昨晩は酷い大雨だった。レイクが、すげー!!とはしゃぐぐらいには雷も鳴っていた。
レイクもシオンも雷を怖いと思うような可愛げのある性格はしていなかったが、家の電化製品は心配である。
近くでごろごろと鳴り続けるそれに、家中のコンセントを引き抜いて回り、真っ暗になった部屋の中。何をするでもなくして、早々に寝てしまった。
そしてその翌日の朝。昨日の雨が嘘のような晴天だった。レイクとシオンはテレビや、電話。パソコンに炊飯器と、家中の電化製品が壊れていないかという確認をして、何事もなかったと安心して学校に言ったのだけれども。
問題が起きたのは、というよりも気付いたのはその日の夜だった。
「……ダメだ、つかない」
それは、もう夕食も終わった頃のことだった。風呂の準備をしようとして、湯張りスイッチを押したシオンは、うんともすんとも言わないそれに首を傾げた。
そこに、どうしたシーたんとレイクが加わっても結果は変わらない。
押しても押してもそれは何の反応も示さない。風呂に湯は出ないし、そもそも水も出やしない。シャワーのほうは蛇口を捻れば水は出るが、水は水。もう秋から冬に変わろうとしているこの時期に水浴びをしたら間違いなく風邪を引くだろう。そして、そんな自虐趣味なんて兄弟二人とも持ちあわせていなかった。
「こういうとこ、やっぱオール電化って不便だよなー」
どうやったってシャワー(しかも水)しかでないそれに、諦めたようにレイクは溜息をついた。
「どうしよっか、シーたん」
見上げてくる兄の姿に、シオンは考える。が、良い考えなどあるわけもない。
「クレアん家……や、じーちゃんばーちゃんに迷惑か」
レイクが真っ先に口に出したのは、シオンも考えたことだった。勝手しったる幼馴染の家。クレアの祖父と祖母は、孫と同年代のレイクシオン兄弟も、一緒にまとめてかわいがってくれる。風呂が壊れたと告げたならば、きっと入っていけとか、迷惑なんて考えなくてもいいとは言うだろうが、それはそれこれはこれだ。
「一日だけならまだしも直るまでだろ?……あーアルバさんの家」
「シーたんそれ無理」
レイクに同意をして、けれど代替案を口にする。しかしそれはばっさりと切り捨てられた。アルバは一人暮らしで、多分風呂を貸してくれといっても断らないだろう。それなのに。
「レイク?」
不思議に思って尋ねれば、レイクは複雑そうな笑みを口元に浮かべてこういった。
「だってアルバさん家」
「風呂がないってどういうことですか、アルバさん!」
「……いきなりどうしたの、シオン」
放課後。生徒会室。そう言ってシオンが扉をあければその先にいたアルバは、黒と赤の目を丸く見開いて、一つ大きく瞬きをした。
「どうしたんだよシーたん」
ホームルームが終わるなり生徒会室へと走りだした幼馴染を追ってきたクレアは、ご乱心なその姿に首を傾げて不思議そうに呟く。それに返事を返したのは、もう役目は終えたはずの元生徒会長の姿だった。レイクは、生温い笑顔で後輩に詰め寄る弟の姿を眺めている。昨日も結構取り乱していた気もするけれど、まだ続いていたのか。というかそこまで問題にすることだろうか、とレイクは考えて、まあシーたんだしな、と一人で納得した。
「アルバさんのあのアパートに風呂がないっていったらこうなった」
「マジかよすげーな!ってあれ?アルバくんじゃあいつもはお風呂どうしてるの?」
クレアの問に、シオンからの圧力からやっと抜け出せると思ったのか、アルバが少しだけほっとした顔をして、二人のほうを向いた。
「えっと、近所の人が温泉やってて、そこのご厚意で入れさせて貰ってます」
だから大丈夫、と視線だけで安心させようとするけれどそれで納得出来るなら、それはシオンではない。まだ何か言おうとして、けれどそれを止めたのはクレアだった。
「温泉!?温泉ってこの辺にもあるの!?」
妙にテンションの上がったクレアに、レイクがアルバの代わりに返事を返す。
「アルバさんのお父さんのお知り合いでしたっけ」
「うん、後輩だったみたいで凄い良くしてくれるんだ」
うん、と頷いたアルバに、はいはいはいはーい!とクレアが勢いよく手を上げる。
「オレ行きたい!」
「クレア?」
レイクが首を傾げれば、クレアは手のひらをばたばたと動かして身体中でその希望を表していた。
「だって、オレ温泉とか行ったことないもん!行きたい!」
「温泉っていっても、テレビで見るような立派なとこじゃないですよ」
テンションの上がってしまったクレアに、アルバは困ったように笑う。
「それでも広いんでしょ?ね、アルバくんオレも連れてってよ」
「いいですよ、じゃあいつ行きます?」
目をきらきらさせているクレアに、アルバは多分なんといっても無駄だと思ったのだろう。嬉しそうな笑みを浮かべて、頷いた。
「今日行こうよ!思い立ったが吉日!!」
それをみて、更にクレアのテンションが跳ね上がる。細い手足をばたばたと動かして、喜びを示すそれを、アルバは微笑ましく眺めていた。
「あ、オレも行きたい!どうせ風呂壊れてるし当分直らないし!」
そんな二人の会話に、レイクがはいはーいと手を上げて入っていく。いこういこう!と嬉しそうなクレアと、じゃあ準備しないとですね、と笑うアルバ。
「……オレもいく」
そして、それを見ていたシオンははあと大きく溜息をついて三人の会話に同意した。どっちにしろ風呂は壊れているのだし、良い方向に転んだと言うべきか。
生徒会室に集まっているとはいえ、特にすることがあるわけでもない。アルバとレイクがここに来てしまうのはもう習性みたいなものだという。そこに、アルバがいるのなら、とシオンが来て、シーたん行くし皆いるならオレも行くーとクレアまで集まるのはいつものことだった。
だから、後の予定が決まった今、生徒会室にとどまる理由なんてない。いつも行く時間にはまだはやいから、と一度家に戻り晩御飯でも食べてから温泉には行こうと決めて、学校を後にした。
タオルに着替え。シャンプー石鹸ビニール袋。それらを一つの鞄にまとめて温泉準備は完璧だ。とはいっても、温泉道具にビニール袋なんて思い当たらなかった温泉初心者三人組はアルバから分けてもらった。濡れたタオルを入れる用だという。聞けばなるほどと思うけれど、濡れたタオルも一緒に鞄に突っ込めばいいだろうとも思うが、それを言えば鞄がぬれるだろ?と不思議そうに返された。シャンプーと石鹸は、いつもアルバが使うやつがあるから拘りがなければどうぞ、ということで遠慮なく使わせてもらうことにする。
「アルバくーん、これ靴脱いだら下駄箱に入れるの?」
「そうです、どこでも好きなとこに入れてくださいね」
「ねぇねぇこの板なに?」
「それ抜くと鍵掛かっちゃうので、中にいれてから抜いて下さいねー」
二人で楽しそうに笑い合っているクレアとアルバを見るレイクとシオンの顔は対称的だ。にやにやと笑いながら、レイクがちらりと横目でシオンを見遣る。
「なにシーたん。かわいいなオレのアルバさん、クレア殴る、オレも混ざりたいのど」
「うるさい」
「あっぶな!!」
からかうのも命がけだ、と間髪入れずに飛んできた腹パンを避けながらレイクは思う。過去で『勇者』をしていなければ多分直撃を食らって倒れ伏していただろう。シオンも昔の記憶を思い出しているのだから尚更だ。実はレイクは然程弟による物理を受けたことがないのだけれども、それでもアルバやクレアなどがその餌食になっていた様子は見ていたからその威力は知っている。
思い出してぶるりと身体を震わせていれば、シオンの視線はまた二人へと戻っていた。それに従ってレイクの視線も二人へと戻る。そしてまだ靴箱一つで盛り上がっている様子を見ていれば、なんとなく、口元が緩んでしまってしょうがない。レイクにとってみればクレアはずっと好きだった『幼馴染』であり、アルバはずっと変わらない大切な『勇者』だ。そんな二人が仲良く戯れている様子を見て、和まないはずがない。
「二人分入るの!?一緒いれていい?アルバくん」
「ありがとうございます」
にこにこと笑い合う二人を見ながら、けれどそれに対照的な横の冷えた空気を感じて溜息をつく。けれど、そうは言ってられないと、精一杯笑顔を作りながらレイクはぎこちなくもその冷えた空気を生み出している弟のほうを向いて、つとめて優しく声を掛けた。
「……じゃあシーたんオレのと一緒入れようか」
「……」
沈黙が、重い。向こう側の可愛い風景に混ざりたくとも、レイクはなんだかんだいって弟が大切な『お兄ちゃん』だった。
けれど、こうものろのろとレイクの声に促されるようにして靴を脱ぎ、靴箱に収める弟の姿を見て浮かぶのは、どれだけアルバさんのこと拗らせてんだシーたん、とそれにつきる。長年抱え込んできた恋心をやっと昇華させた弟のことを喜ぶ気持はあるものの、こんなシオンの相手は正直に言えばしたくない。
靴を入れて、鍵をかけて。次はロビーだ。先に進んだクレアは嬉しそうにアルバへと子供のように尋ねる。
「アルバくん、次何すればいいのー!?」
「そこで券を買ってください」
そんなクレアを、アルバも悪い気はしないのだろう。優しく笑って入り口近くに置いてある券売機を指し示す。
「ここで色々買えるんだなー」
見れば大人や子供、それだけじゃなくタオルやシャンプーまでボタンが用意されている。タオルは持っていているし、シャンプーや石鹸はアルバに借りることが決定している。
「見てみてレイク、髭剃りとかある!」
髭剃り、歯ブラシ、シャワーキャップ。何も持ってこなくとも、その身一つでも問題ないようなラインナップだ。
感心したようにレイクとクレアが券売機を眺めているのを、アルバが後ろから笑って眺めていれば、いきなり後方からどすんと拳が飛んできた。
「何すんだよシオン!」
ば、とアルバは振り返る。後ろにいるのはたった一人だ。
「そこにアルバさんが……いた、から……?」
「何そこに山があるからみたいな!」
アルバが名を呼べば、逆にシオンのほうが驚いたようにアルバのほうを見ていた。言葉を選ぶように、シオンがそういえば、反射的にアルバがツッコミを返す。
いつもの流れ。いつもの二人。先程まで重く冷えていた空気はもう消えている。
レイクとクレアはそんなシオンとアルバのやりとりを、にやにやと含みのある笑みを浮かべて眺めていた。
「……何笑ってんだ馬鹿二人」
「いや〜何も〜?」
「青春だね!シーたん!!」
じろりとシオンが二人を睨むが、けれど気にしないといったように二人は笑う。アルバはなんとなく気恥ずかしくなって、幼馴染三人の会話する姿から視線を外した。
その瞬間。
「アルバさん!」
とん、と腰にあたった衝撃。ぐるりと巻く手の暖かさはよく知るものだった。視線を下へとずらせば、そこにはこの温泉の経営者の甥っ子で、アルバを慕う少年の姿があった。
「あ、トリュウくん」
「誰ですかそいつ」
「えっと、さっき言ったライマンさんの甥っ子でトリュウくん」
ぶすくれたようなシオンの声に、アルバが説明をすれば、師匠の一番弟子です!とトリュウはにこにこと笑いながらそう言った。その笑みは子供らしくなくて、昔見た『誰か』を思い出させる。
「師匠はやめてって」
それとは別に、アルバの腰にべったりとくっついているのがまず気に食わないのだけれども。シオンが心の奥で嫉妬の炎を燃やしながらそんなことを考えていれば、いつのまにか後ろにいたレイクが呆れたように呟いた。
「……シーたん顔怖い」
券売機で券を買い腰にトリュウをくっつけたまま、アルバは受付のところへ向かう。それを後ろから眺めるシオンの眉間には深い皺が刻まれて、更にその後ろからレイクとクレアは生温い笑みをもってシオンを眺めている。
「ライマンさーん!はい券大人三人分です」
「はい、ありがとう……アルバくん、お友達?」
アルバが名前を呼べば、受付の奥からだらしない格好をした男が出てきた。無精髭の生えたそれを見れば、券売機で髭剃りを売るのなら寧ろ自分の髭をどうにかしろと言いたい。ライマンと呼ばれた男は、ちらりとアルバの後ろにくっついている自分の甥っ子をみて、苦笑する。またか、という視線でアルバを見ると、アルバも小さく笑ってそれに答えた。
シオンの周囲を包む空気がまた少し、冷えた気がする。
さっきは少しだけ持ち直したのにまたこれだ、とレイクとそしてクレアも同じことを思う。シオンが嫉妬深いのも、アルバのことを大切だということを重々承知しているが、その重さをこうやって目にするにつけ、これはアルバにしか手に負えないな、と思うのだ。
「はい。すみません、騒がしくしちゃって」
「いいよいいよ、どうせお客さんもこの時間帯少ないしねー」
アルバの謝罪に、ひらひらと手を振ってライマンは答えた。
「いつもありがとうございます」
「クランさんにはお世話になってたし、アルバくんにも色々と手伝って貰っちゃってるからこちらこそありがとう」
「師匠ーまたごはん作って下さいー」
アルバの腰に抱きついたまま、トリュウが嬉しそうにそう言う。ちらりとシオンのほうをみて少しだけ勝ち誇ったような笑みを浮かべたのは気のせい、じゃないだろう多分。空気が更に冷えたような気になって、クレアもレイクも心の中でこの状況が少しでも変わることを願っていた。そしてそれを変えることが出来るのはアルバだけだということも。
「ほら、トリュウくんだってこう言ってるし。また家にもおいで」
「っていうか師匠もうちに住めばいいんですよ!」
「トリュウくん勝手なこと言わない」
苦笑するアルバ。楽しそうなトリュウ。そしてそれを眺める般若の顔のシオン。その雰囲気も理由だとは思うけれども、更に温度を下げたのは、きっと内容のせいだろう。はやくーはやくー!と心の中で叫ぶけれどアルバも他の面々もきづいている気配は全くない。
「別にオレはそれでも構わないけど」
「ライマンさんまで」
そこにライマンまで加わればその形相もどんどん変化していく。恐ろしい。はやく温泉に入って温かくなりたいと思いながら、けれどあの空気の中に割って入って行く勇気は二人にはなかった。
「だって師匠のごはんおいしいですもん、師匠みたいな――」
「アルバさん、はやく行きましょう」
そしてそれを打破したのは、シオン本人だった。やや頬を赤らめているようなトリュウの言葉を笑顔でばっさりと遮る。
「あっ、うん、じゃあいってきます」
「ごめんね引き止めて。これがロッカーの鍵。ごゆっくり〜」
シオンの言葉に、不穏な空気を感じ取ったのだろう。ごめん、という謝罪は明らかにシオン一人へ向けたものだった。気付くならさっさと気付いて欲しい。機嫌急降下中のシオンの相手をするのは、今はアルバだろうけれど、後々は自分たちにも降り掛かってくることだ。
ライマンはアルバの手にロッカーの鍵を四人分のせて、ひらひらと手を振る。トリュウの腕からはなれて、アルバは、シオンやレイク、クレアと共に風呂場へと向かうが、それを見てトリュウはなんともいえない拗ねたような顔をしていた。
「遅いですよ、アルバさん」
風呂場へと向かいがてら、シオンが溜息と共にそう零す。それを聞いて、レイクは思わず、シーたんがデレた!と心の中で叫んだ。
普段の弟ならば、あんなに不機嫌でもその理由は言わないだろう。あって無言の物理による抗議だ。それを少し拗ねたように呟くものだから、丸くなったねシーたんと、兄なのになんだか父になった気分である。いや本当に父がこんなことを思うかなんてわからないけれど。
「シーたん般若の顔してぐはぁッ!」
にこにことしながら、クレアがそこでしみじみと呟いた。瞬間、速攻でシオンの裏拳がクレアの脇腹に入った。ばたんと倒れ伏して笑顔でふっ、と笑ったクレアをみて、アルバがあわあわとその名を呼ぶ。
「クレアさん!あああいいパンチだったぜみたいに笑わないで!シオン!?」
ツッコミをいれつつ、視線をクレアとシオンにうろうろと移動させるアルバに、けれどシオンは視線を合わせようとはしない。
「ほらほら、クレアさっさと起きろー」
「あーいたかったー」
ぺちぺちとレイクがクレアの頬を軽く二三度叩けば、クレアはああよく寝たとでも言うかのようにむくりと起き上がった。耐性があると言えば聞こえはいいが、多分もう身体がならされてしまっているのだろう。レイクはなんだかんだで強い攻撃は躱すものだから、その餌食は毎回クレアである。
「クレアさん!?それでいいんですか!?」
悲鳴のように名前を呼ぶアルバに、平気平気ーとクレアは立ち上がり暖簾をくぐる。男と書いてある青い暖簾。そこをくぐれば扉があって、そこを開けば沢山のロッカーがずらりと並んでいた。
「ねぇねぇ、アルバくんここどこ入れたらいいの?」
あまりにも多いその量に、クレアが尋ねれば、アルバは持っていた鍵を一つクレアへと渡した。
「あっすみません。これがロッカーの鍵です」
「わーいありがとう!えっと、さんじゅうばん……三十番はどこ!」
クレアの問に、アルバが指で方向を指し示せば嬉しそうにそちらへと行ってしまった。それを見ながら、アルバは持っていた鍵をシオンと、レイクにも渡す。
「多分そっちだと思います……はい、レイク、と、シオンも」
「ありがとーアルバさん」
「……ありがとうございます」
「あったー!なんかこれ開けると宝箱みたいになんか入ってたりしないかな!」
ちょうど藤かごの置いてある棚の向こう側からクレアの声がする。きっと三十番のロッカーを見つけたのだろう。うきうきしているらしいクレアのほうへレイクが向かう。
「なわけねーだろ、ゲームのし過ぎだ馬鹿」
「だって、ほら、HP回復アイテムとか入ってるかもしれないじゃん」
レイクの笑いながらの言葉に、馬鹿にされたと思ったのか、拗ねたようにぷくりとクレアは頬をふくらませる。
「RPGじゃないですからね!?」
突っ込まずにはいられなかったらしい、アルバはその藤かごの反対側から叫んだ。わかってるよおーとクレアは返事を返したけれど、クレアの発言は割と本気だった、と付き合いの長いレイクは一人頷いた。
「あ、オレ三十五番……ってことはクレアの隣?」
今更に鍵の番号をレイクが見れば、そこには三十五番の文字がある。クレアの横のロッカーにも三十五の数字があることからそこで間違いはないのだろう。
「お隣さん!」
「あーはいはい」
何が嬉しいのか、にこにことクレアが笑う。そんな表情を見ているのもいやではないので、レイクも呆れたような顔をしながらも笑っていた。
「鍵、掛けてーっと」
ふんふんと下手な鼻歌をしながら、クレアが服を脱いでいく。男らしくタオルで隠すなんてことはない。いっそ清々しいまでの脱ぎっぷりに、他三人は子供がいる、と一様に心の中で呟いた。
「クレアー、鍵なくすなよー?」
まるで大人が子供を諭すようにそういえば、クレアは子供扱いされているのがわかったのだろう。また頬をぷくりとふくらませて抗議した。
「なくさないってば!!」
「煩い」
レイクの横にいたシオンはクレアの背をばちん、と大きく叩く。
「いった!!シーたん今日はいつに痛い痛い痛い痛い!!」
そうしてぎりぎりと頭を片手で鷲掴み、にっこりと微笑んだ。
「さっさと先にいっとけ馬鹿」
シオンの言葉にはーいとおとなしくクレアは風呂場へと向かう。レイクもいつの間にか服をきっちり脱いでいて、その後に続いた。アルバももう既に脱いでいたのだが、温泉によく来るという割にきっちりと下半身にタオルを巻いている。けれど上半身は隠し切れない。そこに見えたものに、シオンは小さく唇を噛み締めて、そのまま三人が浴槽へと向かうのを見送った。
「まず身体洗って下さいね」
「これ押せばいいのつめたッ!」
洗い場についたクレアはアルバの隣に座る。目の前にあったボタンを押せばいきなり上から水が降ってきた。
「そっちシャワーですよクレアさん!」
「ううう冷たかった……!」
しかも中々止まらない。アルバがシャワーを外して別の方向に向けてくれたからよかったが、そうでなければその冷たい水をどうにかしようとずっと浴びてたのではないだろうか。
「ここで温度調節するんですよ。あとこっち押せば下の蛇口から出てきます」
「ううありがとう……お湯にして、またおし──って熱い!」
「ちょっとずつ変えて調節してください!」
そんなふうになれないシャワーとクレアが格闘しているのを、レイクとシオンは鏡越しに眺めていた。
「……シーたんそんな怖い顔して見てるぐらいなら横いきゃよかったのに」
「別に」
その声からは、到底別に、なんて思っていないことが伺えて、やっぱ素直じゃないなぁ、なんてレイクは小さく笑った。理由は色々あるだろうが、クレアとアルバの距離があんなに近いことも、もっと言えばさっきのトリュウ少年のことだって気に入らないのだろう。ただでさえ心の狭い弟だ。自分の『勇者』を誰にも渡したくないからとその死体を奪って逃げるような男だ。抱えた妄執は何より深く、その闇は酷く濃いに決まってる。
「そっちシャンプー使うー?」
「あ、くださーい」
アルバが振り返ってシャンプーのボトルを振る。横では、クレアが髪をわしゃわしゃと洗っていた。バリサン〜なんて昔のどっかの誰かのような髪型をしているが、実際に見たことのないレイクはまだしも、それを残りの二人はどう思っているのだろうか。
「シーたん顔、顔」
けれど、そんなに機嫌が良いわけではないらしい。明らかに顔を顰めるシオンに、こそりとレイクは呟くが、それで戻るなら苦労はしない。深く刻まれた皺をみて、レイクにはもう笑うことしか出来ない。
「アルバくん洗いっこしよーぜ!」
「いいですよー」
二人であんなふうに仲良くしているのを見るのは、レイクにとっては眼福だ。シオンにとっては嫉妬の炎に油を注ぐだけのものでしかないだろうが。ふふふ、と笑い合う二人を見て、さっき感じていたよりも冷えた空気が横から漂っているのをレイクは気付いていた。
シオンとアルバが付き合いだしたのは知っている。けれど一線を超えていないこともまた、レイクは知っていた。
余裕がないのはそのせいだろうか。
レイクもそういう意味では、シオンと同じなのだけれども、一緒にいられるというそれだけで満足している節があるからそれだけが原因じゃないとはわかっているのだけれども。
「こうやって背中流してもらうのとか久しぶりで……」
「アルバくん……!」
「わ、く、クレアさん……ッ!」
鏡越しのクレアとアルバを見ていても、レイクの心には一片も嫉妬めいたことは浮かばない。それはレイクの心が広いというわけではなくて。
「かわいいよなーあの二人」
「……兄さんは平気なのか?」
「だってアルバさんだぜ?」
「……」
呟いた言葉に、シオンがぼそりと横から零す。嫉妬しない一番の理由を口にしてみれば、シオンはむっつりと口を噤んでしまった。
「あっお湯にタオルを浸けちゃだめですよー」
「わかってるよー」
どうやらクレアは全身を洗い終わったらしい。先に浴槽へと向かう姿を見送って、アルバはタオル片手に二人のほうへと近づいてくる。
「レイク、シオン、背中流そうか?」
こてんと首を傾げてそういうアルバを見て、レイクは改めて考える。
レイクにとって、嫉妬の対象にも、寄せる性の対象にも成り得ない理由。それはやっぱり言葉にするのなら『アルバ』だから、としか言いようがないと思うのだ。
「オレは大丈夫ですー」
「い、」
「い?」
言い淀んだシオンに、アルバが首を傾げてずいと顔を近づける。多分アルバは少しも気にしてなんていないだろうが、生殺しだよなぁなんてことはレイクだって思うのだ。
「……いい、です……」
「遠慮するなよー」
顔を逸らしたままのシオンに、アルバの申し出を断わる理由が瞬時に幾つか浮かび上がった。けれどそれはレイクが言うことでもないし、多分二人で解決しなければ意味がないことだ。
ふう、と一つ溜息。お兄ちゃんらしく、助け舟を出してやりますか。とレイクはちょっと強引に話題転換を試みた。
「アルバさーん、こんな人が少ないのってやっぱ遅いからですか?」
「やっぱお年寄りの人が多いからねぇ……お昼なんかは結構多いんだけど、この時間帯はあまり人とあわないなぁ」
アルバはレイクの心情をわかっているのかいないのかは別にして、それにのってくれたようだった。この時間帯、とアルバは言ったが、多分この時間帯が少ないからこそ今を選んでいるのだろうとレイクは思う。
「まあ知る人ぞ知る的な場所だしまさかこんなとこで温泉出るとは思わないだろうしなー」
レイクたちの住む町で、他に温泉が出たという話は聞いたことがない。だからこそ、シオンもクレアも、そして最初はレイクも知らなかったのだ。
「掘ってたら出たんですっけ?」
「そう言ってるけどどうなんだろうねー」
思い浮かべるのは、頼りなさ気な男の姿。だらしなさそうな彼は、けれどアルバにとっては頼れる大人なのだろう。後見人とはまた別に、アルバを助けてくれるのだと、いつか聞いたことがある。逢ったのは初めてだったけれど。
「……シオ痛い痛い痛い痛い!」
そんなことを思いつつ自分の世界へと入っていたレイクを現実へと引き戻したのはアルバの泣きそうな悲鳴だった。ぎりぎりと手首を握りしめるシオンの顔はやっぱり同じように不機嫌です、とありありと描かれていて、レイクはまたスイッチを押したかもしれないと頬を一つ掻いた。
「ちょっとこっち見ないでください」
「見てないしやめて痛い!」
そんなアルバを見ながら内心でごめんなさいアルバさん、と思いながらレイクは立ち上がる。
「じゃあオレも先行っときますねー」
シオンの機嫌に効く一番の薬はアルバであることはわかりきったことだ。そこにレイクがいれば変わるものも変わらない、とそれでも間違いなく放り投げたとしか言いようのない言葉を口にして、レイクはタオル片手にクレアのいる浴槽のほうへと向かった。
「あー気持ちいい……極楽極楽ってこんな時使うんだろうなー」
「やっぱこうやって手足伸ばせると気持いいよなー」
「あれ、レイク。シーたんとアルバくんは?」
大きな浴槽で身体を一杯に伸ばしていたクレアの傍に身体を沈める。そうすれば、横に来たことに気付いたクレアが、けれどあとの二人がいないことに気が付いて首を傾げた。
前は、そんなふうに必ず問われたシオンの存在に胸を焼いていた。今も、平静でいられるわけではないけれど、前よりは確実に平気になったと言えるだろう。それは、クレアがこたえてくれたから、ということもあるし、シオンはシオンでたった一人の特別を手に入れたからだろう。その上で狭心さや嫉妬深さを発揮することはあっても、だからこそシオンがクレアをとっていくことはないと言い切れるとレイクは考える。
「今でしたー」
まだ向こう、と答えようとした瞬間にアルバが後ろからぺたぺたと近づいてきた。その少し後ろをシオンが歩いてくる。
「ねぇねぇアルバくん。温泉て気持いいねぇ」
ちゃぷんとお湯を揺らしてクレアがしみじみと呟く。温泉初経験のクレアには色々なことが刺激になったのだろう。お湯の感触だって普段の風呂とはまた違う。
「気に入ってもらえたなら、何よりです」
アルバが嬉しそうに笑う。白い頬は熱気で軽く赤らんでいて、どこか煽情的だ。レイクにとってはそういう対象ではないから、狼狽えることもないけれど、確かにこれは正視することなど出来ないだろう。
シオンの挙動不審な理由をまた一つ見つけて、レイクは小さく笑った。微笑ましくて、というよりはどちらかと言えば諦めの域だ。
「他に何があるの?」
「サウナとか、電気風呂とか、泡出るところとか露天風呂とか――」
「全部いきたい!行こう!アルバくん!!」
レイクが考えていた間も、ずっと二人は話していたらしい。アルバの説明に、テンションゲージが振り切ったらしいクレアは大きな音を立てて立ち上がり、アルバの腕を引いてそのまま別の浴槽へと行ってしまった。
「いってらー」
確かに凄いとは思うし、温泉は気持ちいいとは思う。けれど、クレアのようなアグレッシブさは持てなくて、レイクは若い二人を見送るだけで留めておく。
そして、もう一人。いつの間にか浴槽に身を沈めていた弟へと視線を向けて、レイクはとん、と自信の眉間に人差し指を当てた。
「眉間」
そう呟けば、シオンは小さく顔を上げてむ、と少しだけ不機嫌そうに顔を歪めてみせた。
「シーたんすっげー怖い顔」
笑いがこみ上げる。呆れているといった意味で、だ。
「まあわからなくもないけどさあ」
「……仲良すぎじゃないか?」
ぼそ、と呟けばシオンが零すように重く唸る。
「『前』から結構仲良かったじゃん」
シーたん心せっまー、と笑えば煩い、と手が飛んできて、けれどそれはぎりぎり届かない。ちゃぷんと揺れる水面を見ながら、レイクは笑う。
「クレア、アルバさんのこと好きだからなーすっげー嬉しそうだからオレも楽しい」
「……ムカついたりしないのか?」
それ以外の理由を隠して呟いたレイクに、シオンが驚く程素直に尋ねて来た。
「別の誰かだったらまあ、」
「……じゃあオレがクレアとああいうことしてたらどうするんだ?」
「シーたん」
瞬間、冷えた温度。温泉とは思えぬ冷気に、けれど当事者は気付かない。
まっすぐまっすぐ、レイクは赤い瞳を弟へと向けてにっこりと微笑んだ。
「……どうして欲しい?」
「どっちが心狭いんだか」
そう問掛けたレイクに、シオンは大きな溜息を一つついて視線を天井へ向けた。
「別に広いなんてオレいってないしー!」
さっきの雰囲気が嘘のようだ。レイクは子供みたいに唇を尖らせて呟く。
「アルバさんだからいいんだよ」
「……前から思ってたんだけど、兄さんあの人に夢見過ぎじゃないか?」
レイクの『アルバ』への信頼は度を越しているように見える、とシオンは思う。そこの裏側にある、レイクとアルバの関係をシオンは知らないから、なのだけれども。それにしても、その信頼は、多分信仰と呼ばれる類のものであることを、シオンは気付いている。
「シーたん程じゃないと思うけど、」
「……」
ただ、レイクの言葉に、否定は出来なかった。シオンの全ての執着は確かにアルバへ向かっているし、拗らせていることだって、ちゃんと自覚している。
「まあ、夢っていうか……やっぱアルバさんはアルバさんだし」
へらりと笑うレイクに、だからこそ何も言い返すことが出来ずに、シオンはきゅと唇を噤んだ。
「アルバさんはシーたんの『勇者さん』なんだけど、オレにとっても『勇者』なんだってこと」
「……」
「だから顔こわいって、独占欲ばっかだと嫌われるぞー」
ぱちゃぱちゃと水鉄砲で笑いながらシオンへと水を掛けるレイクに、言いたいことは沢山あったけれど、シオンは結局何も言葉にすることは出来なかった。
「シーたん!レイク!露天風呂あるって、いこー!」
「クレアさん、走らないでくださいすべ」
ぺたぺたぺたと勢いよく近づいてきた足音に、レイクとシオンは同時に後ろを向いた。そこにはいきいきとした顔のクレアと、少しだけ疲れたようなアルバがいた。確かにいつも以上にハイテンションのクレアに付き合うのは骨が折れるだろう。シオンには物理で強制的に制止する術があるし、レイクだってスルーする技術を持っている。アルバはそのお人好し故に断り切れないし、更にツッコミまで加わるのだから疲れるのだろう。
「先いってるね!」
「……元気ですねー」
じゃ、と先にぺたぺたと急ぎ足で行ってしまったクレアの後ろ姿を三人で見送った。扉が閉じたことを確認して、アルバは小さく笑う。
「アルバさんが一番一応ここでは若いんだから、もう少し若々しく行きましょうよ」
「……本当言うようになったよね」
レイクの言葉に、アルバが小さく溜息をついた。
「じゃあオレもクレア追っかけて行ってきます」
「……シオンも行く?」
「アルバさんも行くんでしょ、……行きますよ」
それを見て、レイクも立ち上がり、アルバも続く。どうするかをシオンに尋ねればはあと大きな溜息一つついた後にシオンはその誘いを受けた。
「月きれーだなー」
「そうだなーあ、シーたん、アルバくん」
「今日満月でしたっけ」
「外冷えてるからか、すげー星も月も綺麗だな」
露天風呂からは月がよく見えた。大きな丸い月は、満月からすれば少し欠けているようにも見える。
そうだとはいえ明るく輝くその月が綺麗だということは変わりのない事実であって、四人はちゃぷりと湯に浸かったままでぼうっと空を見上げていた。
多愛のない話をぽつぽつして、笑って。そんな中、そういえば、とクレアはそっと切り出した。
「シーたん真っ暗なとこ嫌いだよね」
「そうなの?」
クレアの言葉にアルバは首を傾げる。それは、多分昔のシオンからすれば考え付かないことだったからだろう。寧ろ暗いところが怖くて泣いていたのはアルバのほうだった。
「意外とおこちゃまだもんなシーたん」
「うるさい、クレアも余計なこと言うな」
ふふん、とレイクがドヤ顔でそういえば、シオンは端から端へ、濡れたタオルをクレアの顔面へと投げつけた。
「わぷ!!ごめんってシーたんごめん!」
見事に顔でキャッチを決めたクレアは、謝罪を口にしたけれど、問答無用というようにその後洗面器で頭上からお湯を掛けられていた。
そこからはもう、ストッパーなんてなかった。
手で作った水鉄砲と、濡れたタオル(ちゃんと湯の中には落とさないように注意をして)、そしてシオンとアルバが持ち込んでいた洗面器が主な武器だった。他に客がいなかったのは幸いだった。完全なる迷惑行為である。
はあはあと四人ともが息を切らし始める。水中における行動のほうが地上よりも体力を使うからだ。皆揃って帰宅部といえども、どの部活動に入ったって人並み以上の活躍は出来るだろうという体力を持つ四人であってもそうなのだから、どれだけはしゃいだのか、なんて言うまでもない。
「……先、あがるね、アルバくん」
「オレもあがるーアルバさんたちはゆっくりどうぞー」
へらと真っ赤な顔でクレアと、レイクは立ち上がる。ヘタするとのぼせるのではないだろうか、という程露天風呂にいた気がする。
「じゃあおさきにー」
「シーたん、」
ひらりと手を振るクレアの後にレイクが続く。その時、不意に彼は振り返ってアルバが視線を外している隙を見計らい口パクで呟いた。
自重しろよ。
「……シオン?」
扉が閉まり、二人きりになった空間で様子のおかしいらしいシオンに、アルバが首を捻る。
「なんでもないです」
そんなシオンの答えに、そっか、とアルバは一つ呟いて、次に何かを思い出したように、あ、と口を大きく開けた。
「シオンはどうする?」
「アルバさんはどうするんですか」
アルバがシオンに尋ねれば、逆に質問が戻ってきた。それに、アルバはぱちりと大きく瞬きをして、うーんと考えた末に答えを出した。
「……まだちょっと浸かっとこうかな」
「じゃあオレもまだ浸かっときます」
沈黙。何を言えばいいのかわからない、のだろうか。シオンも、アルバも何も言おうとも、口を開こうともしなかった。
視線をあわせることもなく、ただ口を噤んで只管に空の月を二人並んで眺めていた。
「……月、綺麗だね」
沈黙に石を投げ込むようにアルバが呟いた。しかし、シオンは何も返さない。
「……シオン、機嫌悪い?」
そっとアルバは伺うようにシオンにそろりと視線を向けた。表情の変わらないシオンに、その眉がへにょりと下がる。
「もしかしてほんとは来たくなかった、と」
「違います」
間髪入れずに返ってきたシオンの否定に、アルバはこくんと息を飲んだ。
「……色々あって、落ち着かないだけです」
「色々?」
うろうろと視線を彷徨わせるシオンを横目で眺めながらアルバは尋ねる。それに答えるように、シオンは一つ頷いて、大きな大きな溜息を一つついた。
「……オレは、あんたのこと。『そういう』意味で、好きなんですよ」
「……し、知ってる」
ぼそ、と呟かれた言葉にアルバはぴゃっと身体を跳ねさせ、そうして、す、と視線をまた月に向けて呟いた。
「だったら、そんな相手と一緒に風呂なんて平静でいられないってことぐらいわかってくださいよ、男でしょあんたも」
「……だって前は一緒お風呂入ったことあったよね?」
押し殺したようにシオンが呟けば、アルバはあれ、と首を傾げて昔の記憶を口にした。
「あの時はあの時です」
「そうなの?」
溜息をついたシオンに、アルバはまた首を傾げてみせる。あざとい。
そうは思っても、多分当人にそんな意識はないのだろう。
「あのときのオレの忍耐褒めて欲しいぐらいですよ」
昔も、今も。多分目の前のこの人は、そんなシオンの心なんて全くわかっちゃくれないのだろうけれど。
「…………ほんとに、それだけ?」
アルバは、視線を落として、二三回、深呼吸をした後にそう呟いた。
隠せるなんて思っていなかった。気付くとも思っていなかったけれど。だからこそ、こうやって正面から尋ねられたことに、シオンは正直面食らった。
けれど、いい機会だと、口にすることを決める。
「…………傷、」
「え、あ。……き、気持ち悪いよね」
さ、とアルバは身体に手をあてる。シオンが知るよりもずっと白い肌。そこについた傷はとても目立つ。レイクは多分前から知っていたのだろう。クレアはそこに言及してはならないとなんとなく感じ取ったのだろうか。
幾つもの傷の中にある、一際大きな傷が、シオンは一番見ているのが辛かった。
「あんたが考えてることは多分的外れだと思うからいいますけどね、……それ、怖いんですよ」
「……それ?」
シオンの視線をたどり、アルバはその該当部分に目を向ける。
それは腹部。両親を亡くした事故でついたもので、多分一生消えることはないだろう。確かに一際大きく、そして醜い傷だ。
それを見せたくないがためにアルバはいつもここにくるときにはタオルをしっかりと巻いているし、基本的に人が少ない時間帯を狙っている。
それが怖い?どういう意味だろう、とアルバがそろりと視線を持ち上ればシオンはまるで泣きそうな顔で笑っていた。
「…………あんた一回そこ真っ二つになったの、覚えてないんですか?」
「うーん、あんま記憶ないんだよね……」
真っ二つ、と言われて思い出すのは最初に『ロス』と離れる前。ディツェンバーによって腹部に攻撃をうけたこと。
けれどアルバにとってみれば、何がなんだかわからないうちに『ロス』は魔法を使っているしバリサンじゃなくなっているし次元のはざまにいくなんていってるしと正直に言えば自分のことを考える余裕なんてなかった。後々聞いた話からそういうことがあったのだ、とは知っているけれど自分の実感としてはないに等しい。
「……覚えてなくて、いいです」
くしゃ、と泣きそうに顔を歪めて、シオンはアルバの身体に腕を回した。
「し、シオン!?」
「それみて、真っ先に思い出したのが『それ』でした」
慌てたようなアルバにも、シオンは動じない。ただ、震えるような声で呟く。
「……シオンそういえばどこまで記憶思い出してるの」
「多分……全部ですね」
思い出すのは過去の記憶。アルバより死ぬのが後だったから、多分シオンの知っていることのほうが多いだろう。それこそ、アルバが死んだ後、世界がどういう結末を迎えたのかということも。
「……そっか」
重く呟いた言葉に、シオンは耳元で告げる。
「アルバさんが気に病む必要はありませんよ。多分遅かれ早かれオレは思い出してたでしょうし、思い出さないほうが不幸だったと思います」
「……なんで」
ぴくんとアルバの身体が震えた。けれどシオンは離さないというように、その身体に回した腕に力を込める。
「だってアルバさん離れる気だったでしょう?」
くつくつとシオンが喉の奥で笑えば、アルバがこくんと息を飲んだのがわかった。隠し事が出来ない性格も変わらない。ただ、こうと決めたことは梃でも動かないものだから、それはそれで厄介だったけれど。
「オレが覚えてないのをいいことに、」
「……そんな」
けれど、もう負ける気なんてしない。梃でも動かないけれど、同時に流されやすい性格だって知っている。そして、もう一つ。アルバを動かす為の絶対的な手札を、シオンは持っている。
「そうじゃないって、言い切れますか」
うっすらと微笑んだまま、シオンは呟く。けれどその表情はどこか泣きそうなのをぎりぎりで堪えているようなそんな様々な感情が綯交ぜになったような色をしていた。
「別にいいんです。オレは思い出しましたし……もう、二度と離すつもりもないですから」
ぎゅうと強く強く抱きしめながら、シオンはアルバの耳元で囁く。
「アルバさん目離せば何仕出かすかわからないんだから、ちゃんとオレが見とかないと」
「……」
「否定出来ないでしょう?」
シオンが尋ねてみても、返事は帰ってこなかった。小さく噛み締めた唇は多分否定しようとして、けれど出来ないことの現れだ。
シオンはアルバのことを知っている。それがどういう意味を示しているのかということも、わかっている。
「でもまあ、あんたのそのかっこみて色々限界ってのも本当ですから」
「格好って……おまえ!」
さっきまでの重い雰囲気を投げ捨てるように、シオンが笑う。ぷえーぷえーと笑い声をあげれば、アルバは反射的に真っ赤に染まった顔をシオンへと向けた。
狙い通り、そちらへと意識が向けられたようでよかったとシオンの口元が笑みの形に歪む。
「そりゃそーでしょ、何年越しだと思ってんですかあんた」
呆れたように呟けば、アルバはあうあうと小さく唸った。
「あの時は諦めてましたけど、もう我慢しませんからね」
ちゅ、と蟀谷に唇を落とせばびくりとその細い身体が跳ねた。
「覚悟しとけよ?……アルバ」
「………ッシオン!」
「じゃあ先あがりますねー!良い子だから百ちゃんと数えてから上がって来てくださいね」
それだけ行って、シオンは逃げるように露天風呂を出た。扉を閉めて、はあ、と溜息をつきその場にしゃがみ込む。
「……ッほんと、あざとい」
限界だった。色々と。
告げたことは全てが本当のことだ。冗談めかしていったあれだって正真正銘心からの言葉に他ならない。
風呂がないという事実に、詰めかけたのはどういっていいのかわからなかったせいだ。
親を失くしていることは知っていた。割と貧乏生活を送っていることも。そしてそれが、魔法で世界を作り換えた代償であることも。
あのあと転校してきたエルフはアルバのいないところでぺらぺらとなんでも語った。多分それは、シオンがアルバに言わないことをわかっていて言うのだろう。秘密を一人で抱えるには重すぎる。それが特別に想う相手のものなら尚更に。そこに宿る正しい色をシオンは知らないけれど、確かにエルフがアルバを特別に想っているのだけはわかっていた。
前の世界において幸せな幼少時代というものに恵まれなかったシオン。それに反するようにこの世界のシオンが身をおいたのは幸せの中だった。けれど世界の幸せの総数が、運命と言うものが定まっているというのなら、その差異はどこかで合わせなければならない。
そしてシオンの所で変わった運命はアルバの所へ行くのだと。
だから、この世界でアルバが受ける苦難は多分元より全てシオンのものだとエルフは告げた。意図したものとは違うとはいえ、本人がそう思ってなかったとして、この世界の創世者は間違いなくアルバなのだ。だからこの世界はアルバの願いを叶えようとする。そうやって生まれたのだから、世界にとってそれが当たり前のことなのだ。
あとは一緒に温泉という事実やら、シオンの知らない転生者(記憶はないのだろうが、あの二人には見覚えがある)の存在。そして自分を除けてクレアやレイクといちゃいちゃしてる姿が気に入らなかったということだ。言葉にしてみればなんて単純なことと思うけれど、それでも全てが混ざってしまった状態では、冷静になどなれるはずがなく。結果があれだ。情けないとは思うが、多分、どうやっても同じ結果になるだろう。
はあ、ともう一度溜息をついて、立ち上がる。もう十分に露天風呂には浸かったからもう出てもいいだろうと、シオンは掛け湯をして脱衣所へと戻った。
アルバが浴場から出た時、クレアはちょうど通路の途中にあるマッサージ機で癒され、レイクはその横のソファででろんと寝そべっていて、シオンはちょっと離れたところにある畳の上に寝転がり目を閉じていた。
「きもちいいいー」
「ほらクレア、アルバさん上がってきたって」
「もーちょっとー」
マッサージ機の虜になっているクレアを待って、それが止まったら皆で温泉を後にする。
「もう受付いないの?」
「もう受付時間過ぎてるから、掃除行ってるんじゃないかな」
そんなアルバの言葉に時計を見ればなるほどもう十時を回っていた。
夕食のあと、そんなに時間をおかないで来たはずだから、大分長いこと中にいたらしい。
他愛もない話をしながら帰り道を四人で戻る。明るい月が夜道を照らすために、明かりはいらない。これがまだ遅くなれば、懐中電灯もいるんだと笑うアルバに、シオンの眉が吊り上がる。口には出さずとも、考えていることがありありとわかるその反応に、レイクはうっかり笑ってしまった。
そうしてちょうど境の曲道へと到着した。
じゃあ、と行って一人で帰ろうとするアルバの腕をぐいと引いて、ついでにシオンは腰まで抱いた。
「じゃあオレはアルバさん送ってくから」
「し、しししシオン!?」
慌てたようなアルバの声にも動じずに、シオンはひらひらと、だからさっさと帰れと目で語る。
「送り狼になるなよーシーたん」
「シーたんって狼なの?まじかよすげーな」
その意図を正しく読んだらしいレイクはふは、と一つ笑った。クレアの発言に、いやいやと首を降っているところを見れば、多分クレアのほうは理解をしていないのだろう。
「それはまあアルバさん次第ですかねー」
にやりとまるで悪役がするような笑みを浮かべてちらりとシオンがアルバを見ればびくりとその身体を縮こませる。
「じゃあまた来週ー!」
「アルバくん今日はありがとー!また連れてってねー!」
レイクとクレアが手を振れば観念したように、アルバも笑った。
「……はい、こちらこそありがとうございました!」
「……帰ろっか」
そしてレイクとクレアの姿が見えなくなったところで、ぽつり、視線を交わらせないままアルバが呟いた。
「明日休みですよね」
「……そう、だね」
妙に楽しそうなシオンの声に、こくりと一つ、頷いてみせる。
「泊まってっても、いいですか?」
「…………うん」
二つ目の受け入れ。さっきよりも、ずっと小さな声だったけれど、シオンには正しく聞き取れたらしい。本当に嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
曲がり角から歩いてアルバの住むアパートへと向かう。ボロアパートで風呂はないけれど室内は案外広い。ちゃんと二部屋あるから、シオンがボクのベッドで眠りなよ、とそういえば馬鹿ですかとシオンはぺちんと額を叩いた。
「一緒眠りましょうよ」
「ッ」
そっと絡め取られた左手。ぎゅうと突然握られたそれに、アルバの心臓が大きく揺れる。
「……連絡とかしなくていいの?」
「多分最初からあいつはわかってたと思いますよ」
話を逸らす為か、それともまた別の理由か。明らかに話題転換を仕掛けるアルバに、少しだけむっとしたけれど、照れが強いことはわかっていたから、その感情にはそっと蓋をする。
「まだ何もしませんから」
「まだ、なんだ」
きゅ、と力の入った指先が愛おしい。いつも、シオンは自分ばかりが翻弄されていると思っていたから、尚更。
「だってオレはしたいですし」
「……ううう」
くすくすと笑えば、アルバは照れのためか小さく唸り声を上げた。けれど、逃がす気なんて毛頭ない。折角だから、このまま。いつもは聞けないような言葉も、聞いてみたかった。
「アルバさんだって、別にオレならいいんでしょ?」
「……反則だお前」
「まあ今日はオレの抱き枕になってくださいね」
シオンの尋ねに、アルバは溜息をついて、それから笑った。シオンの言葉に、くすくすと笑って、それからへにゃりと眉を下げて呟く。
「機嫌、治った?」
「あなたがいますからね」
あなたが、を強調すれば、わかりやすくアルバの身体がかちんと固まった。これ幸いと、シオンはそのまま思ったことをするすると口に出していく。
「さあ、帰りましょうか。オレたちの愛の巣へ!」
「誤解を招く言い方やめよう!?」
間違っちゃいないはずだ、とアルバの意見なんて無視をして、シオンはうんうんと頷いた。
「あと一年はあのボロアパートで我慢しててくださいね」
「……?うん?」
首を傾げるアルバに、けれど疑問に答えることなくシオンは畳み掛けるようにその『計画』を口にする。
「お風呂もちゃんとついてて、料理もしやすいとこがいいですよね」
「シオン?」
名前を呼ぼうが尚もシオンの勢いは止まらない。そうしてうんうんと頷いて、にっこりと今日一番良い笑顔で微笑んだ。
「オレが高校卒業したら、母さんとか説得しますので一緒暮らしましょう」
「……は!?」
「なんですかそのは!?って!!」
驚きに思わず叫んだアルバに、やっとシオンは目線を合わせた。
「痛い痛いいやなんでそんな流れがってやめてやめてアバラ痛い!」
そして、流れるようなボディーブロー。そういうつもりではなかったのだと、思いもしたけれど、これはもう反射に近い。
「プロアバリストたるものこんな痛みに耐えられないようじゃまだまだですね!!」
「そんなんねえよ!?いや違って!一緒に暮らすって」
もご、と言い淀んだアルバに、シオンはそのまま押し潰すような勢いでアルバに詰め寄った。
「もう決めたんです。アルバさんに与えられた選択肢ははいかイエスかしかありません!はいさん、にー、いち!」
「わわわわはやいはやい!」
「まあ考えてて下さいね、どこがいいかとか。オレあんま料理出来ないのでアルバさんに料理教えてもらうのもいいかもですね」
「いやいやシオン!?」
「楽しみですねー」
本当に楽しそうなシオンをみて、アルバはそっと息をついた。まあいいか。
結局、アルバにとっての一番の幸せはシオンが幸せであることなのだ。理由がどうあれ彼が笑っているのなら、多分それでいいのだと自分で自分に言い聞かせる。
「なんですか、アルバさん文句あるんですか」
「いや、別にないよ」
「……へぇ?」
「ただ、シオンは優しいなあってあいたいたいいたいいたい!!」
けれどアルバの反応が思っていたものとは違ったからだろうか。シオンは掴んでいた腕にぎゅうと力の限り握り締めた。
「煩いですよゴミ山さん。往来で騒ぐと近所迷惑でしょう」
「主にお前のせい!!」
「人のせいにしちゃいけません!」
「自分をおもいっきり棚に上げた!!」
「ぷえーぷえー」
きゃんきゃんと吠えるアルバを、笑い声であやすシオンはけれどとても楽しいと思っていた。忘れていたような、日常。こんななんでもない日々がとても尊くて、貴重だということを、よく忘れそうになるけれど。
ちらりと揃って目を合わせる。そうして、二人一緒に空を見上げた。
金色の、少しだけ欠けた月。けれどそれだって、共に見る人がかわればたった一つの特別になり得るのである。
「……月綺麗だな」
「……オレ、あんたのためなら死んでもいいですよ」
だからそれもまた、あなたに捧げる、愛の、言葉。
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