身体中に出来た傷。それをロスは、一つ一つ唇を近づけては治していく。
触れる指先は冷たくても、傷に触れる舌の感触は酷く熱い。同時に傷口にじわじわと滲みる唾液にアルバはそっと顔を歪ませる。
なれたはずのそれに嫌悪感などあるわけがない。それなのに、いつもとは違う感情を抱くのは、きっと気づいてしまったからだ。
日常的な暴力じみた触れ方じゃない、傷を癒やすための方法として仕方がないことだとわかっていながら、それでもアルバは大きく鼓動を鳴らす心臓と、ただただ温度の上がっていく身体に心の中でそっと溜息をついた。
彼がこうするのは護り手だから。そこにはきっと、アルバの望むような特別な感情なんてないんだろう。
自覚して、すぐに諦めてしまったその想いに蓋をするようにぎゅうと胸に手を当てる。
大丈夫、いつも通りでいられる。すう、と息を吸って、そして吐いて。
煩いぐらいだった動悸が収まると、アルバはぼんやりとロスへと視線を移す。
足から、太腿へと伝う舌先が爛れてしまった火傷の痕に触れている。
ぞくりと感じる何かを意識しないよう、アルバはぽつりと呟いた。
「ロス……いや、シオン……って言うんだな」
それは、クレアが──そしてルキメデスが口にした彼の名前だ。きっとそれが彼の真実の名なのだろう。
騙していた、とは思わない。彼にとって自分がどんな存在であるか、なんてまだわからないけれど。
だって、彼は何も語らない。
「ロス、シオン……どっちで呼べばいいかな。本当の名前がいいのなら、シオンって呼ぶし……」
そこまで言って、アルバはきゅっと唇を引き絞った。
真名ではない名を教えたのは他でもない目の前の男だったけれど、魔性にとって名前は特別なものだ。
彼が偽りの名をアルバに教えた、と言うことは彼にとってアルバは真実の名を教えるに値しない者だということだ。
そんな特別なものをそう簡単に他人へと教えることはない──それは当然のことで、そのことに対してアルバはちゃんと理解も納得だってしていた。
けれど、同時にじくりと胸の奥が痛む。彼にとって特別なんかじゃない、と改めて思い知らされたようで。
「勇者さん?」
アルバの様子を不思議に思ったのか、彼はそっと顔を上げた。
首を傾げてアルバを見遣るその瞳には、純粋な疑問が浮かんでいる。
彼はアルバの心のうちなど知らないのだろう──知らなくていい。
アルバさえさっき自覚したばかりのまだ小さなその感情は、もうこのまま一思いに捨て去るべきだ。
そうは思っていても、こうやって近くにいて、触れていれば、どうして今まで気付かなかったのだろうか、というくらいにそれは少しずつ体積を増していく。
胸を侵食し身体中に回っていくようなそれは、まるで毒素のようだと思う。
「……あの日、お前がロスって名乗ったから、ボクはお前をロスだと思ってたし……でも」
痛む胸をぎゅうと抑えこむ。これをいうことで、彼は離れてしまうかもしれない。けれど、一度考えたらダメだった。
まるで胸の奥からぽろぽろと零れるような感情を、アルバは吐息とともにそっと吐き出す。
「ボクがそう呼んでたから、答えてきたんだろうけど……お前が、……本当の名前で、呼んでいいって言うんだったら」
「アルバ」
短くいつもは呼ばない名前で彼はアルバを呼んだ。そして、そっと人差し指で言いかけた言葉の続きを封じる。
「ろす……」
「それでいいんです。それが、今のオレの名前です。確かにオレの名前はシオンですが、あの日、勇者さんがオレのことを、『ロス』って呼んだ、その瞬間にオレの名前は変わりました。……勇者さんが、変えたんです」
思わずその名を呼んでしまったが、ロスはただ優しく微笑んでいた。
そして、アルバの唇を指でなぞりながら、ロスは呟く。
「お前が、オレを変えたんだ」
優しい言葉、優しい微笑みにアルバはただ泣きたくなった。
昔逢った時から、彼は優しかった。いつもの態度に隠れてしまうけれど、彼がアルバをずっと優しく見守っていてくれていたことを、アルバは知っている。
──世界を呪ってその身体にある魔力で世界ごと全て壊しかけたあの日から、ずっと。
「だけど、ロス」
「慰めるための嘘じゃない。お前が、オレを変えた。他の誰が『シオン』と呼んでも」
そう言って、その腕がするりとアルバの背に回った。優しく背を叩くその感触に、アルバはそっと顔を伏せる。
「オレには届かない。……オレの名前は、ロスだし、それを呼べるのも勇者さんだけですよ」
きっととてもきれいな笑顔を浮かべているのだろう。それを見れないのが惜しいと思ったけれど、アルバは涙を堪えることに必死で顔をあげることが出来なかった。
出来たのは、胸の中の感情を滲ませないように、涙を零さないように、絞りだすようにその名を呼ぶことだけだった。
「……ロス」
「シオンと呼びたいならば、呼べばいい。あなたがなんと呼んでも、オレには届く。あなただけが、オレを呼ぶことが出来るし、縛ることも出来る……他のヤツには、誰一人、オレを繋ぐことなんて出来ない」
優しく紡がれる言葉たちは、じわりじわりとアルバの心へと染みていく。
まるでそれは、特別だ、と言われているようで。
今の想いを抱えたままでいることを許されたようで。
「過去を知りたいなら、教えますよ。対して楽しいもんでもないですけどね」
回された腕にぎゅうと力がこもってさっきよりも強く身を寄せられる。
身を硬くするアルバに、ロスは喉の奥で微かに笑った。
「……ずっと、傍にいます」
「ロス、」
耳元で囁かれた言葉に、思わずアルバは顔をあげていた。
優しい笑み。美しい柘榴の双眸。
自惚れてもいいのだろうか。彼の、ロスの──特別なのだと。
諦めなくてもいいのだろうか。この、自覚したばかりの幼い感情を。
アルバの夜色の瞳に、ロスはひたりと視線を合わせる。
滲む優しさに、アルバの胸はまた一つ大きく跳ねた。
「だから笑ってくれませんか。オレはアンタの何も考えてないようなバカっぽい笑い顔が存外気に入ってるらしいです」
ぷえーぷえー、とまるで先程までの空気を払拭するかのように、ロスは笑った。
けれど、そのいつもと同じ、アルバのよく知るロスの笑顔を見たらもうダメだった。
ずっと堪えて瞳一杯に溜まっていた涙が一粒ぼろりと落ちて、アルバの頬を濡らした。
泣いたらダメだとずっと思っていたのに。一度決壊したそれは次から次へと溢れだして止まることはない。
止まれ。そう思って再び顔を俯けたアルバの頬に、冷たいなにかが触れる。
冷たいはずなのに、そこから伝わるじわりとした熱。そして、優しく拭うような動きにアルバはそれがロスの指先だと気づいて、びくりと身体を震わせた。
「ねぇ、勇者さん。泣かないで下さい。アンタがそうやって泣いてるとオレはどうしていいかわからなくなるんです」
まるであやすような優しい響きのそれには、戸惑いも確かに滲んでいた。
ずっと、敵わないと思っていた。
だって、ロスは人間じゃない。アルバよりもずっとずっと長い時を生きている魔性だ。
子供扱いされるのもいつものことだったし、それが当然だとずっと思っていた。
そして、いつか離れることになることも。
これが、ロスの気紛れでしかないということも。
──けれど、ロスは『ずっと』と言った。
彼の言葉をどこまで信用していいか、アルバにはわからない。元より魔性の『ずっと』がいつまでなのか、アルバは知らない。
だけど、千年の時を生きる彼にとって、きっとアルバの一生なんてとても短い時間だ。
それならば、彼の『ずっと』は、アルバにとっての『ずっと』とほぼ同義と言ってもいいのかもしれない。
「……ボク、ロスの傍にいていいの?」
「そう言ってるじゃないですか」
そう気づいて尋ねると、呆れたように、けれど酷く優しい声でロスは笑った。
「……」
すきでいて、いいの。
ロスがあまりにも酷く優しく笑うから──そう尋ねようとして、そっと口を噤んだ。
これはまだ、言わないでおこう。緩く胸を締め付けるような感情に、けれどさっき開いてしまった蓋はもう必要ない。
アルバはまだ、ロスのことを何も知らない。
赤の妖主。千年の時を生きる魔性。アルバの護り手。
長い時を生きているのだから、彼には彼の過去がある。それを知って、そうして彼と共にありたい。共にいれる、自分になりたい。
この想いを告げるのは、それからだ。
そう、心に決めて、アルバは静かに頷いた。
「勇者さん?」
そんなアルバを不思議に思ったのか、ロスがそっと問い掛ける。
その柘榴色に視線を合わせて、アルバは満面の笑みをそこへと浮かべた。
「これからも、よろしくな。ロス!」
広がるアルバの笑顔に、ロスは二三度、瞬きをして、にやりと笑った。
「……ええ、勇者さん、いえ……アバラマン!」
「なんだその言い直し!」
「あはは、ぷえーぷえー」
いつもの調子に戻ったロスに、アルバは心の中でほっと息をついた。
「なにはともあれ、これで今回のクエストも終了だな!」
「そうですねーじゃあ城へ戻りましょうか」
「……あれ……そういえばトイフェルさんは?」
いつもは剣として自分の腰に下がっている破妖刀の姿がそういえば先程から見当たらない。
きょろきょろと周りに視線を回しても、その目的のものはどこにも見つけることができなかった。
剣とはいえ会話もできるし人化することもできる特別仕様の破妖刀だから、先程の光景を見られていたら、と考えれば赤面ものだけれども、見つからないのは頂けない。
彼は、城の中でも一等特別な破妖刀だ。
そもそも、彼という存在があるからして、破妖刀が出来たといっても過言ではないし、他の破妖刀とくらべてみても、彼は頭一つどころか、きっと百ほどは違う。それほどの剣である。
それなのに、彼はいない。
脳裏にさっと過るのは、禁錮刑、という単語だ。
換えの利く何人もいる勇者なんかより、城で一番の破妖刀のほうがそれは大事に決まっている。
それをなくしたともし城のお偉方に知られたら、アルバは勇者の称号を剥奪されるだろう。そしてきっとまた牢獄に入るハメになる。
「ロス、トイフェルさんどこいるかしらない!?」
あわあわ、と慌てるアルバをみて、ちっと一つ舌打ちをしたロスは、次の瞬間にその美しい顔に笑みをべったりと貼り付けて言った。
「勇者さんが全身傷だらけになってごろごろしてる間に、先に城帰るっていってましたよ。腹膨れたから寝るって」
「ごろごろなんてしてないからね!?動けなかっただけだよ!って帰った!?一人で!?」
人型をとるのは疲れるから、と大体彼は破妖刀の姿でアルバの腰に下がっている。
彼が積極的に動くのはそれこそ魔性退治の時くらいで、あとは大抵眠っている。
だから寝るにしても、剣の姿でその辺に寝ているのが常なのに、今日はどうして城へと先に帰ったのか。いや、無事だったならそれでいいのだけれども、できれば一言欲しかった、というのはわがままだろうか。
「……トイフェルさん、確かに今日は途中でもうお腹一杯だから動けませんって言ってたけども……」
普通の魔性ならともかく、今日の相手は妖貴だった。その魂を食べたのだから確かにお腹一杯にはなるだろうけれど。
「まぁいいじゃないですか。あいつ先に戻ってるんだから。オレたちももう帰りましょ、勇者さん」
ロスの言葉に、アルバは頷く。
確かにここでこうしていても無意味だ。トイフェルが先に戻ってるということは、もうクエストの終了も城は把握しているだろう。
傷は治してもらったけれど、疲労はそのままだ。そう考えると、途端にうと、と眠気が襲ってきた。
「ほらほら、もうちょっと目が眠そうですよ。勇者さん泣きつかれて眠くなるとかガキですね」
「うるさ……い……」
突然のひどい眠気に、アルバの視界がぐにゃりと歪む。あ、倒れる。アルバの意識はそこまででぷつりと途切れた。







「……まったく、本当無茶して」
溜息をついて、ロスは倒れこんだアルバの身体を抱きとめた。
まだ成長途中の幼い身体。まだ少年としか呼べないその体躯に、それでも酷くかき乱される自分が情けないと思う。
あの剣を帰れと一言で城へと送ったのはロスだ。大体、ロスとしてはアルバと二人でいいのだ。あんなのといつまでも一緒にいたいはずがない。
今は瞼の下に隠されている夜色の瞳。本人は自覚さえないそれが誰彼構わず誑し込むのを、自分も誑し込まれた一人とはいえ、面白いと思えるはずがない。
起きている間には触れたことのない、薄い唇にそっと口付ける。
そして、そっとその唇を舐めて、緩く開いた隙間から舌を挿し入れる。歯列をなぞり、舌と舌を触れ合わせ、そして熱い腔内を存分に味わったあと、やっとロスはその唇を解放した。
離した唇を唾液の糸が繋ぎ、ぷつりと切れる。
それを舐めとって、ロスは小さく口端を持ち上げた。
「……ねぇ勇者さん。アンタは知らないだろうけど、オレ凄いアンタのこと愛しちゃってるんですよ」
それこそ、その瞳に囚われて、こうやって『ずっと』一緒にいたい程には。
強い魔力を持つとはいえ、アルバは人間だ。囚われたことが不服ならば、殺すことも、出来ないことではない。
それをしない理由なんて一つしかない──ロスが、アルバを殺したくないからだ。
それをアルバはロスの単なる気紛れ、妖主の訳の分からない遊びだと思っているようだけれど、それは違う。
「……アンタはまだ、知らなくていいですけどね」
自分がこうやって囚われているのだから、アルバだって自分が繋いでいいだろう。
それにはもっともっと、成長して貰わなければならない。
その身体も、中身も──全て。
そうして、程よく成長した所で、その時を止めればいい。
今はまだ、彼は人の身で、だからこそ城へといることをロスも許しているけれど、もしその時が来たら自分の腕の中だけで囲えればいいとそう思っている。
「『そのとき』が来たら覚悟しておけよ、アルバ」
軽く唇に一つキスをして、ロスはその顔に笑みを浮かべた。
そしてその笑みに歪んだ柘榴には、ありありとした欲の色が確かに滲んでいた。



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