわかったのは、その距離が近くなったからだ。
離れたところに浮かんだそれをしっかりと見ようとして、アルバは身体を起こそうとした。その瞬間に走った激痛に、ぺたんとまた地面へと横たわる。ルキにはああいったけれど、大分ぎりぎりなことはアルバ自身わかっていた。放っておけば、命に関わることだって。
けれど、ルキに傷を治して貰えばロスは来てくれないだろうと思っていたし――これを言えば、きっとルキやクレアなどは怒るのだろうけれど――その結果死ぬことになったとしても良いと、アルバは本気で思っていたのだ。
だから、それが本当に彼だとわかった時。痛みさえ忘れて手を伸ばした。
けれどその指先はぎりぎりで届かない。彼は、立ったまま、地面に膝をつくアルバを冷えた目で見下ろしていた。
「……バカですか、あなたは」
「ろ……?」
そして、はあと溜息をついて、呆れたような声で呟いた。いきなりの言葉に、何を言われたかわからずに、アルバは二三度、ぱちりと瞬きをする。そんなアルバに、ロスは尚も言葉を重ねる。
「バカですか、って言ったんです」
わざとらしい大きな溜息をついて、ロスは大仰に頭を掻いて見せた。
「何考えてるんですか、折角ルキが治してくれるっていうのにわざわざ断って……」
そんなロスへと、けれどアルバは緩く微笑んだ。
「……でも、ボクの、護り手は、お前だろ?」
「……は、」
アルバが何を言ったのかわからない、というようにロスはぽかんと口を開く。けれど、そんなロスへと反応することなく、アルバはそのまま続けた。
「怪我とか、護り手に治してもらうものでしょ」
違うの?と、首を傾げれば、ロスはばつが悪そうに、そっと視線を逸らした。そうして、ぽつりと、苦い顔で呟く。
「護り手……ねぇ、」
そして、一つ大きな溜息をついて、嘲笑うかのように口元を歪め、再度アルバへと向き直った。
「護り手ってのは、主が必死で戦ってる時に、傍にいなくてつとまるものですかね」
「普通はつとまらないだろうな」
けれど、それに怯むことなく、ただただ穏やかに言葉を返すアルバへと、ぴくりと眉を動かす。
「でも、ボクは呼ばなかった」
「……呼ばれなくたって、普通飛び出してくるものじゃないんですか?」
馬鹿にしたような声音。呆れたようなそれに、けれどアルバは緩く頭を振る。
「普通は、そうかもな」
「それでもあんたは、オレを護り手だって言うんですか?」
ロスからの問いに、けれどアルバは悩むことなく淀みなく答えていく。
「だって普通じゃないだろ」
そして、アルバが言い切った言葉に、ロスは目を丸くして、ぽかんと口を開いた。
「……は?」
「ボクたちの出逢いはそもそも普通じゃなかった。護り手になってからも、ボクを攻撃したり、助けてくれなかったり、って護り手としての普通から外れたことばっかしてたんだから、今更普通とかそんなの関係ないだろ?」
アルバは、まっすぐにロスの赤い瞳を見つめる。
ロスとアルバは、普通じゃない出逢いをして、普通じゃない関係を築いてきた。
──世界を呪ってその身体にある魔力で世界ごと全て壊しかけたあの日から。
一方は千年を生きる、魔性の王で、一方は破妖刀や魅了眼を持つといっても、ただの人間だ。
城から旅だった勇者と、妖主が共になど、普通は有り得ない。けれど、その普通が、二人には適用されなかった。
だから、ロスはアルバを選び、アルバもまたロスが共にあることを許した――それが、確かな二人だけの絆だった。
逆にアルバから返ってきた問いと、まっすぐな眼差しを受けてロスは、ぐしゃぐしゃと頭を大きく掻いて、はあ、と大きく溜息をついた。
「……バカですね」
その声音には、先程のような馬鹿にしたようなものではなく、まるでしょうがないなあ、というようなそんな温かな響きが含まれていた。心なしか、表情も和らいだような気がする。
「ロス」
ふと、アルバがロスの名を呼び、手を伸ばす。さっきは届かなかったその指先が、今度はしっかりとロスの服に触れる。アルバが指先に力を入れてきゅ、と握りしめれば、途端、ぼろり、とその黒い瞳から突然涙がこぼれ落ちた。
「……ッ勇者さん?」
「ごめ、ちょっと、安心して」
そんなアルバの涙に動揺したのか、先程までの挙動が嘘のように、ロスが狼狽える。けれど、アルバはそんなロスの変化には全く気付かないで、涙を流しながら呟く。
「……来てくれて、嬉しかった」
「勇者さん」
「……でも、言いたいことあるんだったら最初から言ってくれればよかっただろ……もうボクの傍にいるのがいやならそういってくれれば、ボクだって……」
「勇者さん……」
ぽろぽろと涙を流しながら、けれど笑みを浮かべてアルバはぽつりぽつりと小さな声で呟く。
「そんな、成り行きで治してくれるぐらいなら放っておいてくれたほうが良かった……見殺しにする気なら、治してくれなくてもいい」
そして、顔を上げたアルバの黒い瞳は、まっすぐ、ロスの赤い瞳を捉える。
「……どうして、生かしたの、」
「ッ」
アルバの純粋な、心からの疑問への答えはない。ロスは、何かを告げようと二三、開きかけた口は、結局閉ざされてしまった。それをみて、アルバはやっぱり、というように、寂しげに微笑んだ。
「期待させといて、裏切られるくらいなら、ボクはそんな優しさいらないんだよ」
「ゆ、しゃさん」
「傍にいるっていってくれたこと……凄く嬉しかった。でも、それが嘘になるんなら、残酷なだけじゃないか……」
アルバが掴む指先に、じわりと力が篭もる。離さないというようなそれは、けれど微かに震えていて。ロスは、それを抑えようと触れようとして、ぐ、と拳を握り締めた。
「ロスが、おまえが……」
「……オレがなんですか。言っとくけど、オレ、凄い忍耐強いと思いますし、すっげー優しくしてたと思いますけど?」
内心の動揺を隠しながらロスがそう呟けば、アルバは大きく頭を振った。
「優しかったよ!でもそれが全部嘘ならいらないんだ……ッ、うそつき、ずっと一緒に、傍にいてくれるって、いったのに、」
あんなにゆっくりと、言葉を綴っていたアルバが大きく叫んだ。いきなりだったからか、痛み故か、身体を折り曲げて、ぜいぜいと荒い息をしながら――けれど、アルバは尚も言葉を続ける。
「……ッボクちゃんと聞いたもん、本当にいいの、って、それでもいいって言ったのはお前だろ……ッ」
縋るように、その指先が服ではなくロスの腕を掴む。まっすぐに見つめる夜色の瞳に、まるで魅入られたように、ロスはその動きを止めた。
「言ったくせに、なんで、どうして、いなくなっちゃったの……」
ぼろぼろと、流れる涙は止まらない。すん、と鼻を鳴らして、アルバは尚も続ける。
「傍にいたくないなら、一言いってくれればいいんだ……ッ何も言わないで、どっか行くから――」
そこまで言った時、ロスはアルバの腕を掴み、ぐ、と胸元へ抱き寄せた。
「……もう、いいです」
強く、強く抱き締めながら、ロスは尚もアルバの耳元で囁いた――その瞬間、ぐらりと世界が揺れた。
まるで意識を闇に落とされるような感覚。覚えのあるそれは、ロスがいつも使う手口だと、アルバはわかっていながら、逆らう術を持たない。
「……オレの負けでいいです」
「ち、ろ……す……」
柔らかな、ロスの声。それを薄れる意識の向こう側で聞きながら、アルバは必死に彼の名を呼んだ。まだ話してないことが沢山ある。こんな途中で、強制終了なんて卑怯だと――そんな言葉は、けれど音になることはなく、アルバの意識は眠りへと落ちた。
「だから――」
掠れたようなロスの声と、最後、唇に触れた柔らかな感触だけを残して。
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