手にした封筒がやけに重い。
与えられた情報を日向は上手く咀嚼することが出来ず、だからただそれは情報のままぐるりぐるりと頭を巡るだけだ。
──教師からの"大切な話"が終わった後のことだった。
そんな調子だったものだから、日向はその部屋を退出したあともすぐに自室に戻る気にはなれず、ぶらぶらと歩いていた。
月が明るい。いつもとは違う景色が見たくて、日向は中庭へと向かうことにした。
いつもいる西地区から中庭までの距離は結構ある。しかし、それでも構わなかった。
落ち着いてなんていられなかった。
冬になりつつある今の季節、風は少し冷えている。中途半端に上がってしまった熱を冷ますのには適している。
時間は九時前。十時で封鎖されるこの場所へは、日向は数える程しか足を踏み入れたことがない。
それは、予備学科故の、下らない劣等感からだった。
この中庭は予備学科の立入が禁止されているわけではない。
けれど、日向はそこを憩いの場として利用する殆どが本科生であると知っていた。だから、行く気が起きなかった。
それなのに、今ここを訪れようと思った理由は、ただ、なんとなく、だ。
同じ場所にいることが落ち着かなかった。いつもとは違うところへといきたかった。
だから、西以外では比較的予備学科の生徒も利用をする中庭を選んだのかもしれない。
久々に訪れた中庭は、寒さと時間の問題だろうか。思ったよりも閑散としていた。
思わず詰めていた息を吐く。やはり、染み付いた劣等感は消えないのだろう。
ほっとした自分に腹が立つと同時に、さっきの話を思い出す。
「……やっぱり」
一つ、一つ、改めて考える。
提示された条件。与えられる、もの。
どうすればいいか、どうすべきなのか。答えは出ない。
ゆっくりでいい、と彼らは言っていたけれど、それが本当だとどうして言えようか。
日向だけにその話をしたとは、限らないのに。
話を承ければ、求めていたものが手に入る。たとえ、何かを捨てることになったとしても。
それでもいい、と日向は思っていた。どんなリスクがあったとしても、特別になれるのなら。
けれど、今。夢想していた願いが現実の話として、持ち上がっている。そうなって、日向は存外臆病な自分に気づく。
本当にいいのか。後悔はしないか。確かにリスクはある。けれど、求めていたものは手に入る。
分のいい賭けか。どうか。齎された情報が全て真実かどうかもわからないのに。
いつしか日向は、ぐるぐると思考の渦の中に嵌り込んでいた。それを、誰かの声が現実へと引き戻す。
瞬間、十時で中庭は封鎖されることを思い出した。今、何時だろうか──そう思ったものの、時計も携帯も忘れたことに気付く。
誰か、本科生ではない者がいないだろうか。そう思ってくるりと視線を回した日向の目に一人の少年が映る。
小さな身体。見覚えのない顔──ということは、本科生ではないのかもしれない。
本科生はそれこそ『超高校級』の枕がつくほど、有名人ばかりだからだ。
日向が顔を知らない少年。そして、その身体の小ささと幼さから多分年下だろうと当たりを付けて、声を掛ける。
「あーごめん。今何時かわかるか?」
「えっと……、あと十分ぐらいで十時だよ」
突然声を掛けた日向へその少年は笑顔で返す。それは、西地区では殆ど見ることのない明るさだ。
日向自身、久しぶりにこんな笑顔を浮かべる人間を見た。
予備学科では、他人との関係性がとても希薄だ。
誰も彼もが、自分こそが、という欲を持って生きている。他人など、単なる比較対象だ。
上を。ただ只管上を。そう願うものが殆どで、笑顔なんて浮かべる余裕すらない。
彼は、予備学科じゃないのだろうか。けれど、目の前の少年は本科生とは思えなかった。
良くも悪くも、とても普通に見える。
それは、希望ヶ峰学園において、異質なものにも思えた。
「……ありがとう、」
「ボクも時計見てなかったから、確認させてくれてありがとう」
にこりと笑って、じゃあ、おやすみなさいと少年は南地区の方へと戻っていった。
それが示すこと──それは、彼が本科生であるということだ。
残念だ、と思った。
もう、彼とはきっと会うことはないだろう。日向自身あまり本科の生徒とは関わりあいになりたくない。
(……ああ、でも)
あの笑顔は、また、みたいかもしれない。
そんなことを考えながら、日向はふらりふらりと西地区にある自室へと足を向けていた。
しかし、そんな日向の予想は外れ、件の少年とは二度目の邂逅が訪れる。
「……あ、こないだの」
「えっと、」
それからも、同じような時間に中庭で時間を潰していた日向は、ある日、あの少年を見つけた。
暗かったからか、あまり覚えていなかったらしい。すこしだけ残念に思うけれども、仕方がないだろう。
ごめんなさい、と謝る少年に気にするな、といって二度目の邂逅は終わった。
二度あることは三度ある、とばかりにそれからも、何度か中庭で日向は少年と出会うことになる。
幾度かの邂逅により、ぽつりぽつりと会話が増え、いつしか夜、中庭で話すのが日課となっていた。
そうして、知ったのは、彼が七八期生の『超高校級の幸運』であるということと、彼の名前が「苗木誠」だということだった。
彼は普通過ぎるほど普通の少年だった。
本科生でもこんな奴がいるのか、と感心するほどに。
同時に、本科生に対して、思っていた以上の偏見と、劣等感を持っていた自分に気付かされた。
消えない、劣等感。
それでも、苗木と話している間、彼に対する負の感情が浮かばないのが、日向自身不思議だった。
「凄いんだよ」
苗木はそういってよく話をする。
キラキラと大きな目を輝かせて、その唇が紡ぐのはクラスメイトや先輩──所謂本科生の話題だ。
最初はそれが日向の劣等感を刺激した。
ぎりぎりと日向の心を締め付けるようなそれを、聞いていたくはなかったけれど苗木の笑顔を曇らせたくはなかったから、ただ黙って聞いていた。
次第に、本科生の話とはいえ、苗木との話の種になるのならそれでいいと思うようになっていた。
才能を持って生きる少年少女の話を笑って聞けたのも、相手が苗木だったからだろう。
目を輝かせて、満面の笑顔で楽しげに話す苗木を見ることが出来ればそれでいいと思っていた。
その頃には、もう話の中身は気になるものではなくなっていた。
けれど、いつからだろうか。
笑顔で話す苗木を見る度に、もやもやとした感情が渦巻くようになったのは。
そして、気付く。
それは、明らかに苗木の話に出てくる本科生たちに対する嫉妬。
才能に対してではない。本科生という選ばれた彼等が妬ましいのは、事実だが。
──苗木が、彼等をあのキラキラした目でみているからだ。
心底嬉しそうに、彼等のことを口にするからだ。
もやもやとした感情は、まるで澱のように淀んで溜まり、いつしか黒く黒く凝っていく。
苗木との邂逅は嬉しいものであるはずなのに、その声を聞けるのは幸せなはずなのに。
日向の心は相反して嫉妬と欲、様々な感情でドス黒く染まっていく。
どうすればいい。
どうすれば、苗木は、自分だけを見てくれるだろうか。
あのキラキラした目が自分だけを映すには、どうすれば。
ぐるりぐるり、と思考を巡らせる。その途中で、思い出す。
あるじゃないか。自分に与えられた、選択肢が。
欲しいものを手に入れるための手段は、最初から手の中にあったのだ。
(……ああ、そうか)
苗木が、友人を先輩をあのキラキラした瞳でみるというのなら、その誰よりも最高の才能を手に入れればいい。
一番になればいい。そうすればきっと、他の本科生ではなく、自分のことを見てくれる。
そうでなくても、『超高校級』の才能を手に入れることが出来ればこの中庭だけでなく、向こう側で、一緒にいられるだろう。
心は決まった。
以前受け取った書類に署名を入れて、もう一度封筒へ戻す。
それを手に、日向は部屋の外へと足を踏み出した。
日向は知らない。その選択が、決めた未来があることを。
日向は知らない。苗木とは二度と、この学園内で逢うことはないということを。
そして、日向の背を押した、その感情の名を──日向はまだ知らない。
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