死の山と呼ばれるそこの頂上にやっと辿り着いた。
雪で真っ白なそこには、一本の枯れた木がある。崖になっているそこから落ちたならば、きっと命はないだろう。いや、それは頂点に限ったことではない。ここに来るまでに普通の人間だったら落ちて死んでいたっておかしくはない――そして、己はそんな状況に何度立たされただろうか。だからこそこの雪山が死の山、と呼ばれるのかもしれないと頂点に立ったロスはまるで現実逃避のように考えた。
「……ロスさん」
ルキの声に、ロスは小さく頷いた。手のひらの中に抱えた卵をぎゅっと握りしめる。
疑いは――ある。本当にこれでアルバが生き返るのか、なんてロスにはわからない。しかし、わからないけれど、縋るものなどこの方法以外に残されていないのだ。
深く息をついて、そっと顔を上げる。そうして、教えられた呪文を口にした。
「願わくば、我に力を……夜に震える、全ての思いよ。闇に立ち向かう、全ての生命よ……」
ロスが呪文を唱えると、握った卵にルキが持っていたペンダントが共鳴する。きらきらと光るそれを、三人が無言のまま見守る中、卵は空中へと浮かび上がる。しかしかしゃん、と軽い音を立てて卵は砕けてしまった。ひゅ、と誰かが息を飲む音がする。
「そんな馬鹿な……何のためにここまでして……」
雪の上に膝を折ったロスは呆然と呟いた。
「気を落とさないでシーたん……やっぱり、人の生命を蘇らせることなんて……」
クレアがそっと呟いた声すらも、耳には届かない。風の中、ロスは叫ぶように空へと向かって呼び掛けた。
「勇者さん、返事をして下さい……!」
けれど、その呼びかけに、言葉が返ることはない。心のどこかで無駄だと誰かが止めるのに、そうしたのは、それでも期待していたからだろう。
――奇跡が、起きるのではないかと。
だって、アルバと出逢った事自体が奇跡のようなものなのだから。
千年の時を越え、逢うはずのなかった彼と出逢った。
千年の時を越えて、ずっと抱えてきた全てが解決した。
そんなロスにとっての奇跡と、幸福と、運命の象徴がアルバなのだから。それぐらい――人が一人生き返るぐらいの奇跡が起きてもいいのではないかと。
けれど、現実は無慈悲にもロスの心の希望の花を摘み取っていく。
どんなに呼ぼうとも、アルバが声を返すことはない。
どんなに呼ぼうとも、彼が生き返ることなんて、もう、ないのだ。
「…………アルバ」
――絶望と、それでも捨て去れない微かな希望を込めて、ロスはもう一度だけ低く、重く――殆ど呼んだことのない――彼の名前を呟いた。
「空、」
呆然とした声で、クレアが呟く。は、とロスとルキが空を見上げれば徐々に太陽が欠けていくのが見えた。
「日蝕……?」
誰が呟いたのかすらもわからない。太陽が消え、闇に落ちた世界の中、気がつけば三人は『あの時』に戻っていた。
「勇者さん……ッ!」
目の前にはかつての自分たちと、消えてしまったはずのアルバの姿がある。それは、アルバが消える、直前の時。
「あの時の……本当に戻ってこれたんだ……この瞬間に……」
まだ、信じられないというようにクレアが呟く声がロスの耳に入った。けれど、目の前に映るものは確かな現実で、だからこそ、心臓が馬鹿みたいに早鐘をうつ。
「これが、時の卵の効果……」
「オレたち以外の時間が止まってるみたいだね」
ルキも、クレアも思い思いの言葉を口にする。制止された時の中で、動いているのは、ロスとルキとクレアだけだ。
あの時に、一緒にいた『ロス』も『ルキ』も、時間の停まった世界で、ただ、アルバだけを見ている。
「皆、石像みたいだ……ちょっと気味が悪いね」
そういって、クレアがぶるりと身体を震わせた。
「それじゃあ……」
そして、クレアは持ってきたアルバの人形と、そこにいるアルバを入れ替える。ロスが本物のアルバを腕に抱き、クレアが人形に同じような格好をさせて、アルバが先程いたところへと置く。
「これでいい、かな」
入れ替えが済んで、本物のアルバはロスの腕の中でまるで眠っているようだった。脈も、鼓動にも動きがないのは時間が停まっているからだろうか。抱き締めているのに、反応の返らないそれは、先程の人形のようで、けれど人形にはない温かさを感じて、ロスは、ぎゅ、とその身体を強く抱き締めた。
「……」
「よかった、アルバくん……」
「はやく戻ろうよ、」
クレアが、安堵したようにそう呟けば、ルキが眉を寄せて声を掛けた。
確かにいつまでもここにいるわけにはいかないだろう。
そう思った瞬間に、再び世界は闇に覆われ、気がつけば三人は元いた山の頂に戻っていた。白い雪。空にはまだ欠けたままの太陽。
変わらないそこで、けれど確かに変わったことは、ロスの腕の中に、アルバの姿があることだった。
「勇者、さん……」
ロスは、震える唇で腕の中で目を閉じているアルバに呼びかける。そして、そっと片手でその顔に触れた。
温かい。
生きている。
先程には感じられなかった確かに聞こえる息遣いと、伝わる鼓動。そして上下する胸に、ロスは泣きたくなる程の喜びを感じて、目を閉じたままのアルバをぎゅ、と抱き締めた。
「……おかえりなさい、アルバさん……」
微睡みの向こうに、誰かが呼ぶ声が聞こえたような気がして、アルバはそっと瞳を開く。ゆるりと開いた瞳にうつったのは瞳に涙を目一杯溜めたルキと、瞳を潤ませて、それでも優しく微笑んでいるクレアの姿だった。ほ、と息をついた瞬間に、ぎゅう、と身体を抱き締める誰かに気付く。そっと視線を動かせば、そこにはもう一人の仲間──ロスがいた。俯いていて表情がよく見えないが、なんとなく、居心地の悪さを感じて、そっとアルバは視線を外す。
「よかった、アルバさん……」
泣きそうな、けれど嬉しそうな声で、ルキが呟く。それを聞いて、自分は死んだのではなかったか、と思い出す。
「あれ、ボク」
「……そうです、アンタは一回死んでます」
「ロスさん!!」
アルバが疑問を口に出すよりはやく、その答えをロスが告げる。ルキがその名を呼んで制止しようとしたけれど、時既に遅く。アルバはもう知ってしまった。そして、連鎖的に、それ以前のことを思い出す。
「ッそうだ、皆平気だった!?」
「……アルバくんのお陰で平気だったよ」
ありがとう、とクレアが呟く。
よかった、そうほっと息をついた瞬間だった。
「 」
小さな、小さな声が聞こえた。それはまるで先程聞いた声にも似ている。それがロスの声だと、アルバは今更気が付いた。
「……ロス?」
──ふと、名前を呼んだのは、まるでそれが泣いてるように聞こえたからだ。そっと手を伸ばせば、触れるよりも先にその手首を掴まれる。え、と瞬きをしたアルバの黒い目に映ったのはにっこりと笑ったロスの顔だった。
「ぐえっ、……何すんだ!!」
そしてその瞬間にアバラを懐かしい痛みが襲う。デュクシ、と手刀を叩き込んだその犯人は、目の前で笑う男に決まっている。
「え、殴ってます」
そして、アルバの問いに答えるように、ロスはその犯行を認めた。悪びれないその表情。くすくすと笑う楽しげな声に、さっき聞いた響きはない。そんな声を聞いたことすらまるで全て夢だったかのように思える程に、ロスはいつもどおりだった――そうではないことも、ちゃんとわかってはいたけれど。
「whatじゃなくてwhy!」
そうやって、突っ込めばやはりロスは楽しそうに笑っていた。
けれど、いつもどおりの顔で、声で、笑ってはいてもロスがアルバの身体を抱き締める力を緩めることはない──その、腕に込められた力の強さが、アルバの中の疑問への答えなのだろう。
「死に損ないはちゃんと寝てて下さい」
「わぷっ」
べちん、と顔に手の平が降ってくる。けれど、それだっていつもの攻撃と比べても全く痛くない。あ、と思った時には意識が眠りへと落ちようとしていた。ロスが何らかの魔法を使ったのか、それとも実際に眠いのか。理由なんてわからずとも、ただそれに抗うことが出来ないことだけは、しっかりとわかっていた。
意識が落ちる、その瞬間に聞こえた呟きに、アルバはぎゅうと胸が締め付けられるような気分になった。
「……このバカが……もう今度はないですからね……」
ぽつりとロスが小さく呟いた言葉。バカ、という言葉は、けれどいつもとは違う響きを宿しているように聞こえて。いつものような明るさはない。からかうような響きもなかった。
きっと、ロスはそれをアルバが聞いているとは知らないのだろう。
ごめんね、そしてありがとう――そんなことを心の中で呟いて、アルバの意識はそっと眠りの淵へと沈んでいった。
ルキの魔法で山から一気におりた四人はすぐ近くの宿をとった。眠り続けるアルバと眠ってしまったルキをそっと寝台に寝かせる。
その後、傍についているといったクレアに後は任せてロスは一人外に出た。
星の、見えない空。けれど、ぽかりと浮かんだ丸い月に、先程山の上で見た日蝕を思い出す。
「……は、」
かたかたと、今頃になって、手が震えだす。
あの時――日蝕が起きる前、最後の希望だと思っていたあの卵が砕けた瞬間。目の前が真っ暗になって、何も考えることすら出来なかった。
よくよく考えれば時の卵なんて眉唾もののそれを信じるのもどうかと思うけれど、それにすら縋らなければ自分を保てない程に、ロスは絶望に心を支配されていた。
クレアが魔王に身体を支配され敵対することになった時だって、よく似た思いを抱いていた。
けれど、いつかは──そんなことを考えて、ロスはクレアがそうしていたように、クレアがそう言ったように、ただ魔王を追い続けてきたのだ。
「……よかった、本当に、」
ぽつり、呟いて壁に背を凭れたロスは、ずるずるとその場に崩れ落ち、そして片手で顔面を覆う。
クレアは――ロスの幼馴染は魔王に支配されていた身体を、アルバのおかげで取り戻すことが出来た。その時に、ロスの呪いも解いてくれた。ロスの抱えた全てのものを、解放してくれたのは――変えてくれたのは、アルバだった。
過去を変えることは禁忌と成り得る。しかし、アルバが変えたのはアルバにとっての現在だ。千年の時を経て、クレアの肉体は解放された。千年前の世界にクレアが戻れば、過去が変わってしまうかもしれないが現在に生きていくのだとすれば、何ら問題はないはずだ。
「ほんとうに、よかった」
喪うかと思った、と呟いて、一度は本当に喪ったのだと、思い直す。
痕跡さえ残さず消滅したアルバを、ロスはこの目で見たのだ。
手も足も動かすことの出来ないロスの前で、アルバは最期の力を使って――。
「……アルバ、」
けれど、過去は変わった――変えた。変えて、しまった。
過去を変え、摂理に逆らい、アルバという存在を蘇らせた。
それは確かに禁忌と呼べるかもしれない――けれど、どうしてもロスには諦めることなんて出来なかった。
そうして気がついた。微かな――それこそ、確証も何もない希望を拠り所にしなければならない程に、ロスの中でアルバという存在が何よりも大きくなっていたことに。
もう、言い逃れなんて、誤魔化すことなんて出来るはずがない。
今までは様々な言い訳をしながら、誤魔化して認めないようにしていた事実を、改めて突きつけられた。
ロスが、そういう意味で、アルバを特別に想っている、ということを。
「……認めるさ」
だから、もう、喪わない。手放さない。
そんな決意を心に刻んで、ロスは瞳を開いて、そっと微笑んだ。
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