それは、春初めの日のことだった。
風は冷たくまだ寒さは残っているが、それでも花がほころびはじめ確かに春と感じられるそんな季節。

「晴れてよかったね」
雲ひとつない青空を見上げて狛枝はそういった。
同じように空を見上げた日向は、狛枝の言葉に心の中で同意する。
抜けるような青は、いつか見た空の色によく似ていた。
「苗木クンは、晴れの日が好きなんだ。特に、こんな空が青い日が好きだっていってた」
──だからよかった。
そう、ほっとしたように呟く狛枝を日向は横目で見遣る。
ユリの花を両手一杯に抱いた狛枝はあの日のことが嘘のように穏やかな顔をしていた。
あれから過ぎた時間が長いか短いか──日向は、まだ、とも、もう、だとも思っている。
けれど、今の狛枝の表情を見た時日向は無意識のうちに長かったな、と息をついていた。

思い出すのはちょうど境目となった日のこと。
あの日は今日と同じような春の日のことだった。
窓から見える花を見ながらそのうち花見をしようか。そんなことを笑いながら話していた。
その約束が叶う日は結局訪れなかったけれど。

その連絡を受けた時、ただはやすぎる、と日向は思った。
原因は聞いていない。未来機関のいう理由は違うだろうと霧切たちの顔を見て思っていたけれど、結局それを知ったとして彼が還ってくるわけではないのだ。
緘口令の敷かれているらしい本当の理由を、知っているものはどれくらいだろうか。
そんなことを考えるのは、思考を逸らしたいだけだと多分自分自身でわかっている。
残酷過ぎる現実が確かにそこにあるけれど、日向はそこから目を背けているだけだった。
様々な思考をどろどろに溶かして、日向はそこにいた。
部屋の中心におかれた棺を見て、ざわりと心臓が騒ぐ。
それをみるまで、多分事実と認識していなかった。けれど、今この瞬間に感情が駆け巡る。
出会ってから今まで。最後に交わした言葉や表情。
あれが本当に最後になるなんて思っていなかったのに。苗木はわかっていたのだろうか。いつものように、笑った彼は。
「っ、なえ」
名前さえ呼べない。呼ぼうと口を開いても、音が出てこない。
悲しい、なんて言葉で表せない喪失感に、日向はただそこに立ち尽くすことしか出来なかった。
ふらり、と横で細い身体が傾ぐ。隣に目をやると、そこには青白い顔で呆然としている狛枝の姿があった。
その姿をみて、日向はまた胸が詰まる。ああだって、狛枝と苗木は。
「…ねぇ、苗木クン」
震える声で狛枝は呟く。今にも崩れそうなその声が、耳にこびりつく。
「いかないでよ…」
悲痛な声。喪失の嘆き。この世の全ての絶望を固めたようなそんな響きに日向は耳を塞ぎたくなる。
ぽつりぽつりという小さな声なのに、それはまるで大きく泣き叫ぶ声のようだった。
誰よりも特別な者を失った者の慟哭の声を日向は初めて聞いた。
「ボクを…一人にしないで…」
縋りつくように、狛枝は苗木の棺の中に手を伸ばす。
触れたそれがいつもとは違うと知りながら、それでも狛枝はいつものように頬を撫でて、その手を握った。
けれど、白い頬が赤みを取り戻すことはなく、冷たい手に熱が灯ることもない。
苗木はただそこに横たわったままで笑うこともなく。そして、その手を握り返すことももうずっとないのだ。
それをみて、日向は知る。狛枝の苗木への想いを。
「もう一度、目を開けて、」
叶わない願いを口にして、狛枝は静かに涙を流した。一筋、二筋流れる涙はぽつん、と苗木の頬を濡らす。
これがもし、創作の世界ならばこの瞬間に苗木が起き上がることもあるかもしれないけれど。
ここは紛れもない現実で、過去は還らないし変えることが出来ない。
「ボクに…触れて、」
ねぇ、置いて行かないで。
そう、呟く狛枝は結局時間までそこから動くことはなかった。

それからずっと、狛枝は死んだように生き続けた。
「苗木クンが生きろ、といったから一応頑張って生きるよ」といってはいたが、狛枝の生活を見ていると緩やかな自殺にしか見えなかった。
そんな狛枝を見ていて、日向は一つ思い出したことを伝えた。忘れていたことが信じられなかった。
苗木との最後の会話。彼が遺した言葉。

『苗木は狛枝に伝えたいこととかあるのか?』
『えっと、…うーん』
『まあ、言いたくなければいいけど。自分でいうとか』
『ちがうよ。…えっとね…お願いがあるんだ』
『お願い?』
『えっとね、もしも狛枝クンがさもうどうしようもなくなってたら』
『いつもどうしようもないだろあいつ』
『あはは、…うん、日向クン。狛枝クンのことよろしくね』
『よろしくって、お前が世話しろよ。俺じゃあいつの相手は無理だ』
『無理じゃないよ。狛枝クン、日向クンのこと特別な友達だって思ってるから』
『特別な…でもまあお前がいれば大丈夫だろ』
『ほらこんな仕事だし。離れ離れになるかもしれないしさ』
『ああ、そうだな…で、何伝えたいんだ?』
『ボクが君の全ての幸運をもっていくから、これから先の君の人生すべてが幸福でありますように、かな』
『…苗木?』
『お願いだよ。もしも、何かあったら。狛枝クンに伝えて。…ボクは、ずっと君の幸せを願ってる、って』



「…ねぇ、苗木クン」
呟く声に、返事はない。それにも構わずに狛枝は言葉を続ける。
「キミがいないのに幸せに、なんてキミも残酷だよね」
なれるはずないのに。と呟いて、小さく息をつく。
日向に聞かされた言葉は、そこに苗木が存在しないことが前提のものだった。
そして、苗木がいったとおりに、あれから、狛枝に才能である幸運と不運の繰り返しが訪れたことはない。
それを知った時、狛枝はまた生きようと思った。
彼の願った幸せと、狛枝の思う幸せはきっと等価ではないけれど、それでも多分苗木は喜んでくれると思う。
「キミが今のボクをみたら…なんていうのかな、」
皺一つない上等な黒色のスーツを身につけ、いつもは方方へ飛んでいる髪を一つにまとめて。
腕に白い花束を抱いて、笑う姿は平素の彼とは印象が異なる。
あの頃の狛枝は、こんな恰好をしたことはなかったからその答えはもうずっとわからないままだけど。
「…笑ってくれるといいな、」
穏やかに笑って、狛枝は空を仰いだ。

そして、日向は狛枝と同じように空を仰ぐ。胸に湧き上がるのは、頼まれていたことを、成し遂げた充足感だった。
──俺は少しでも返せたか、と心の中の相手へ問いかける。
記憶の中に残る幼い顔が、柔らかく笑んだ気がした。




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