「日誌?」
霧切響子は、一冊のノートを前にいつもの無表情で肯いた。
「一応、日々の記録ということで記入をしてほしいの」
「まあ、いいけど…」
手にとって、ぺらぺらとめくる。
それはあまりにも普通の大学ノートだった。これでいいのか、という疑問が湧くのも当然といえば当然のことだ。
しかし、霧切がそれに記入を、というのだからいいのだろう。
自問自答で自己完結。日向はぱたん、とノートを閉じた。
「一応10冊程度置いていくわ。たりなくなったら誰かにいってちょうだい。新しいものを準備するわ」
淡々と事務的に語る霧切に、なぁ、と日向は尋ねた。
「どんなことかけばいいんだ?」
未来機関のお偉方が見るのなら、あまりにも妙なことはかけないだろう。
希望とか未来とかかいておけばいいのだろうか?
まるで夏休みの宿題だ。誰かが見るという想定をすることで、それに沿って書こうとしてしまう。
「…日誌、というよりも日記ね。見るのはあなた達と、これから目覚めるであろう人達。未来機関のためというよりも、あなた達の、あなた達自身の記録として毎日のことを書けばいいと思うわ」
そして霧切は少しだけ考えてからこういった。
「皆でする交換日記と考えればいいんじゃないかしら」
そんな会話の末にはじまった日向たちの交換日記。そのノートの一冊目、もうページが残り少なくなってきた頃。
眠っていた仲間の一人が目覚めた。大なり小なりの問題が起き、それが一応の落ち着きをみせた時、ノートの仲間が二人増えた。
目覚めたのは一人だったが、それが一番の問題児だったのが原因だった。狛枝凪斗。『超高校級の幸運』にして、狂信的な、と枕がつくほどの希望厨。
そして、それを宥めすかし落ち着かせることができるのがたった一人だった。そのようなものが一人でも存在するということが、日向たちにとっての幸運だったのか、不運だったのか。
多忙を極めるその人物をおいそれと貸してくれ、ということは憚られ、どうすればいいか、と遠まわしに相談した日向に霧切は、「じゃあよろしく」とばかりに件のたった一人を島へと送った。
あまりのあっけなさに、日向をはじめとした島の人間は呆け、驚き、喜んだ。
そんな日向たちの反応をみた島へと来た未来機関の一員──苗木誠は、困ったような顔で「ごめんね、よろしくおねがいします」と頭を下げた。
しかし、日向には幾つかの疑問が浮かんでいた。
苗木は本人がどう思おうと、未来機関の中では『超高校級の希望』として名が通っているはずだ。そんな彼がやすやすとこんな所にきていいものなのだろうか。未来機関の方向性として、絶望は処分も致し方ない、だったのではないだろうか。そして、日向たちのことも含め、苗木たちはいろいろと忙しいのではないのか。
そんな疑問に苗木は笑って答える。
一つ、自分は隠蔽工作や事務仕事が苦手である。自分一人いなくとも、霧切や十神らがなんとかしてくれるということ。
二つ、『超高校級の希望』が「絶望の更生に行ってきます」、という名目を全支部の前で告げたということ。
お偉方は反対しているが、絶望だからと全員を処分してしまうのはいかがなものか、という考えのものも多い。その前で【希望】らしい理由付けをしているのだから未来機関が反対するわけにもいかず、とりあえずは容認されたということだった。
しかし、真実はそれだけではなかった。朝日奈から後日こっそりと聞いたことだが、それを聞いて日向は一気に未来機関へ向ける目が変わった。
どんなに書面上や、通信上で辛く厳しくあたられようが、苗木は、未来機関の中で『超高校級の希望』という名の隠れた(本当は隠れてすらいないらしい、少なくとも苗木以外は気づいている)アイドルであり、各支部に支援者が多くいる。そんな彼らが、苗木の「お願い」を本気で拒絶することができるはずなどなく、ツンデレ乙な対応の末に許可を与えたというわけである。
つまり、アルター江ノ島のいっていた「可愛いと評判」は、嘘ではなかったということだ。
最近になって、それらの隠れファンらの行動が若干目立ってきた。それを苦慮した苗木の所属する14支部の面々は、とりあえず、苗木に迫る魔の手から逃したかったという。
プレゼントという名の貢物や書類という体をとった恋文程度ならば構わない──なにせ本人は気づいてすらいない。しかしながら、引き抜きや誘拐、立場に胡座をかいたセクハラ及びパワハラの類はさすがに黙認できなかったという。当の本人は対して気にしていないのだから、周囲の心配はいかほどか。口を酸っぱくして伝えようが、彼はわかったよ、といって笑うだけなのだ。自覚がないのは罪である。
そしてあと一つ、最近休みも取らずに走り回っている苗木に強制休暇をとらせようという目論見もあったとのことだった。
苗木としては、仕事を休んできている気持ちが強いために後ろめたいところもあるようだ。しかし、戻ったところで霧切に追い返されるのがおちだろう。
それならば、みんなと交流を深めるいい機会だと思ったとのことだった。
苗木を連れて行った時の皆の目は正しく希望の光を見るものであった、と日向はその日の日記に記した。
「え、と。今日からお世話になります。よろしくお願いします」
夕食の席で、小動物よろしく、ぺこり、と頭を下げた苗木を拒否するものは誰もいなかった。
元々、未来機関の仕事の一環でこの島にも何度も訪れている苗木である。
その人懐こさと、前向きさでこの島の人間は既に陥落されたあとであった。
恐るべきは、『超高校級の希望』なのか、それとも、苗木誠という人間性か。
多分、両方だと日向は考えていた。
横から、ハァハァという荒い息の音が聞こえてきたが、無視をする。
他の面々も、関わると大変なことになると理解しているのか突っ込むものは誰もいなかった。
ただ、一人を除いて。
「こ、狛枝クン…!だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ、ああああ、苗木クンと一緒にこの島で生活できる幸運の上に、苗木クンに心配されるなんて…!幸運すぎるよね?あああああボクはどうなっちゃうのかな?ハァハァハァハァ」
(はじまった)
心配そうな苗木を除いた日向たちの思考は見事に一致した。
傍迷惑な希望信奉者。現在は、苗木誠信者となりつつある狛枝凪斗。
その言動になれてきたということか。否定したいがしきれない。長くはないが濃い共同生活を送っているのだ、これでも。
狛枝は大体一人で喋らせておくと、いつしか落ち着いている。だから放置が正しい処置の仕方だ。下手に突っ込めば藪蛇だ。皆それをしっている。
──のだが、その共同生活の新たな参入者。つまり苗木はそれをしらない。しらないということと、彼の本来の性格から、苗木は狛枝へと声をかける。
狛枝はその言葉に呼応するように己のボルテージを上げる。苗木はそれにまた相槌をうつ。なんて見事な悪循環だろうか。待てどもそのテンションが下がることはなさそうだった。
五人で視線を合わせ、ひとつ頷く。
「苗木ーそろそろ飯食おーぜー」
腹減った、と終里がいえば、苗木は狛枝から視線をそちらにうつす。
「あ、そうだね」
「狛枝ぁ!飯の時ぐらい静かにしやがれ!」
「苗木さんが来て初めての食事ですからはしゃいでしまうのはまあわかりますけれども」
「オレはソニアさんがいればいつでも──」
「苗木、今日はお前の歓迎会も兼ねてるんだ。お前が音頭をとってくれないか?」
「お、おんど?」
苗木と狛枝以外の面々はもうグラスを手にとっていた。
自身を呼ぶ声と、見つめる視線に、苗木が戸惑っているのが手に取るようにわかる。
そんな空気の中で、狛枝も同じように戸惑う苗木へと視線を向けていた。そこには楽しそうな笑顔が浮かんでいる。
「ううう、ええと、これからよろしくお願いします。みんなと一緒にボクも頑張るね!じゃあ、」
乾杯、という声とともにグラスのぶつかる音が響いた。
巡り巡って自分の手元に帰ってきたノートを見て日向は溜息をついた。
正しくは、自分の前日の記述をみて、だ。
苗木のページは、この島にきた感想が殆どを占めている。そして、「希望のカケラ 集め終わったよ」、「でもなんでパンツなんだろう」という言葉で締めてあった。
苗木がここにきて一週間。それを短いととるか長いととるかは個々人の感覚に任されるだろうが、多分時間なんて関係ないのだ、と日向は実感する。
よくよく考えてみれば、苗木はあの癖の強い霧切や十神をはじめとした14支部の面々と円滑な人間関係を築くことができるというスキルを持っている。
更に、あの狛枝に懐かれ、未来機関のお偉方のラブコールを一身に受けていることが、確かな事実だということを日向は知っていたはずだった。
それを本人が認識しているかどうかはいざしらず、彼はとにかく、人に構われる。そこに含まれるものは友情であったり好意であったり恋情だったりと様々だったが。
それが、自分を含めた仲間たちに適用されないとどうしていえただろう。
確かに、出逢って一週間ではない。更に、自分達を救ってくれた恩人というアドバンテージもある。
しかし、それらの条件を加味したとしても、昨日付けで皆の希望のカケラを集めてしまった、ということに日向は驚き、同時に苗木の人タラシの才能に感心した。
となると、苗木はここにいる全員のパンツを貰ったということか。と考えて日向は気づいた。
実は、日向は苗木がここに来る前、狛枝が目覚めるよりも早く「希望のカケラ」を集め終わっていた。
それなのに、日向は苗木とパンツ交換をしていないのだ。これは由々しき問題である。
苗木の書いた「パンツ」という言葉にそっと矢印を書いて、「俺はまだもらってない」と付け加え──それをまたぐしゃぐしゃとペンで塗りつぶした。
これを書いたとしても、苗木のもとにノートが届くのは大分あとだ。
それならば、もう、直接いったほうがいいだろう。
そう、思った日向はノートを広げたまま自分のコテージをあとにした。
その右手に自身のパンツを掴んで。
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