序章 Goodbye happiness
髪を一房掴んで、鋏を握っていた手に力を入れる。
ざくりと音をたてて、長い黒髪がぱらぱらと床に散らばった。
「一郎?」
突然名を呼ばれた一郎は、びくりと身体を震わせた。かしゃんと軽い音をたてて、握っていた鋏が床に落ちる。反射的に振り返ったそこには、酷く驚いた表情の左馬刻がいた。
「お前、何して――」
「髪、切ろうと思って」
大きく見開かれた赤い瞳に、咎められているような気持ちになる。耐えきれずに、一郎はそっと視線を床に移した。まるで生き物のように床を這う黒い髪をみて、そうだここは左馬刻さんの事務所だったな、なんて今更なことを現実逃避のように考える。
「……ちゃんと、片付けますから」
だから、放っておいてほしい。見ないでほしい――そんな思いから口にした言葉は、ただの言い訳だと一郎にもわかっていた。
涙が滲んでいる目を見れば、左馬刻は気付くだろう。いや、もう気付いているのかもしれない。泣くな、とさっき言われたばかりなのに、涙を堪えられない自分が女々しいと思う。それでも、じわじわと滲むそれを止める術を一郎は持っていなかった。
「……」
左馬刻は、何も言わず黙って一郎を見ていた。
部屋に流れる沈黙が痛かった。何か言ってくれれば。いや何も言わなくていい――ここから出ていってくれたなら。
左馬刻が戻ってくるのが、せめて、全部髪を切り落とした後なら良かったと一郎は思う。
今まで伸ばしていた髪と一緒に弱い自分も捨ててしまった後なら――そうすれば、こんなところを見られることもなかったのに。
はぁ、と息が漏れる音が聞こえた。まるで叱られることを怖がる子供のように、一郎はびくりと身体を震わせる。
「……そっちの椅子、出してこい」
けれど、左馬刻の言葉は一郎が想像していたうちのどれでもなかった。え、と視線をあげる。左馬刻は一郎のほうに視線を向けて、部屋の隅にあるパイプ椅子を親指で指していた。
「適当なとこに座って待ってろ」
左馬刻の指示に従い、一郎は部屋の隅に立てかけてあった椅子を広げて座る。左馬刻はそんな一郎をちらりと見てから、洗面所のほうへ行ってしまった。何をするつもりなのだろう、とぼんやりと考えていたら、いつの間にか左馬刻は一郎の後ろに立っていた。
「あんなので髪を切るなよ」
あんなの――不機嫌そうな左馬刻の声を聞いて、一郎は床に落ちたままの鋏に目を向けた。
事務所の棚の中から見つけ出したそれを一郎は裁ち鋏だろうと思って使ったが、そういえば、裁ち鋏で紙を切ってはいけないと聞いたことがある気がする。一郎がそういうことに詳しくないから知らなかっただけで、もしかしたら髪も切ってはいけなかったのかもしれない。だから、左馬刻はこんなに不機嫌なのだろうか。
左馬刻が鋏に拘りを持っているなんて、聞いたことはない。けれど、趣味なんて人それぞれだ。一郎が知らないだけで、もしかしたら左馬刻には裁縫の趣味があったのかもしれない。だって、ここは左馬刻の事務所だ。そこにあるものも当然のように左馬刻のものだろう。何かに使うから、ここに置いてあるのだ。裁ち鋏を使う用途なんて、一郎には裁縫以外に思いつかなかった。
床に髪を落としたこと。勝手に裁ち鋏で髪を切ったこと。前者は片付ければ良いと思っていたが、後者はもしかしたら、左馬刻にとっては酷く許しがたいことだったのかもしれない。
「……すいません」
「何に対して謝ってんだ? 一郎」
左馬刻の指が、短くなったばかりの髪に触れた。まるで毛先にまで神経が通っているかのように指先の感触が伝わって、一郎は身体をぴくんと震わせる。
謝罪に対して返された問。左馬刻がどんな答えを期待しているのかわからなかった一郎は、何を言えば良いのかわからずに、ただ口をきゅ、と引き結んだ。
床に髪を落としてしまったこと? 裁ち鋏を勝手に使ったこと? そもそも、事務所内で髪を切っていたこと? ――それとも、まだこうやって女々しくも涙を堪えていることだろうか。
一郎には左馬刻が考えていることがわからない。けれど、機嫌が悪いことだけはわかる。どうして、と問われても、なんとなくとしか答えることはできないけれど。
「あー、別に怒ってるわけじゃねぇよ」
黙ったままの一郎を見て、バツが悪くなったのか、左馬刻はぐしゃぐしゃと誤魔化すように荒っぽく一郎の髪を掻き混ぜた。左馬刻の不機嫌の理由は、どうやら一郎に対する怒りではなかったらしい――左馬刻の言葉に嘘がないとするならば、という前提つきの推測ではあるけれど。それでも、頭に触れる手は優しかったから、一郎はこくんと一つ頷いた。
「ちゃんとしてやるから、大人しくしてろ」
そう言って、左馬刻は一郎に少し大きめの鏡を手渡した。
持ってろ、と渡されたそれに映る自分の姿を見れば、鏡も見ないで適当に切ったからだろう。びっくりするぐらい、不揃いで不格好だった。こんな状況でなければ、きっと笑っていたに違いない。でも、一郎だってわざとこんな髪型にしたわけじゃなかった。衝動的に切った上に、途中だったからこんな風になっているだけで、あとからちゃんと整えるつもりだった。そんなことを言えば、言い訳をするんじゃねぇと怒られるに決まっているから言わないだけで。
「何も見ないで切るからそうなるんだ」
改めて言われなくてもわかってます、なんてことは言えなくて、一郎は黙ってハイ、と返事をした。
鏡の中、一郎の後ろでは左馬刻が、しゃきしゃきと鋏を鳴らしている。首元に触れる自分よりも少し低い温度に、ぞわりと身体が震えたけれど、それが不快感ではないことはわかっていた。
多分、これが他の誰かだったらこんなに大人しくはしていなかっただろう。刃物を持っている相手に首を晒すなんて、無警戒、不用心にも程がある。
「お前、そんな風に無防備でいいのかよ」
一郎の細い首に左馬刻の指が回った。ひやりとしたそれが、一郎の血管を皮膚の上からなぞっている。例えば今この瞬間、左馬刻が首を絞めれば――あるいは手に持っている鋏で刺せば、一郎は死んでしまうだろう。わかりやすい武器などなくても、人は人を殺すことができる。左馬刻が言っているのはそういうことだ。
似た者同士とはよく言われるけれど、こんな時まで、似たようなことを考えてたんだな、と思わず笑ってしまう。左馬刻はそんな一郎を、鏡の向こうから不可解な面持ちで見ていた。
「だって、左馬刻さんですし」
鏡の向こう側の深紅に、一郎は視線を合わせて笑った。だって一郎は、左馬刻がそんな卑怯なことはしないということを知っている。そもそも、本当に殺す気があるのなら、左馬刻はこんな回りくどい真似はせずに一郎を殺しているはずだ。決して長い付き合いではないけれど、それがわかるぐらい、一郎は左馬刻と同じ時間を過ごしてきた。
「そうかよ」
一郎の答えを聞いた左馬刻は相変わらず怪訝な表情を浮かべたまま、不揃いの髪に触れた。殺すつもりがないことはわかっても、真剣な表情をした左馬刻が今何を考えているのかということは一郎にはわからない。もしもここが美容室なら、ヘアスタイルの希望などを聞かれるのかもしれないが、左馬刻は何も言わなかった。険しい顔で、ただ一郎の髪に丁寧に触れている。だから一郎は、黙ったままじっと鏡の向こうにいる左馬刻を見ていることしかできなかった。
考えが纏まったらしい左馬刻は、まだ長さのある一郎の髪の毛の房を一つとる。そして、肩甲骨より下の位置まで伸びた髪に鋏を入れて、首元からばっさりと切り落とした。
しゃきんしゃきんと左馬刻が鋏を鳴らせば、長い黒髪がぱらぱらと床へと落ちていく。
一郎は何も言わずにただ黙って目を閉じていた。左馬刻も何も言わないから、聞こえてくるのは耳元で鳴る鋏の音とぱさりと髪が落ちる音だけだった。決して大きくないそれらがやけに響いて聞こえるのは、それだけこの部屋がしんとしているからだろう。昨日までは騒がしかった事務所なのに、今は左馬刻と一郎以外誰もいない。それを寂しいと思うのは、一郎の中で、四人が一緒にいることが当たり前になっていたからだった。
「これで平気か?」
「……ありがとう、ございます」
終わったぞ、と言われて目を開く。鏡の中に映っていたのは、髪の短くなった、やけに見慣れない自分の姿だった。さっきまで酷く不格好だった髪も綺麗にまとまっている。きっと左馬刻は髪を切ることにも慣れているのだろう。だから、ここに髪を切るための鋏があったのだなと一郎は今更思った。
じいっと鏡に映る自分の姿を見つめていれば、後ろにいた左馬刻がバツの悪そうな表情を浮かべていることに気付いた。
「どうしたんすか」
「……お前が、変なとこまで切ってたから。これぐらいしかできなかった」
低い左馬刻の言葉に、一郎は首を傾げた。これぐらい、なんて。こんなに綺麗にしてもらったのだから感謝こそすれ恨むなんて有り得ない。元々これぐらい――なんならもっと――短くするつもりで一郎は髪を切り落としたのだから。けれど、左馬刻はそうは思っていないようだった。
「だって、勿体ねぇだろ」
一郎の項に触れて、左馬刻は小さく呟く。
「なに、が」
無防備な首元に触れられるのはさっきと同じだ。なのに、今度はぞわりと一郎の背筋に何かが走った。きゅ、と身体を強張らせて尋ねる一郎に、左馬刻は優しい――けれど、どこか残念そうな色を浮かべて笑う。
「せっかく綺麗な髪だったのにな」
髪を切ろうと思ったのは、確かに一時の衝動ではあったけれど、切り落とした髪に後悔なんて微塵もなかった――そのはずだったのに、左馬刻の言葉に少しだけ胸がざわついた。
元々髪を伸ばしていた理由だって、面倒くさいとか金が掛かるとか――そういった即物的なもので、一郎は周りの女の子みたいに整えたりケアしたりすることはなかった。前髪だけは自分で切っていたけれど、それだけだ。決して左馬刻に綺麗なんて言ってもえらえるようなものではなかったはずなのに。
左馬刻の指先が、一郎の短くなった髪に触れる。優しく、壊れ物を扱うようなそれに胸のざわつきが大きくなっていく。鏡越しに自分を見つめている左馬刻の赤い瞳――それを見ていられなくなった一郎は、静かに視線を下に落とした。
「髪、残ってっかもしれねぇから、シャワー浴びてこい」
さっきまでは酷く丁寧だった指先が荒っぽく一郎の頭を撫でると、ぱらぱらと細かい髪が落ちてきた。首や胸元もなんとなくちくちくするから、多分服の中にも切った髪が入り込んでいるのかもしれない。そういえば、長く行っていないからよく覚えてはいないけれど、美容院や床屋であれば、首から下は長い布を巻いていたし、最後にはお湯で流して貰っていたような気がする。
確かに、このまま動き回っても、残っていた髪が落ちるだけだろう。遠慮するだけ迷惑になると、一郎は左馬刻の言葉に頷いてそのまま浴室へと向かった。
「上がりました」
そんなに時間が掛かっていないと思っていたのに、シャワーを浴びて戻ってきたら部屋は綺麗になっていた。どうやら床に散らばっていた一郎の髪を、左馬刻が片付けてくれたらしい。部屋の様子を見ながら自分でやったのに、と一郎は唇を尖らせれば、一郎が戻ってきたことに気付いた左馬刻が吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。そして、そんな子供のような表情をしている一郎の濡れている髪の毛を、いつものようにぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。
「気にすんな」
そう言った左馬刻はひらりと手を振って、一郎と入れ替わりのように浴室へと行ってしまった。
部屋に一人残された一郎は、そのまま左馬刻が座っていたソファに腰をおろす。そういえば弟たちに連絡をしてなかったな、と思って、ずっと放置していた携帯を手にとった。画面を確認すると、案の定通知がそれなりに溜まっている。中身を見れば着信とメッセージ。そのほとんどが弟たちからのものだった。今日は戻らない、と三人のグループにメッセージを送ればすぐに既読の印と、ぽんぽんと軽快な音とともに二つ競うようにスタンプがついた。
施設を出てから弟二人との仲は、ぎこちないながらも次第に仲は修復されている――と一郎は思っている。そもそも一郎にとって、何があろうと弟は可愛いものである。そして守るべき相手であるという事実は変わらない。誤解によって一時期関係性は悪化していたものの、それでも一郎にとっての宝物は弟二人だった。
落ちた卵が元には戻らないように、投げた言葉もなかったことにはできない。
それを弟たちは申し訳なく思っているらしいが、一郎自身はあまり気にしていなかった。
あの時一郎は積極的に誤解を解こうとしなかったし、そうすることを自分で選んだ。二人が傷付くぐらいなら――と、何も言わずに一人で抱えることを決めていた。だから、あの時の二人にとってはそれが真実で、正しいことだったのだ。
そして、紆余曲折の末に一郎と弟たちの間にあった誤解は消え、今、彼らは一郎を慕って傍にいてくれる――だから良いのだ。
「……生きてれば、話す機会だってある」
ぼんやりと、今日左馬刻に言われた言葉を思い出す。突然豹変したかのような親友の言葉に傷付きはしたけれど、一郎は空却を嫌いになることなんてできなかった。
メッセージの履歴画面に戻れば、そこには空却の名があった。今日メッセージを送った時には、特に変わったことなんてなかったはずだ。そっとトークルームを開けばそこにはいつもの何でもないような意味のない応酬が続いている。
一郎はあまりメッセージを送ることが得意ではなかった。用を告げるなら通話で十分だと思っていたし、今でもそう思っている。着信が繋がらなかった時はメッセージを送るが、それだけだ。
けれど、空却は違った。返信する、しないに関わらずメッセージや画像を送ってくる。それを面倒くさいな、と最初は思っていたけれど、次第に慣れてきて――その結果がこのトークルームだ。最後のメッセージは今日の朝。空却からのもので終わっていた。
「どうして、」
いつもどおりだと思っていた。少なくとも、空却があんなことを言うようなきっかけなんて一郎には思いつかなかった。ずっとそう思っていたのだろうか。ずっと、自分のことを気に入らないと思いながら隣にいてくれていたのだろうか。
これ以上携帯を見ていたら余計なことまで考えそうで、一郎は電源を落としてソファの上にごろんと横になった。
左馬刻が言っていたように、生きていれば話す機会だってあるだろう。関係を取り戻すことだってできるかもしれない。一郎にできるのは、ただ信じることだけだ。そうすれば、弟との仲が修復されたように、空却ともまた同じように笑える日だって来るかもしれないのだから。
「こら、こんなとこで寝るな」
考え込んでいるうちに、転寝をしてしまったらしい。目を開けば、そこには一郎と同じように髪の毛が濡れたままの左馬刻がそこにいた。同じシャンプーを使ったのだろうから当然なことなのだけれど、左馬刻から自分と同じ匂いがすることが、なんだか新鮮で、少しだけ物足りない気がする。
「あ、髪乾かしてねぇなテメェ」
「左馬刻さんだって、濡れっぱなしじゃないすか」
今から乾かすんだよ、と言って左馬刻が寝転んでいる一郎の身体を無理矢理起こす。濡れていた髪は、左馬刻が風呂に行っている間に少しは乾いていたけれど、それでもまだ湿り気を帯びていた。
「何、するんすか」
「まずはテメェからだ」
そう言って、コンセントに電源プラグを差した左馬刻は、一郎の横に腰をおろした。そして、優しい手付きで一郎の髪に触れると、ドライヤーの電源を入れる。
長い髪をしていたくせに自然乾燥ばかりだった一郎は、ドライヤーで髪を乾かすという習慣がない。きちんと乾かさなければ、とわかってはいるのだが、どうにも面倒くさくてそのままにしてしまう。がしがしと荒くタオルで拭いて、放っておけば寝るまでにはそれなりに乾からそれで良いと思っていた。
だから、こうやってドライヤーで髪を乾かすのも、況してや人にしてもらうなんて滅多にないことだった。なんとなく、そわそわと落ち着かない気持ちになる。
「ほら、終わりだ」
「……ありがとうございます」
左馬刻がかちりとスイッチを切れば、ドライヤーの音も止まる。そっと手を頭に当てれば、空気を含んでふわふわとしている髪の感触に少しだけ感動した。
「ちゃんと乾かさねぇと髪痛むぞ」
「っす」
今まで乾かしたことない、なんて言ったら何を言われるかわからなかったから、とりあえず素直に頷いておいた。そんな一郎の考えはどうやら間違いではなかったらしい。左馬刻は、一郎の乾いた髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜて、向こうに行ってろ、と笑った。
「左馬刻さんは?」
「俺は髪乾かして一服すっから」
先に寝てていいぞ、という左馬刻の言葉に反論する理由なんてなかったから、一郎は素直にベッドのある寝室へと向かった。
奥にあるベッドの上にごろりと転がっても、さっき転寝をしたせいで眠気はすっかり飛んでしまっていた。携帯は置いてきてしまったし、と一郎は無意識のうちに軽くなった髪を確かめるように指先で触れる。髪を切った理由、そういえば聞かれなかったな、とぼんやり考えた。
聞かれても、うまく答えられなかっただろうけれど。
それに、左馬刻があんなに不機嫌になった理由だって、教えてもらえないままだった。何が左馬刻を怒らせてしまったのか、一郎にはわからない。だけど、気にするなと言われてしまえば、それ以上聞くことなんてできなかった。
すかすかとする首元も、やけに軽い頭も、何もかもが違和感の塊だった。けれどそれもいつか慣れるだろう。これまでだってそうだった。変わらないものなんてない。一郎にできるのは、その変化を受け入れることだけだ。そしていつか、それが日常になる――たとえ、そこにどんな傷が遺ろうとも。
だから、ずっと隣にいた親友の不在にも、切り落とした髪のように――そして、今まで失ったもののように、いつか慣れてしまう時がくるだろう。ぽかりと空いた穴のような喪失感を抱えながら、それでも一郎は上を向いて生きていくしかないのだから。
そのためには、もっと強くならなければない。今までだってずっと強くあろうとすることを心がけていた。けれど、それではきっと足りないのだ。
一郎が欲しいのは、何が変わっても何を失っても、一人で立っていられるだけの強さだった。
溜息を一つ零して、目を瞑る。
はやく寝なければ。明日はシンジュクで空寂ポッセとのバトルがある。
空却も簓もいなくなった今、人数としては互角だが、相手の力量は未知数だ。左馬刻と一緒なのだから負けるつもりはないけれど、寝不足でいつもの力が出せず足を引っ張ってしまったなんてことになれば、目も当てられない。
「――まだ起きてんのか? 一郎」
一郎があれこれ考えているうちに、煙草の匂いを纏わせた左馬刻が戻ってきた。シャワー直後は同じだと思った匂いに、馴染みのある匂いが混ざる。さっき物足りないと思った理由が、左馬刻から煙草の匂いがしなかったからだということに、一郎は今更気が付いた。
「眠れないっす」
「遠足前のおこちゃまかよ、一郎ぉ」
にやにやと笑いながら左馬刻は、ぐしゃぐしゃと一郎の短くなった髪を掻き混ぜる。子供にするような扱いは慣れないものではあったけれど、左馬刻のするそれが一郎はそれが嫌いではなかった。
こういう時、一郎は左馬刻が年上であることを強く意識する。人を甘やかすのが上手なその人は、同時に叱ることも上手だった。まだお前は子供なんだと、甘えて良いのだと左馬刻は言葉で、態度で一郎に教えてくれる。だから、一郎はこうやって甘えてしまうのだ。
「左馬刻さんも寝ましょ」
一人分のベッドではあるけれど、左馬刻の身長が高いこともあって普通のものよりは大きめだった。一郎だって小さくはないが、二人で眠れないことはないだろう、と一郎は壁側に身体を寄せて、左馬刻一人入れるぐらいのスペースを空ける。どうぞ、という気持ちでタオルケットを捲り上げれば、左馬刻は信じられないものを見るような目で一郎を見ていた。
「なんですか、その目」
「……いや、何でもねぇよ」
大きな溜息と共に吐き出された言葉には、疲れが見えた。無理もない。一郎が空却にされたように、左馬刻だって簓に別れを告げられたのだから、辛くないはずがないのだ。けれど、左馬刻はずっと一郎を気遣っていてくれた。
(やっぱかっこいいよな、左馬刻さん)
こんな人になりたい、と一郎は思う。
ついこの間、左馬刻の妹の合歓に左馬刻のことを聞かれた時のことを思い出す。あの時言ったことに嘘はない。喧嘩っ早いしガラも悪いが、それでも左馬刻は優しい。そして強いし、かっこいい。
兄がいたらこんな感じだろうか。左馬刻の一郎に対する扱いは、合歓に対するそれとは違っていたけれど、それでも大切にされていると思っている。他の女の人に対するそれとも違う扱いは、特別扱いと言って良いものだろう。目にかけてやってる後輩だから――理由はそれだけかもしれないが、同じ後輩分であるはずの空却よりもずっと甘やかされていると思うとなんとなく嬉しかった。
「なぁに変な顔してんだよ、一郎」
おら、さっさと寝やがれ。
そう言って、左馬刻は笑いながら一郎が捲り上げたタオルケットを、もう一度きちんと一郎に掛け直した。せっかく広いベッドなのに、左馬刻は一郎と一緒に寝るつもりはないらしい。多分、別の場所で寝るつもりなのだろう。それはいけない。こんなに甘やかしてもらった挙げ句、ベッドまで奪ってしまうなんて。
「左馬刻さんどこで寝るんですか」
「あー……俺様は向こうのソファで寝るわ」
一郎は、うろ、と視線を彷徨わせて出ていこうとする左馬刻のシャツの裾を咄嗟に掴んだ。
「一郎?」
「俺がソファで寝ます」
訝るような赤い目が一郎を見つめている。
世間的に小さいと言えるようなサイズではないが、左馬刻と比べれば、一郎のほうがまだ小さい。ソファも小さくはないのだから、タオルケット――なければバスタオルでも良い――をもらって、一郎がそちらで寝たほうが良いだろう。そうすれば、左馬刻は自分のベッドでゆっくり眠れるはずだ。明日バトルがあるのは、左馬刻だって同じなのだから。
そう言って、一郎はのそりと身体を起こそうとしたけれど、左馬刻の手に肩を押されて、立ち上がることはできなかった。
「お前疲れてんだから、ちゃんとベッドで寝ろ」
「それ、左馬刻さんだって同じじゃないですか」
肩に触れる手が熱かった。そこに込もった力からも、ベッドで寝ろという強い圧力を感じる。
甘やかされている――そう指摘すれば、子供は素直に甘やかされておけと、左馬刻はいつものように言うのだろう。けれど、それとこれが別問題だ。左馬刻に甘やかされることに慣れてきた一郎であっても、引けないところはある。今回のことはどうしたって納得できることではなかった。ソファが小さくないとはいえ、寝返りを打てば落ちてしまいそうな場所で、ゆっくり寝られるとは思わなかったからだ。ただでさえ普通の精神状態ではないのだから、せめて身体だけでも休めてほしかった。
「俺様は大人だからいいんだよ」
「……じゃあ、俺も一緒にソファで寝る」
じ、とその深紅の瞳をまっすぐに見つめる。そうは言ったものの、二人で寝るには狭すぎるから、ソファで一緒に寝るつもりなんて一郎にはない。左馬刻もそれはわかっているだろう。けれど、左馬刻がソファで寝るなら、一郎もそっちに行くぞという脅しにはなる。左馬刻だって好き好んでソファで眠りたいわけではないはずだ。
「……一郎ぉ、あんま我儘言うなよ」
はぁ、と大きな溜息と共に溢れたのは、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるような声だった。一郎の提案を飲むつもりは更々ないらしい。けれど、一郎だって引く気は全くなかった。
一郎は、なぜそこまで左馬刻が同じベッドで寝るのを嫌がるのかがわからない。一郎ならまだしも、左馬刻は狭いソファで寝るよりもベッドのほうがずっと快適に眠れるはずだ。二人で眠ることがいやだというなら、自分がソファで眠るという提案だってした。我儘だというのなら、それは左馬刻のほうではないのか。
視線は外れない。どちらが引くことはない。暫しの沈黙のあと、左馬刻の赤い瞳に剣呑な光が宿った。
「男と女が一緒の場所で寝るってどういうことかわかってんのか、おら」
その問いかけに、左馬刻が考えていたのはそこだったか、と一郎は目を丸くした。確かに一般論としては正しいかもしれない――けれど。
「左馬刻さんがそれ言うんですか?」
「どういう意味だよおい」
どういう意味も何も、一郎は左馬刻から女の子扱いというものをされたことがない。強いていうなら、さっき髪を切ってもらった時ぐらいだろうか。それでも、そういう色艶めいた雰囲気なんてそこにはなかった。だから一郎は、左馬刻が『男と女』なんて表現をしたことに単純に驚いた。
確かに、特別扱いされていることは知っている。けれど、それは単なる気の合うチームメイトで、仲の良い先輩後輩の関係だった。左馬刻が一郎を女扱いしたことはなかったし、一郎にとってもそれで良かった。左馬刻の隣にいれば、自分はどれだけでも強くなれる気がした。
左馬刻はモテる。何より顔が良い。性格は良いとは言い難いかもしれないが、それでも優しい人だということを一郎は知っている。
望めば相手をするような女がたくさんいることも知っていた。だって一郎は、その女達が左馬刻との一夜を夢見て声を掛けるところも、左馬刻がそれに応じ連れたって夜の街へ消えていく姿も見たことがあるのだから。
一郎の知る限り、左馬刻と夜を共にしていた女は一様に綺麗な女の人ばかりだったと思う。女らしい体つきや美しく着飾った姿は、左馬刻の隣に並んでいても霞むことはない。
だから、左馬刻がどんなに盛っていたって、一郎のような女に手を出す理由がなかった。
なにせ胸はない肉もない。女らしい場所なんて、伸ばしていた髪ぐらいしかない。それも今は男のように短く切り揃えられている。
望めば相手をする女なんていくらでもいるのに、その上で一郎を夜の相手に選ぶ必要なんてどこにもないということは、流石に鈍いと言われる一郎にだってわかっている。
「だって左馬刻さんだし……」
「おん?」
「空却とだって一緒に寝たことあるし……」
「はぁあ!?」
理由のようで理由になっていないことを呟けば、どういうことだ、とやけに怖い顔で詰め寄られて、一郎はきょとんと目を瞬かせる。
門限を過ぎたりして、一郎が施設に戻れない時、空却とカラオケで一晩夜を明かしたこともあるし、空却の下宿先にこっそりと泊まらせてもらったこともある。空却は一郎よりも更に小さい。だから今寝ているベッドより小さくても十分に眠ることができた。それ故に一郎は左馬刻と同じベッドでも平気だと思ったのだ。
「……あー、テメェ、ほんと、」
一郎が説明をしている間、大きな舌打ちが一つ響いた。それから左馬刻は額に手を当てて、何かをぶつぶつと呟いている。その声は小さい上にとても早口だったから一郎には聞き取れなかったし、正直聞き取れた部分すらあまり理解はできなかった。
何言っているんですか、と一郎は視線だけで問いかける。けれど、それをきちんと汲み取ってくれたらしい左馬刻が、独り言だ。気にすんな、と言ったから、一郎はなんとなくそれ以上何も言えずに黙り込んでしまった。
「だから、別に気にしなくて良いっすよ」
「……わーったよ、一緒に寝てやんよ」
けれど、あまりに居心地が悪くて、止められていた結論を口にすれば、左馬刻は、はぁ、ともう一度深い溜息をついて髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。それから全然納得はしてないが、というような不機嫌な表情のまま、渋々と一郎の提案を受け入れてくれる。いつもセットされている前髪がおりているのがなんだか新鮮で、一郎は小さく笑った。
「――元気じゃねぇか、一郎くんよ」
おら、場所あけろ。と左馬刻は、一郎が空けたスペースにそのままごろりと寝転んだ。こちらを向いているのは左馬刻の背中だけれども、さっき肩を抱かれた時よりもずっと近くに感じる体温に安心したのだろう。さっきまでどこかに行っていたふわふわとした眠気が、一郎を襲う。ゆっくりと瞼をおろした一郎は、シャツを掴んで、額を左馬刻の背に軽く当てる。すぐ近くから、眠いんだったらさっさと寝ろよ、というぶっきらぼうな声が聞こえた。
「……さまときさん、おおきい」
眠気のせいでやけに幼い口調になってしまったが、一郎が口にした正直な気持ちに、左馬刻は今までで一番深い溜息をついた。けれどその理由は一郎にはわからない。小さく目を開いた一郎はぼんやりとした視界の向こう、背中しか見えないその人の名前を呼ぶ。
「さまときさ……?」
「……一郎ぉ……、お前、ほんっと、何されても知らねぇぞ」
「さまときさんになら……なに、されてもいいっすよ……」
唸るような低く重い声。絞り出すようにして放たれたその声は、既に眠りの縁にいる一郎にはまるで子守唄のように聞こえた。自分よりはやい心臓の音と、触れた部分から伝わる熱。
ふふふ、と小さく笑って一郎はそのまま意識を手放した。
[newpage]
一章 the red one
「イッチロー、そのピアスいつあけたの?」
こないだまでなかったよね?
一郎の耳に光る赤い石。それに気がついたらしい乱数は、一郎が部屋に入ってきた瞬間抱きつきながら尋ねた。そんないつものスキンシップに慣れきってしまった一郎は、そんな乱数の質問にきらきらした笑みを浮かべて答える。
「左馬刻さんが昨日あけてくれた!」
嬉しいという感情を隠しもしない笑顔は、一郎の滅多にみることのない年相応のものだ。みてみてと宝物を見せるような子供のようなそれに、乱数が良かったねぇと笑えば、一郎はふにゃふにゃとした表情のままおう、と答えた。ちらちらと、時折こちらを向く乱数の視線が何か言いたげなのを無視して、左馬刻は満面の笑みを浮かべている一郎に視線を向ける。
短い黒髪から覗く形の良い耳。そこには赤色が似合うだろうと左馬刻はずっと思っていた。だから、祝いなんてただの口実だ。渡す理由さえ――一郎が、受け取ってくれる理由さえあれば本当は誕生日でもなんでも良かった。
あの耳に穴をあける機会を左馬刻はずっと窺っていて、それが昨日だったというそれだけの話だ。
***
東日本制覇をした夜。祝いと口実した単なる飲み会のあと、へべれけになった寂雷を連れて、いつもより大層酔っ払っていた乱数は、片付けもそこそこに文句を言いながら戻っていった。二人を見送った後の事務所には左馬刻と、そして一郎だけが残っている。いつもなら弟が、と言って早々に帰ってしまうはずの一郎は、その日は折角だからと帰りが遅くなることを連絡していたことを左馬刻は知っていた。
だから、寂雷と乱数が帰った後、二人きりになった時――しんとした部屋の中で、一郎が帰りたくないんですよね、とぽつんと呟いた時に左馬刻は酷く驚いた。帰りが遅くなるというのは、帰宅が前提の連絡だ。
「帰るんじゃなかったのか」
「……だめですか?」
こてんと首を傾げる一郎に、左馬刻は首を振る。駄目とかそういう問題ではなく、なぜ一郎が帰りたくないと言い出したのかがわからなかった。今日のバトルだって、いつもよりテンションが振り切れている感じはしたが、調子は悪くなさそうだった。飲み会の時だっていつものように弟の話をして、乱数に「もう、一郎はそればっかなんだから!」と笑われていたのだから、弟たちと喧嘩をしたわけでもないだろう。
「だめじゃねぇ。だめじゃねぇけど、理由を教えろ」
「……えっと、実は今俺生理中で」
「まてまてまてまて」
一郎の言葉を物理的に遮るために、慌ててその開いたままの口に手を当てる。想像だにしなかった理由に、左馬刻は冷静さを失っていた。
ただ、言われてみれば確かに微かな血臭が漂っている気がする――酒の匂いのほうが強くてすぐには気付けなかったけれど。
しかし、普通そういうことは異性相手には隠すものではないのだろうか。左馬刻も妹がいるからそれについての知識はある。けれど、妹は左馬刻にそれについてあまり話さないし、左馬刻だってそれとなく気遣いはするが、触れられたくないだろうと思って直接そういう話をすることはない。妹とは年が六つ離れていることもあって、気持ちは兄であると共に思春期の娘を持つ父親だ。
そして、それは妹と同じ年である一郎に対しても適用されていた。今は男のような格好をしている一郎だが、一月前までは髪も長かったしセーラー服も着ていて、ごく普通の女子高生らしい格好をしていたのだ。やっていることは到底普通とは言い難いけれど。
「……お前、俺が男だってわかってんのか?」
「わかってます」
ぎろりと睨む左馬刻の視線にも怯むことなく、一郎は当たり前のように言ってのけた。そういうことに頓着していないらしい一郎は、逆に左馬刻の戸惑いが理解できないようで、何言ってるんですか、左馬刻さんなんて、明るい顔で笑っている。意識なんて全くしていないだろう無邪気さに、左馬刻の口からは思わず深い溜息が溢れた。
生理も生殖活動の内の一つだから隠すべきことではない。そうは思うが、世間の意識はそうではない。女がそれについて話すことで下卑た妄想に繋げる男がいることを、左馬刻は知っていた。そして、女尊男卑が叫ばれる昨今は、余計に女に対する反感が高まっている。中王区という守られた場所以外にいる女に対する性犯罪が増えてきているのもそのためだろう。
真ん中にいる女たちにだけ都合の良い世界。
明るい光の裏には濃い影があるように、中王区以外の環境はそれまで以上に劣悪だと言える。男の格好をしてはいるが、本来の性は女である一郎もそれを知っているはずで、だからこそ、左馬刻たちはこうやって上を目指しているのだけれども。
「……一郎、そんなこと誰にでも言うモンじゃねぇぞ」
「そんな誰でも言うわけじゃないっすよ。でも、ほら。左馬刻さんですし」
一応、分別はあるらしい一郎は、けれど左馬刻だから平気だなんて無邪気に笑う。相手が左馬刻だからなんだというのだろう。目の前で渋面を作っている左馬刻の気持ちなんて微塵も気付いていないくせに。
「で、いつもは薬飲んでどうにかしてるんですけど、最近あんまり効かなくて」
「ほーん?」
「今はなんか妙にテンション上がってるから平気だけど、家に帰っちゃうと逆に一気に反動が来そうなんですよね」
今の三人で暮らす家は、一郎にとってちゃんと安心できる場所らしい。つまり、今は東日本制覇という状況に興奮しているから――単純にバトルで昂ぶったままという可能性もあるけれど――痛みを感じていない。けれど、家に帰って気が抜けたら当たり前のように痛みが襲ってくるだろうからそれを避けたいということか。そんなにきついのなら我慢せずに家で寝てろと言ってやりたいが、多分弟の前ではそういうことができないのだろうなとなんとなく思ったのは、左馬刻にも覚えのある感情であるからだ。
「今は大丈夫なんか」
「うーん、多分?」
疑問形なのは、多分まだ痛みらしい痛みがないからかもしれない。けれど、自身の身体の不調は感じているから、大丈夫とは言い切れないということか。あまり弱いところを見せたがらない一郎が、そういうところを隠さなくなったのは、良い変化だと言えるけれど。
「……うちにくるか?」
まだ日付は変わっていない。これから体調を崩すとわかっている一郎を一人ここに残していくことも憚られて左馬刻は声をかけたのだが、一郎は、大丈夫です、と即答した。
「ここで一晩休めば――」
「大丈夫じゃねぇだろ」
一郎の答えを聞いて、左馬刻は強く舌を打った。
今は大丈夫でも、そのうち大丈夫じゃなくなるだろう。確かにここは何かあった時に泊まれるように簡易ベッドも置いてある。しかし、病人――正しくは病人ではないけれど――を一人おいていくには、何もかもが足りなさすぎる場所だった。
自分で鼓膜を破ることができる程痛みに耐性がある一郎が家に帰りたくないというぐらいだ。それには個人差があるというし、そもそも男である左馬刻にはわからない。しかし一郎の話を聞いていれば、酷い時には相当痛みがあるということは容易に察せられた。そして、それを知って放置できる程、左馬刻は非道ではない。寧ろ、お節介なほどに一郎の世話を焼き、べたべたに甘やかしている自覚はあった。
一郎の口にする大丈夫を、額面通り受け取ってはいけないことを左馬刻は知っている。それが子供ではいられなかった一郎の処世術の一つであることもまたわかってはいるが、そんな時に腹立たしいと思うこともまた事実だった。
普段からの弛まぬ努力――好きでしていることではあるのだが――の結果、以前と比べると頼られることは増えた。それだけ一郎との距離が近づいていることを喜ぶ反面、まだ足りないと思ってしまう。もっと頼ってほしいし甘えてほしい――可愛い後輩の我儘はどんなものでも聞いてやりたいし、願いを叶えてあげたいと左馬刻は思っているのだから。それ故に、かつて遠慮のない関係を築いていた相手に対して苛立ちを覚えることもあるぐらいだ。今の一郎の隣にいるのは左馬刻なのに、どうしたって敵わないと言われているようで。
けれど、そんな嫉妬じみた感情を左馬刻が表に出すことは殆どない。割とガキ臭いとこもありますよね、なんて生意気なことを言われることもあるけれど、左馬刻は六つ年下の一郎にとって、頼れる大人でありたかったし、格好良い『左馬刻さん』でいたかった。
「大人しく甘えとけ」
ぽんと頭に手をのせて撫でてやれば、一郎は小さくこくんと頷いた。こういうところはやっぱりまだガキだな、と可愛らしく思う。しかし、それを言えばきっと煩く喚くに違いない、と左馬刻はそっと口を噤んだ。まるで子犬のようにきゃんきゃんと吠える一郎も、それはそれで可愛いのだが、そろそろ活性化していた交感神経が落ち着いて、痛みが襲ってくる頃だろうから、あまり無理はさせたくなかった。
「必要なモンあるか?」
「んー、特にないです」
ふるふると首を振る一郎はまだ元気そうに見えるから、今のうちに帰ったほうが良いだろうと携帯を取り出す。どうやらタクシーはすぐ来るらしい。歩いて帰れないような距離ではないけれど、さすがに今の一郎を歩かせるつもりはなかった。
「ありがとうございます」
そんな左馬刻の気遣いに気付いたのだろう。遠慮ではなく礼の言葉を述べた一郎に、左馬刻は返事の代わりに髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。気にすることなんて何もないのだと伝わるように。
タクシーに乗り込んだ頃にはまだ平気そうだった一郎だが、徐々に痛みが襲ってきたらしい。薬は? と聞けば、もう飲みました、と小さく呟いた。効果が出るまで時間が掛かっているのか、それとも効いていてこれなのか。さっきまでとは明らかに違う一郎の状態に、思わず眉間に皺が寄る。知り合ってから数ヶ月が経つけれど、こんな一郎を見るのは初めてだった。
横になってろ、と身体を引き倒せば、一郎は反発することなく大人しく左馬刻の膝の上に横になる。それだけきついのだろうなと、左馬刻は何も言わずにその髪の毛を優しく梳いた。
さらりと流れる黒髪の隙間から見えた耳――その柔らかな白い耳朶の上に、左馬刻はいつか機会があればと買ったものを思い出していた。
***
「おはようございます」
結局タクシーの中で寝てしまった一郎を抱え、左馬刻は家に戻った。そして、そのままでは寝辛いだろうと、適当に自分のシャツを着せて自分のベッドに一郎を押し込んだ。その後、左馬刻自身は軽くシャワーを浴びてリビングのソファで寝た。心地よい疲労としこたま飲んだ酒のお陰で快適な睡眠を貪り、気持ちよく目覚めた左馬刻の視界に入ったのは申し訳なさそうな顔をした一郎だった。
「昨日はありがとうございました」
「おー……」
酒はそれなりに飲んでいたけれど、意識ははっきりしていたし勿論記憶も飛んでいない。だから一郎を家に連れて帰ってきたことも、話していたことも全部しっかりと覚えていた。一郎の顔色が悪くはないことに安堵しながら、身体を起こしてゆるゆると頭を覚醒へと向かわせる。
「体調は大丈夫か」
「ん。薬も飲んだし、今は落ち着いてるんで」
へらり、と笑う表情に嘘はなさそうだ。けれど、本調子ではないのだろう。いつもと比べるとやや声に張りがない。案外わかりやすい一郎の様子を見ながら、ありのままを見せてくれるのは嬉しいが、やはり今までは気を張って隠していたのだろうと思うと、なんとなく面白くなかった。ついでに薬を飲むなら何か腹に入れてから飲め、と言ってやりたかったが、それはまた今度で良いだろう。体調が良くない時には心も一緒に弱るものだ。説教をしてやるのはいつでもできる。
ちら、と時計を確認すればまだ七時にもなっていなかった。今日は日曜だし合歓もまだ起きては来ないだろう。いつもだったら左馬刻も二度寝を決め込むような時間ではあったけれど、一郎がいるからその選択肢は潰してしまう。
「パンと米、どっちが良い?」
「俺は別に食べなくても……」
軽く伸びをしたあと、ソファから立ち上がって台所へ向かう。流し台で顔を洗って――合歓がいる前では絶対にしない――から、炊飯器や冷蔵庫の中身を確認し、頭の中で何を作ろうか考えながら尋ねれば、一郎は何やらもごもごと言い淀んだ。
「だから遠慮はすんじゃねぇ。食える時に食っとかねぇとあとがきついだろ」
「……じゃあ米」
割と一郎は和食派だ。そういえば、好物は鯖の味噌煮だったか。なんとなくイメージとは合わないな、と思ったことを覚えている。合歓がいつか礼として、山田三姉弟を招待するんだ、と言って料理の練習をしていたけれど、未だそれは叶っていない。それぞれのタイミング――そしてそれは主に左馬刻と一郎だ――が合わずに、ずるずると時間ばかりが過ぎていっているけれど、まあそのうち機会が訪れるだろう。無理して急ぐこともない。
「なんか手伝うことないっすか?」
すす、といつの間にか隣に立っていた一郎が、はい、と控えめに手を上げた。ここは学校じゃねぇんだぞ、と思いつつ、そういえばこいつまだ高校生なんだなとわかっていたことを改めて思い出す。まともに学校に行っているとも思わないし、行っていたとしてもこんなことしているようには見えないけれど。
「あっち座ってろ」
「今は動いてるほうが楽なんで」
左馬刻の好意を無視して、何すれば良いですか? なんて上目遣いで尋ねる一郎に心の中で溜息をついた。表情や声から判断すると、この申し出は遠慮なんかではなく本心なのだろう。それならば別に構わないかと思ったが、よく考えれば凝ったものを作るつもりもない。だから、特に手伝ってもらうようなこともなくて、食器を出して向こうに行ってろ、と言えばはぁい、と良い返事が戻ってきた。
食器棚を迷わずあけた一郎が慣れた様子で食器を取り出すのは、ここに来るのが初めてではないからだ。左馬刻が連れてくることもあれば、同じ年ということもあっていつの間にか仲良くなっていたらしい合歓が連れてきていることもある。頻度はそこまで高くないが、それでもこうやって使用する食器のある場所がわかるようになるくらいには、一郎はこの家を訪れていたし、馴染んでいた。
「ご飯よそっていいっすか?」
「おー」
半熟オムレツに作り置きのきんぴらごぼう。残念ながら魚はなかったので、代わりに豚肉と野菜を白だしで適当に炒める。スープはインスタントで良いだろう。そこにあるからなんでも選べと言えば、いそいそとまとめおきしている棚を漁っていた。
「合歓ちゃんの分、準備してないけどいいですよね?」
「まだ当分起きてこねぇよ」
おかずは一応三人分作ったが、多分昼前まで起きては来ないだろう。いつもはきちんと早起きをする合歓は、日曜はゆっくり寝たいと昼頃まで――時には夕方まで――寝ていることも珍しくない。一郎がいると知っていれば多分早起きしただろうに、何も知らない合歓はまだ夢の中にいる。家事や学業に疲れているだろう妹をゆっくりと眠らせてやるのも兄の優しさだ――昼頃になって起きてきた時、一郎がいることに気付いたら、どうして起こしてくれなかったのと怒るかもしれないが。
テーブルに料理を並べ、向かい合って座る。きちんと手を合わせていただきますと言う一郎を見ながら、不良のくせにこういうところはちゃんと礼儀ができてるんだよなと、毎回のように感心してしまう。一度、直接言葉に出して告げた時には、弟の見本にならなきゃいけないからと一郎は笑っていた。それはまだ三人が一緒に暮らしていない時からそうだった。不仲だった――それは一方的なものではあったが――頃から、一郎の一番は弟たちだ。けれど、その弟たちが知らないこともたくさんあるだろう。だからこそ、一郎は今ここにいる。
朝食を済ませ、テーブルの上も片付ける。何もかもが落ち着いたら、どうやら今度は痛みの波が来たのだろう。一郎が一瞬だけ、その顔を顰めた。それに気がついた左馬刻はソファの上からこいこいと手招き、ぽんと膝を叩く。
「えぇ……」
なんで気付くんですか、なんて一郎がぽろりとこぼした独り言には返事をしなかった。
なんで、なんて見ていたからに決まっている。左馬刻の心情なんて知らない一郎は、それでも左馬刻の行動の意図をきちんと汲み取っていたのだろう。複雑そうな顔で突っ立ったまま、けれどうんと頷きはしなかった。
「俺様が枕になってやるから、横になれ」
きついんだろ、と焦れた左馬刻が改めて言葉で示してやれば、一郎がのろのろと近付いてくる。左馬刻の提案に抵抗はあるが、逆らっても無駄だとわかったのだろう。元気な時なら子供のように文句の一つも飛んできたのだろうが、今の一郎はそれもできないほど調子が良くないらしい。まぁ、見ていればわかることではあったけど。
「しつれいします」
「おー、寝たければ寝ていいからな」
はいと力なく返事をした一郎は、左馬刻の言葉に従い膝に頭をのせて横になる。いつもより少しだけ低めの体温を膝に感じながら、左馬刻は、今朝まで自分が被っていた毛布を掛けてやった。そっと背中を撫でてやれば、強張っていた身体から少しずつ力が抜けていく。ふにゃふにゃと緩んでいく表情に安堵しながら、小さく息をついた。いつもの様子とは違う、弱っている一郎の姿は新鮮ではあったし、それなりに思うところもあったが、ずっと見ていたいものではなかった。
「腹、そんなに痛いのか?」
大丈夫か? と聞けば大丈夫だと返すとわかっていたから、別の聞き方をした。一郎は困った顔をして、少しだけ、と呟く。けれど多分、言葉の通りではないだろう。それなりの怪我をしてもこんなの痛くないです、なんて言ってのける一郎だ。
薬は飲んだと言っていた。合歓は然程重いほうでもない――流石にあからさまに具合が悪ければ左馬刻だって気にする――から、こういう時にどうすれば良いのかさっぱりわからない。だから、腹に手を当てて小さく丸まっている一郎に直接尋ねることにした。
「なんかしてほしいことあるか?」
「いや、いいっすよ」
「一郎」
即答した一郎に少しだけ強い口調で言えば、ぐう、と黙り込む。けれど、左馬刻が引かないとわかっているのだろう。小さな声でぽつんと呟いた。
「腹、さすってください」
「……いいのか?」
「なんか、左馬刻さんにさすってもらったら楽になりそう」
へへ、と笑う一郎に、左馬刻は思わず溜息をついた。色々思うところはあるが、一郎が言ったからしているのだ、と誰へ対してかもわからない良い訳をしてそっと腹部に手を当てる。本当に内臓が入っているのか不安になる程ぺたんとした薄い腹。ゆっくりと手を動かして、これで良いか? と尋ねれば、ありがとうございます、とか細い声が返ってきた。
「一郎、なんか欲しいモンあるか?」
「えー……なんすかいきなり」
さらりともう片方の手で前髪を梳きながら尋ねると、一郎は少しだけ顔を傾けて、左馬刻を見上げる。熱のせいだろうかいつもはすっきりとした色をしている赤と緑がとろりと溶けているように見える。眠いのだろうかいつもよりもずっと甘えた声で返事をする一郎は、くすぐったいのかくすくすと笑っていた。
「東日本制覇のご褒美だ。なんでも良いぜ」
「いやいいっす、昨日から世話になりっぱなしですし……」
ぼんやりとしながらも、遠慮は忘れない一郎の額を指でゆるゆると撫でる。気持ちよさそうに目を細める姿はまるで猫のようだった。
「折角の祝い事だ。遠慮すんなよおこちゃま」
「ガキ扱いしないでくださいってば」
「ガキだろ、未成年」
むう、と口を尖らせる一郎は、いつも見ている姿よりもやはりずっと幼く見える。甘えているのだとありありとわかるその態度に、左馬刻は満足そうに喉を鳴らした。
「おら、なんでも好きなものねだってみろよ」
「――なんでもいいです」
「あん? もう一度言えよ」
一郎の声は小さく溢れるようなもので――それでも、唇の動きからなんと言っているかはわかってはいたのだが――思わず左馬刻は聞き返す。聞き返したのは一郎の声で答えを聞きたかったからだ。ゆるゆると緩みそうな口元を誤魔化すために、素っ気ない言い方になってしまったかもしれないが、特に気にも留めなかったらしい一郎はもう一度、今度は確かに聞こえるような声で答えた。
「左馬刻さんがくれるものなら、なんでも」
「ほーん」
なんでも――俺様のくれるものなら、なんでも、ねぇ?
改めて一郎が告げた答えに、もう感情を誤魔化すことなんてできそうもなかった。
乱数辺りには悪い顔と称されそうな笑みを浮かべた左馬刻は、額を撫でていた指先を、そっと耳へと伝わせる。きょとんとした表情を浮かべる一郎は、左馬刻が何を考えているかなんてわかっちゃいないのだろう。わかっていたら『なんでも』なんて、言えるはずがない――『なんでも』なんて言葉を、他の奴には絶対使うなよ、と言わなければならないが、それは後にすることにして、左馬刻は本来の目的であるそれを告げた。
「じゃあ穴、あけてみるか」
「穴?」
「ここに」
髪を切り落とし、露わになった形の良い耳。ふに、と触ればくすぐったそうに一郎は笑う。
「ピアス、似合うと思うぜ」
そこを飾るためのピアスはもう既に買ってあった。
一郎の左目と同じ色の、赤いピアス。どうして? と問われれば似合うと思ったから、としか答えようがないけれど。あの日――一郎が長かった髪の毛を切り落とした日。短くなった髪から覗く耳に、赤い石はきっと映えるだろうと左馬刻は思ったのだ。
「……ピアスあけると運命変わるっていうけど、本当ですかね」
「さぁな」
「えぇ……左馬刻さん、いっぱいあけてるけど何か変わりました?」
「どうだろうな」
穴は単なる穴でしかない。耳に一つ二つあけた程度で運命なんて変わるはずがない。それでも、左馬刻は一郎の耳に穴をあけてやりたかった。そんな左馬刻の適当な答えを聞きながら、一郎はふぅんと何やら考えている。どうやら耳に穴をあけること自体は、一郎の中でそれほど問題でもないらしい。
「……穴、あけるの痛いですか?」
「人それぞれじゃねぇ?」
「左馬刻さんめっちゃ痛くしそう」
「ほーん、じゃあ他のやつに頼むか?」
他のやつにあけさせる気なんてないくせに。それでも心の内を悟られまいと左馬刻は真意を隠しながら軽い言葉で答えた。口元に浮かぶ笑みは、本心が五割、誤魔化しが五割だ。半分ずつのそれに、けれど一郎が気付くことはない。
ふるふると小さく首を横に振った一郎は、まっすぐな視線を左馬刻へと向ける。
「左馬刻さんにあけてほしいです」
「……俺がお前の運命変えて良いのかよ」
「左馬刻さんがいい」
左馬刻さんに、あけてほしい。
そう繰り返された言葉に――一郎が出した百点満点の答えに、左馬刻はわしゃわしゃと一郎の髪の毛を衝動的に掻き混ぜた。何するんすか、なんて声にぴたりと手を止めて、優しく髪を梳いてやる。左馬刻の行動を訝しんだ一郎は、眉根を寄せてこちらを見上げた。けれどその先にあった左馬刻の表情を見て、さっとその顔を赤く染める。うろうろと彷徨う双眸を見つめる左馬刻は、嬉しそうな顔を隠しもせずに笑っていた。
「……なにが、そんなに嬉しいんですか」
「お前がピアスをあけるって言ったから」
ぽそぽそとした一郎の問いかけに、左馬刻はさらりと答える。一郎は納得したのか、恥ずかしそうにそうですか、と小さく呟いてその顔を隠してしまった。
嘘ではない。けれど十割の本心でもない。左馬刻が笑う理由は、一郎が出した答えだった。
『左馬刻さんがいい』
一郎が答えを出したそこには、少なからず左馬刻の誘導もあった――けれど、一郎は他の誰でもなく左馬刻を選んだ。左馬刻になら運命を変えられても良いと言ったのだ。
「今度あけてやるよ」
「今じゃないんですか?」
上を向いた一郎が小さく首を傾げて尋ねると、左馬刻は笑いながら答えた。
「道具も何もねぇから今は無理。あとテメェ全然本調子じゃないだろ。ちゃんと準備して、元気になったら一郎ちゃんのココの処女、貰ってやるから覚悟決めとけよ」
「……っ、」
本音を言えば、今すぐに穴をあけてやりたかった。いつその時がきても良いようにと、道具だって部屋にしっかり揃えてある。けれど、今の一郎は決して本調子ではない。生理は病気ではないが、体調を崩していることは確かだ。ピアスの穴も結局は傷と同じである。左馬刻は自身の欲望で、一郎に無理を強いるつもりはなかった。
耳朶を摘みながら冗談めかして言えば、一郎はさっとその顔を朱色に染める。ぱしん、と軽く膝を叩かれたのは羞恥からだろう。腹――子宮の上に手を触れさせることまでしてのけるくせに、処女という言葉一つでここまで反応する初心さが可愛らしくて、左馬刻は今度こそ声を出して笑った。
***
東日本を制覇しても特段生活が変わるわけではない。日常は日常として当たり前にあって、それ故に都合がつかないことだって当たり前のようにある。
今日は一週間ぶりの集まりではあったけれど、乱数も寂雷も揃って仕事で顔が出せないということだったから、左馬刻が自分の事務所についた時、そこにいたのは学校帰りに寄ったらしい一郎だけだった。
本当はメンバーの半分が来ないのだから、そのまま帰ってしまっても良かった。連絡をすれば、一郎だって直接家に帰っただろう。けれど、そうしなかったのは別の目的があったからだ。
一週間ぶりの集まり。それは即ち、同じだけの期間、左馬刻が一郎と逢っていなかったということだ。今のチームを組んでから、思っていたよりもずっと速いペースで東日本を制覇することができた。それまでは頻繁に顔を合わせていたから、一郎に逢わない間がたった一週間程度だったとしても、左馬刻にとっては酷く長く感じられた。その理由の一つとして、この間交わした約束が挙げられる。
ピアスの穴を今度あけてやると左馬刻は言った。その今度とは、つまり一郎の生理が終わったあとのことだ。
結局あの日一日体調を崩していたこともあって、一郎はその日の夜まで左馬刻の家で過ごし夕食を食べたあと、自宅へと帰っていった。元々一郎は昼前には家に帰ろうと思っていたらしい。しかし思っていたより痛みがあったこと。そして、合歓がタイミング良く起きてきた――当の本人からすれば決して良いとは言えなかっただろうが――ことにより、夕飯まで碧棺家で過ごすことになったのだ。弟たちにはそういうところを見せたくないという一郎を今帰してしまえば、生理痛がひどいくせに薬と気持ちだけで誤魔化してしまうことはわかりきっていたからだ。泊まれば良いという兄妹二人の意見は、弟が心配だという一郎によってお断りされてしまったけれど。
それから一週間が経過した。一般的な生理の期間を考えれば、もう終わっていて良いだろう。ということは、もう一郎の耳に穴をあけてやることができるということだ。本人の口から聞いたわけではないから本当に終わっているかどうかはわからない。しかし、乱数も寂雷もいないのであれば、そうするのには一番都合が良いだろう。一郎に今の様子を聞いて、可能であれば夕食を食べたあとにでも穴をあけてやれば良い。
じっと携帯を見ていた一郎は、扉が開いた音で左馬刻が来たことに気付いたらしい。一瞬で表情がぱっと明るくなる様は懐いた子犬のようだ。可愛いなと思ったが、口に出せばまたきゃんきゃん煩く吠えるだろうから本音は心の中にしまい込む。いつもであれば一郎の反応を楽しむためにからかうのだが、これからのことを考えれば拗ねさせるのは得策ではないと考えたのだ。単純な一郎は拗ねても下手に出てやれば機嫌をころっとなおすだろうし、そんな応酬も楽しくはあるけれど、今の左馬刻にとってはそういう時間でさえ惜しかった。
「体調はどうだ」
「平気です! こないだはありがとうございました」
一郎の向かい側に腰を下ろした左馬刻の問に、一郎ははきはきとした声で答える。にこにこと笑うその顔に嘘はない。いつもの一郎に戻っていることを確認した左馬刻は、持っていた煙草を取り出して火をつけた。さてどう切り出してやろうかと考える。今日は一郎が何を言おうと穴をあけてやるまで帰すつもりはなかった。
目の前に座る一郎の耳に視線を向けて、そこにもうすぐ飾られるだろう赤色を考える。思わず緩んでしまいそうになる口元を、煙草を吸うことで誤魔化そうとしたが、一郎にはバレバレだったらしい。
「楽しそうっすね、左馬刻さん」
くふくふと、そっちのほうがよっぽど楽しそうな顔をしながら一郎は笑う。やたらと機嫌の良さそうな一郎をちょいちょいと指だけで招いて見れば、小首を傾げながらもこちら側へとやってきた。ぽんぽんと己の隣を手で叩けば、なんの疑いもなくすとんと腰を下ろす。最初の頃は警戒心ばりばりの猫のようだった一郎が随分と懐いたものだと思えば、なんとなく感慨深い。まだ長い煙草を灰皿に押し付けながら、肺に溜まっていた煙を吹きかける。
「何してんす、かっ?」
むせて顔を背けようとした一郎の髪に指を潜り込ませて、無理矢理顔を固定してやる。その瞬間、大きく見開かれた瞳に、目ん玉落っこちるぞ、と笑えば、落ちねぇよ、と不機嫌そうな声が返ってきた。それに気を良くして耳に指先を滑らせれば、くすぐったいのか逃げ出そうと一郎は少しだけ身を捩る。しかし、そんな一郎を左馬刻が逃がすはずがなかった。肩を抱いて、ふに、と柔らかな耳朶を摘む。ここに穴をあけてやる――そして左馬刻が選んだ赤が一郎を飾るのだ。
「今日、あけてやるから」
さらりと告げる左馬刻に一郎は一週間前のことを思い出したのか、顔を赤く染めてこくんと首を縦に動かす。時間があいたことで気が変わっていたら、という考えも杞憂に終わったようだ。まぁ、万が一、一郎が拒んだとしても無理矢理あけてやるつもりではいたけれど。
「まずは飯な、何が食いたい?」
「え、別に良いっすよ。穴あけてもらったら帰ります」
弟たちもいますし、なんてもごもごしている一郎の耳を摘んでいる指先に力を込める。痛みを感じたのか一郎の顔が軽く歪んだ。
「一郎、よく考えろよ。耳に穴をあけんだぞ」
白い耳朶に爪をたてて跡をつける。それはすぐに消えてしまうような儚いものだ。けれど左馬刻が一郎に残したいのはこんなものじゃない。簡単には消えないもの――できればずっと残る何かを、左馬刻は一郎に残してやりかった。
「ちゃんと準備してからじゃねぇと危ないし、準備してても何があるかわからねぇんだ」
左馬刻自身、幾つも穴をあけているから慣れてはいるが、それでもピアスの穴をあけることは身体に傷をつけることと同じである。穴をあければ血が出るし、時には止まらないことだってある。一郎だってそんなことわかってはいるだろう。それでも、左馬刻が簡単な気持ちで一郎の耳に穴をあけようとしているのではないということを、わかってほしかった。
「万が一のこともあっから、飯終わってゆっくりしてからな」
意図して優しい声を作りながら、左馬刻は触れていた耳から手を離す。そして一郎の頭を軽く叩いた。ん、と静かな声で呟いた一郎は、机の上に投げ出していた携帯に手を伸ばす。弟に連絡をするのだろうなと画面を上から覗き見れば、思った通り今日は遅くなるという旨のメッセージを入力しているところだった。
携帯に一生懸命向き合う一郎を眺めながら、左馬刻は今夜の夕食のことを考える。合歓は友人のところに泊まると言っていたから、外で食べて帰っても問題はない。左馬刻自身は特に食べたいものがあるわけでもないから、いつも通り一郎に任せてしまって良いだろう。一応一郎が言い出しそうなものをいくつか脳内で考えていたのだが。
「左馬刻さん。俺、左馬刻さんの作った飯食べたい」
弟とのやりとりが終わったらしい一郎が言い出したのは、左馬刻の脳内では選択肢として挙がっていなかったものだった。とはいえ、拒否する理由なんてない。一週間前だって朝食を作ってやったし、遡れば数える程ではあるけれど、何度か一郎は碧棺家で左馬刻が作る料理を食べている。
「何がいい?」
「え、本当にいいんですか?」
言い出したのは一郎のくせに、それが通るとは思っていなかったらしい。驚きに大きく目を見開いて、それから嬉しそうに笑った。
「左馬刻さんの作るご飯、何でもおいしいんですよね」
「ほーん」
何かを食べている時の表情が一番豊かかもしれない――それぐらい、一郎はおいしそうにものを食べる。だから、左馬刻も何でも食べさせてやりたくなるのだ。
金がないからと一日何も食べないこともあると聞かされたのは、まだ出会って間もない頃だったか。身長は高いが、肉付きの良くない一郎を見かねて無理矢理連れていったのが最初だったような気がする。今は弟たちにちゃんとしたものを食べさせなければと、自炊を頑張っている――何度か請われて料理を教えたこともある――、ようだけれど、元々自身に対しては無頓着な一郎は、一人だと何も食べなかったりすることを左馬刻は知っていた。
だからこうやって、一郎が自分から左馬刻の作るものを食べたいとねだってくるということは、嬉しいものだった。
「じゃあ帰り道にどっか寄るか」
「はい」
冷蔵庫には何かしら入っているだろうが、一郎の食欲を考えれば買っていったほうが良い。それに、何でも良いと一郎は言ったけれど、それが作る側としては一番困るのだ。となると実際に食材を見ながら考えるのが良いだろう。目の前にものがあれば、一郎も何が食べたいか言い出すかもしれない。そう思って告げた言葉に一郎が首を縦に振る姿を見ながら、左馬刻は座っていたソファから立ち上がる。ちらりと時計を見れば、もうすぐ七時になろうとしていた。今から買い物をして帰れば八時前には食べることができるだろうか。そこから――あれこれ考えて、首を振る。どうせ明日は休みだ。どうなったって構うことはない。
「左馬刻さんいきますよー!」
先に外に出ていたらしい一郎が、扉のところから左馬刻を呼ぶ。それにおう、と答えて左馬刻は一郎のほうへ向かった。
***
スーパーに向かう道すがら、あまり魚を食べる機会ないんですよね、と一郎が言い出したのでメインは魚に決めた。確かに育ち盛りの子供三人が食べるなら、魚よりも肉のほうが割安だろう。
まずは鮮魚コーナーに向かい、並んでいるものを眺める。どうやら今日はメカジキが安いらしい。今の時間から油を使うのは面倒くさいからと竜田揚げという選択肢は勝手に却下して、今日はメカジキの照り焼きな、と言いながら一郎の持っていた――持つといって譲らなかった――かごの中にぽんとメカジキのパックを入れる。冷蔵庫に作り置きは何かあったか? と考えながら、取り敢えず次に向かった野菜コーナーで生姜とネギを手にとった。
「何か他に食べたいモンあるか?」
昨日作ったポテトサラダはできれば今日中に処理してしまいたい。あとはほうれん草の胡麻和えがまだ残っていた気がする。左馬刻はメインとそれらの残り物、あとは米と汁物があれば十分すぎるぐらいだが、一郎には物足りないのではないか。食卓に並べるメニューをつらつらと言えば、いやいやと首を横に振った。
「もう十分じゃないすか」
「でもお前、いつもめちゃくちゃ食うだろうが」
いつも――と左馬刻が思い浮かべたのは、美味しそうに食べる一郎の姿だ。そのくせ放っておけば簡単に食を抜いてしまうのだから、自分がいる時ぐらいは腹いっぱい食べさせてやりたい。
「えー、普通っすよ」
あ、でもこないだ食べたオムレツ食べたい。
一郎の言葉に、左馬刻はトマトのパックを手にとった。トマトとチーズの半熟オムレツ。挽肉を入れてやればそれなりにボリュームも出るだろう。ついでにもうすぐ切れそうなじゃがいもと玉ねぎをかごの中に入れた。
***
無人のはずの家は、けれど電気がついていた。今日家を出る時に遅くなるかもしれないと言ったから、合歓が家を出る前に付けていったのだろう。合歓は留守であると告げれば、一郎は少しだけがっかりしていた。仲は良いが学校は違うから、二人が逢うことは殆どない。多分合歓にも一郎が来たと言えば、同じような反応をするだろう。
買ってきた材料を使うものと使わないものに分けて、使わないものは片付ける。冷蔵庫を覗けばベーコンの賞味期限が今日までだったから、オムレツには挽肉の代わりにベーコンを入れることに決めた。
「じゃあ、作るか」
邪魔にならないように髪の毛を軽く結ぶ。視線を感じて横を向けば、一郎がきらきらした目でこちらを見ていた。曰くやっぱり左馬刻さんかっけー、とのことで、悪い気はしないが落ち着かない。ひらひらと手を振って止めさせたが、その視線はちらちらとまだこちらを向いていた。
制服が汚れるといけないからと、エプロンを手渡せば一郎はもそもそと身につけた。三角巾まで付けたら調理実習みたいだな、と思いついたことをそのまま言えば、どうせガキだよ、なんて言って拗ねる。そういうとこがガキなんだよなぁ、と思っても今度は口に出さなかった。
二人台所に並んで、調理を始める。左馬刻がメカジキに片栗粉をまぶしている間に、一郎には横で野菜を切ってもらうことにした。
三人で暮らし始めて、自炊をするようになった一郎の手付きは、当然のことだが初めて左馬刻の前で包丁を握った時とは違っている。その姿に成長を感じて、思わず口元に笑みが浮かんだ。
「結構慣れてきたな」
「はい、最近近所のばあちゃんたちにも色々教えて貰ってて。結構レパートリー増えたんですよ」
子供三人で暮らす山田三姉弟に、近所の住人はとても良くしてくれるらしい。それを笑顔で話すことができるようになったということは、施設でも頼ることのできるような大人がいなかった一郎にとっては良い環境なのだろう。
「これ、このままでもめちゃくちゃうまそう」
メカジキの準備が終わったので、調味料を混ぜ合わせ照り焼き用のタレを作っていれば、一郎がすん、と鼻を寄せて匂いを嗅いでいた。多分一郎は、甘辛い照り焼きのタレだけで飯が食えるタイプだ。ついでに鰻重もタレの匂いだけで飯が食えたりするだろう。
コンロに並べるフライパンは二つ。照り焼きのほうは一郎に任せて、左馬刻はオムレツへと取り掛かる。
バターを溶かしたフライパンで、さっき一郎が切ってくれた玉ねぎを炒める。そして、頃合いをみながらそこにベーコンを加えた。
「いちろ、卵とってくれ」
「はいっ」
ベーコンの色が変わったら、軽く塩胡椒を振って一旦取り出した。そして、もう一度バターをフライパンに入れたら、バターが溶けたぐらいで火を弱火にしてトマトを軽く炒める。塩胡椒をさっきの卵を割り入れてぐるぐると混ぜてやる。本当はボールかなんかで溶き卵を作ってから流し入れるべきかもしれないが、腹に入ってしまえば同じだからと割と適当だ。
「すげぇ、それ俺もできるようになりたい」
「練習すればそのうちできっだろ」
片手で卵を割り入れたところが、一郎にはやけにかっこよく見えたらしい。きらきらとした顔でこちらを見ているが、今は教えている余裕もない。油断をすればすぐに半熟ではなくなってしまう。
底の部分が固まって、上が半熟になったか、というところで火を止めてさっき炒めたものとチーズを半熟卵の上にのせる。フライ返しで折りたたんで、少し形を整えてからぽん、と勢いをつけてひっくり返せば、おーと感心した声が聞こえてきた。
「左馬刻さん……」
「今度教えてやっから」
慣れれば、多分一郎にもできるだろう。だけど、今日は一郎の分しか作らないから、これで終わりだし教えるのもまた今度だ。できたオムレツは皿にのせて、持っていけ、と一郎に手渡した。さて任せておいた照り焼きはどうなったかと見てみれば、こちらもちょうど良さそうだった。皿にメカジキとネギを盛り付けて再度台所に戻ってきた一郎に渡す。
あとは冷蔵庫から残り物のポテトサラダとほうれん草の胡麻和えを取り出して、タッパーをそのまま食卓へと持っていく。どうせ今日なくなるだろうから、わざわざ皿に移すこともない。
「左馬刻さん、ご飯よそいますね」
「おー」
小皿と箸、汁椀をとったあと適当に味噌汁を選ぶ。いつもだったらきちんと作るが、時間を考えたら仕方がない。インスタントもそれなりにうまいから構わないだろう。手に持ったそれらをテーブルの上においたあと、水とケチャップを取り出すために冷蔵庫を開く。いつもならビールを一缶あけるところだが、このあと一仕事あるからそれはなしだと、必要なものだけをとって冷蔵庫を閉じた。
「左馬刻さん、今日はごはんどうします?」
「酒は飲まねぇから飯をくれ」
味噌汁これでいいか? と選んだ袋を見せる。なんでもいいですと答えた一郎に、まあそうだろうなと思いながら左馬刻は食卓へと戻った。
準備ができたテーブルに向かい合って座る。普段作るよりは随分多いが、一郎なら全部食べてしまうだろう。残ったらタッパーか何かに入れて持たせれば良い。
「じゃあいただきます」
ぱちんと手を合わせて、一郎はいつものように行儀よくそう言ってから食べ始める。おいしいです、と笑う顔が普段よりも幼く見えて、左馬刻はそっと目を細めた。
***
「一郎こっちこい」
夕飯を食べ終わったあと、左馬刻は隣のスペースを手で叩いて一郎に座るように促す。その呼び掛けに素直に従い、一郎はそこにすとんと腰を下ろした。露わになっている耳朶に触れれば、ぴくんと身体が跳ねる。身体や表情が強張っているように見えるのは緊張感からだろうか。なんとなく嗜虐心が湧いて、そっと耳へと唇を近づける。
「ひぁっ」
「緊張してんな」
「な、なめ……」
耳を抑えながら一郎は音を立てて左馬刻から距離をとる。ぷるぷると震えながらこちらを見る不揃いの瞳は大きく見開かれ、顔は真っ赤に染まっていた。
「色気ねぇ声」
「色気とかいらねぇし……、ってかいきなり何するんすか」
「あんまり緊張してっからリラックスさせてやろうと思ってよぉ」
くくく、と笑えばその顔が更に赤く染まっていく。そんな一郎の反応が楽しくてにやにやと笑う左馬刻に一郎は、俺で遊ぶな! と一つ吠えた。
そういうとこが面白いんだよなぁ――そんなことを考えながら、ちち、と舌を鳴らして指先で招く。一郎は、犬じゃないんですから、とぶすくれつつも素直に左馬刻の元に戻って来た。とんとんと足の間を示せば何の躊躇いもなくそこに座る。やっぱり犬だろと、言葉にしない代わりに頭を撫でてやれば、気持ちよさそうに目を細めていた。
「減るモンじゃねぇだろ」
「……なんか、減る、気がする」
「ほーん」
その何かについて聞いてみたかったが、多分一郎自身もわからないだろうとスルーしてやることにした。寝ている子供を起こしても碌なことはない。
ぐりぐりと撫でる手に力を込めれば、痛いと手を叩かれる。ついでにもうしないでください、と上目遣いで睨まれたが、それも小動物の威嚇のようなもので、どうにも可愛らしいなと思うし、寧ろもっと反応が見たくなる。しないという確約はできねぇな、なんて思いながら、悪かったとちっとも心のこもっていない謝罪を口にした。
「……なんかもうすげぇ疲れた」
そう言って一郎は、とすんと左馬刻の胸に身体を預けた。さっきの茶番で逆に力が抜けたのだろう。もう一度耳に指を伸ばしたけれど、今度はもう硬直することなく左馬刻の自由にさせてくれる。
「こっちからな」
自分のほうに向けられている耳朶をふにふにと摘みながら、どのへんにあけてやろうかと当たりをつける。本当は両方の耳を見ながら印をつけたほうが良いのだろうが、片方あけてそこからバランスをとれば良いだろうとその過程を飛ばしたのは左馬刻の都合だ。なんとなく、穴以外の印を一郎の耳に残したくなかった。
「つめたっ」
「ちっと我慢しろよ」
消毒液を染み込ませたコットンを耳にあてる。アルコール特有のひやりとした感触に、一郎はびくりと大きく身体を跳ねさせたが、逃げる様子はなさそうだ。それでも、触るなよ、と一言釘を刺して、左馬刻は丁寧に耳を拭いていく。
「左馬刻さんがいきなりするから」
「悪かったな」
素直な謝罪の言葉に、一郎は少し驚いた表情で左馬刻を見ていた。別に本気で悪かったと思っているわけじゃないが、こんなに驚くのなら、まあ一言ぐらいは言ってやったほうが良かったかもしれないと思ったのだ。左馬刻が昔自分で穴をあけた時はここまで丁寧に消毒もしていない。なんなら安全ピンで適当にあけた。針を火で炙るぐらいはしたけれど、それだけだ。
「それであけるんですか?」
「おー」
机の上からニードルをとって軟膏を塗っていると、一郎が怖怖とした顔で聞いてくる。
「俺、あのバチン、ってやつであけんのかと思ってました」
「ピアッサーな」
確かにピアッサーのほうが学生には一般的かもしれない。けれど、左馬刻は一郎の耳に穴をあけるのはニードルで、と決めていた。自分の手で穴をあけてやりたかったし、最初にその耳を飾るピアスは自分の選んだものが良かったのだ。
嫌がる一郎の耳にあてたピアッサーでがちゃんとやってやる。涙目になって恨めしそうな目で左馬刻を睨み、けれど、「お前が良いって言っただろ」と言えば、拗ねた声で「飯奢ってくれたら許します」なんて口を尖らせる一郎の姿が頭に浮かんだ。それはそれで楽しかったかもしれない。
「痛いっすか?」
そろりと不揃いの赤と緑が揺れる。痛みには慣れているくせに、自分から傷付くのは厭わないくせに。こうやって時折弱いところを見せるから、悪い大人はそこにつけ込みたくなるのだと。多分一郎は気付かない――言ってやるつもりもないけれど。
「さぁ、どうだろな、痛かったら右手上げろよ」
「歯医者さんじゃねぇんだから」
実際穴をあける時は、痛い時もあれば痛くない時もある。ニードルはあける側の腕に左右されるし、左馬刻だって痛くしてやるつもりはない。しかし、身体に金属で穴をあけるのだから少しの痛みは当然のようにあるだろうし、一郎が感じる痛みがどの程度かも左馬刻にはわからない。
冗談のように言った言葉に一郎が笑う。緊張がとけたのか、腕の中の身体からはすっかり力が抜けていた。
「……やさしくしてくださいね」
どちらともつかない答えに、一郎は少しだけ考えて小さな声で呟いた。さっきまでの不安に揺れていた瞳が、今はまっすぐに左馬刻を見つめている。それに気付いた左馬刻はぐう、と込み上げた衝動を必死で飲み下す。
「優しくしてやるよ」
当たりをつけた場所にニードルの刃を当てる。そして、ほんの少しだけ力を込めて皮一枚の部分まで、ニードルの先をつぷりと入れた。準備していたコルク片を耳の裏にあてがい、力を込めて一気に貫通させたらそのままニードルをゆっくりと押し込んでいく。
「こっちがわ、終わったぞ」
「え、もうっすか」
一郎の耳朶にぽっかりとあいた穴。それに、左馬刻の中の何かが満たされていく。本来であればピアスをニードルの後ろにつけておくべきだったが、左馬刻がそれをしなかったのは、自分があけた穴をしっかりと見たかったからだ。
「……あんま痛くないっすね」
「そりゃ、俺様がやってっからなぁ。穴には触んなよ」
ちょいちょい触ろうとする一郎の手をとって、くるんと反対側を向かせる。もう片方の耳にも同じように消毒を施すが、もう慣れてしまったのか一郎は大人しくしていた。
「はぁい。誰がやるとか関係あるんすか?」
「下手くそだと痛ぇかもな」
左馬刻の注意に元気よく返事をした一郎の問に、左馬刻はさらりと答える。
「ふぅん」
――セックスと同じだ。
そう言ってやろうと思ったが、言えばまた一郎は暴れるだろう。そういう性的なことに対しては、やたらと反応がいいからそういう話をしてからかってやることもあるけれど、刃物を持っている今そうするのはあまりにも危険だ。左馬刻がつけたいのはそういう傷ではないのだから。
「次やるぞ」
さっきと同じ手順で、一郎の耳に穴をあける。つうとあいた穴から流れる血を見て、左馬刻は衝動的に唇を耳へと寄せていた。
「ひ、」
流れる赤を舌で舐め取り、そのまま穴ごと口の中に含む。溢れる鉄の味を辿るように舌で穴をなぞれば、逃げられない腕の中の身体がびくびくと震えていた。血と唾液を舌で混ぜ合わせ、ちゅくちゅくと水音をたてる。そして、最後の仕上げとばかりにリップ音を残して唇を離せば、真ん丸く見開かれた二色の瞳がこちらをじっと見つめていた。
「な、なにするんすか」
「消毒」
酷く動揺している一郎に、左馬刻は何でもないような顔をして一言で答えた。あまりに普通に答えたからか、一郎の顔が困惑に染まる。
「嘘だろ……」
「傷は舐めとけば治るって言うだろが」
左馬刻の言うとおり耳の穴から流れていた血は止まっている。べったりと左馬刻の唾液がついた耳に触れて、何やらショックを受けているらしい一郎は無視することにした。
一郎の手を払った左馬刻は、穴のあいた耳をもう一度消毒液で丁寧に拭き取る。どうやらもう血は止まったようだ。あいた穴の形を確認してから、机の上の黒色のケースを手にとった。一郎はまだこちらに気付いていない。まぁいいかとケースを開いて、そこにあるピアスを取り出した。赤い色。いつか渡そうと思っていたそれが、とうとう一郎の耳を飾るのだ。どうしたって気が急いてしまう。けれど折角あいた穴を傷付けるわけにはいかない。丁寧な手付きでキャッチを外して、まずは一つ穴に通す。もう一度キャッチを嵌めたら次はもう片方。同じようにピアスを嵌めてやった左馬刻は、机の上にのせていた鏡を一郎へ手渡した。
「おら、終わったぞ」
両耳に嵌った赤い石。きらきらと煌めくそれに、一郎の表情がじわじわと変わっていく。
「本当に刺さってる……」
「まぁ、穴あいてっからな」
まじまじと一郎はピアスの嵌っている穴を見て、それからちょいちょいと片方ずつ実際に触れた。時折角度を変えては、感心したように声を漏らしている。
「似合ってんぞ」
「……ありがとう、ございます」
元々穴をあけるというのは左馬刻が言い出したことだった。それだって、一郎の耳に自分で穴をあけてやりたい、自分の選んだピアスを嵌めてやりたいという欲望によるものではあったけれど、こう喜んで貰えればやはりそれなりに嬉しい。嬉しそうにきらきらと目を輝かせる様は、どんな言葉よりも雄弁だ。
「それ一ヶ月は外すなよ」
「外す予定はないっすけど、なんでですか?」
鏡から目を離した一郎は、左馬刻をみてこてんと首を傾げる。
「穴が安定しねぇうちは傷と一緒だからな」
「ふぅん……」
そう言って、一郎はもう一度鏡に映る己の耳に視線を向けていた。綺麗にあけることができたので、一ヶ月もあれば穴は固定されるだろう。
「特に消毒とかはいらねぇけど、風呂入る時にはちゃんと洗えよ」
「はい」
「化膿したり血がでたらすぐに言え」
左馬刻からの注意を聞きながら、こくこくと一郎は真面目に頷く。不良なんて呼ばれてはいるけれど、一郎は基本的に素直なやつだ。学校にはなかなか行けないし、行かない。行っても授業は大して聞いていないらしい一郎だけれども、成績はそこまで悪くないらしいと言っていたのは、合歓だったか。
するりと一郎の耳に指先を伸ばした。耳を飾る赤い色に触れながら、さて次は何を送ってやろうかと考える。
「また新しいの買ってやっからな」
「えぇ、いいっすよ」
「ばぁか、俺がやりたいんだよ」
もうこれ以上は十分だ、と遠慮する一郎に、左馬刻はわしゃわしゃと頭を撫でてやる。人の欲には果てがない。一つ願いを叶えた今も、次から次に浮かんでくるのだから。さて次は何をしてやろうか。取り敢えずコーヒーでも淹れてやろう。左馬刻は一郎に一言断って立ち上がり、自然と緩む口元に手を当てながら台所へと向かった。
***
「はー……昨日とうとう貫通式やっちゃったの?」
「貫通式言うな」
膝の上で横になった一郎の髪を梳きながら、左馬刻は目の前の酒を煽る。
昨日会えなかったし修羅場明けたから付き合って! と乱数からメッセージを受け取った左馬刻と一郎はシブヤの飲み屋に集合することになった。最初は二日連続で外食はちょっと、と渋っていた一郎ではあったけれど、どうやら乱数の嘘泣きによる泣き落としに負けたらしい。大体一郎は押しに弱いのだ。
予定時間より少し遅れてくることも、萬屋の依頼を熟したあとに弟たちの夕飯を作ってくるからだとは聞いていた。そして、ごめん、と謝罪とともに入ってきた一郎の耳に嵌っているピアスに気付いた乱数が話を振り、そこから一郎はピアスをあけた昨夜のことを話し始めた。どうやら、誰かに聞いてもらいたかったらしい。
弟たちにはなんとなく言いづらくて、と最初はぽつぽつと話していた一郎だったが、話しているうちに興奮してしまい、自分の飲み物と間違えて目の前にあった乱数の酒を一気に煽ってしまった。度数は低いが、まだ未成年で耐性もないからか、それとも疲れていたのか。暫くゆらゆら揺れていた一郎がことんと寝てしまったのがついさっき。直に床に寝るのも辛いだろうと、頭を膝にのせてやったのだけれども。
「やっばいね、さまときさまーいつかやると思ってたけどさぁ」
「何がだ」
くふくふと含んだ笑みを浮かべてこちらを見る乱数の顔は、完全に玩具を見つけた時のものだった。酔っぱらいの絡み酒。尚且ザルだから性質が悪い。膝の上の一郎さえいなければ金だけおいて帰ってしまいたいところだがぐっと堪える。
「ねぇ、左馬刻。あれルビー?」
「あぁ?」
「結構お高いデショ」
「どうだかな」
にまにまと笑う乱数の言葉をのらくらと躱しながらも、その観察眼に感心する。流石デザイナーというべきか。一郎は全く気付いていないだろうが、ピアスの赤い石は乱数が言い当てたようにルビーだったし、金額だってそれなりにする。一郎に言わないのは、下手に遠慮をされたり突っ返されるのが嫌だからだ。こんな高いものもらえません、なんて言われるぐらいなら何も言わないほうがマシだった。左馬刻が渡したいから渡したもので、別に有難がってほしいわけでもないのだから。
「まぁ、一郎の誕生日七月だしねぇ。ちょうど良かったじゃん」
「何がだ」
「左馬刻さまとオソロっち〜」
そう言って乱数は左馬刻の血を透かしたような深紅の瞳を指差した。その目は決して笑ってはいなかった。
乱数は、左馬刻があの赤い石に込めたものに気付いているのだろう――そして、左馬刻が穴をあけてやった意味だって。
「……あいつには赤が似合うだろ」
「まあそういうことにしとこっか」
「あぁ!?」
「さまときさまこわひ〜」
マーキングみたいだなって思っただけじゃん。
ぴたり、と左馬刻は口を噤んで、膝の上の一郎に視線を落とした。しっかりと眠っているようで安堵する。少なくとも、今一郎の頭上で繰り広げられている会話は、聞かせたいものではなかった。
誕生石がルビーなのも、だからルビーのピアスを選んだことも間違ってはいない。一郎が気付いても、それで言いくるめようと思っていたのだから。そして沢山あるルビーのピアスから左馬刻が気に入って選んだものを買ったのだから、値段だってどうでも良かった。けれど、それを言わないのは、左馬刻自身に後ろめたいことがあるからだ。その裏に隠れた何かがあるからだ――そしてそれに乱数は気付いている。
「図星ぃ? まぁ一郎可愛いしね。今はあんな格好してるけど、前は普通にセーラー服着てたし。知ってる人は知ってるし、気付く人は気付くでしょ」
「何が言いたい」
ぎろりと睨む左馬刻の視線など全く気にすることなく、乱数は目の前の枝豆を摘んだ。
「ねぇ、左馬刻。ずっとこのままでいられるはずないじゃん。左馬刻だって知ってるでしょ――自分の気持ちに嘘ついたままでいいの?」
自分の気持ち――きっと乱数は、『左馬刻は一郎のことが好き』なのだと言いたいのだ。
大切な気持ちは否定しない。好きという言葉で形容されることもあるだろう。一郎は左馬刻にとって大切な後輩で、息の合うチームメイトで、可愛い妹分だ。けれど乱数が言っているのはそんなものではないのだろう。
だから、左馬刻は否定する。これはそういうものではないのだと。お前が考えていることは全くの見当違いなのだと。
「…… 」
――そう言ってしまえたら良かった。そう思うのに、まるで言葉が喉に張り付いたように、左馬刻の口からは何も出てこなかった。口に出せない理由があることを、左馬刻はよくわかっていた。
沈黙したまま、いっそ全てを飲み下してしまおうと左馬刻は一気に酒を煽る。枝豆を摘んでいた乱数は、今度はだし巻き卵をぽいと口に放り込んでむぐむぐと咀嚼してから、同じようにぐいと酒を煽った。
「多分、左馬刻は一郎がいなくても生きていけるけど。一郎がいなきゃだめになるよ、きっとね」
それから乱数は、ゆっくりと息を吐き出した。
「まぁ、左馬刻が良いならそれで良いけどね。ボクは後悔してほしくないんだよ」
「……後悔」
「そ、左馬刻が何考えてるかなんてボクにはわからない。推測はできるけど、それは結局左馬刻が考えていることと同じかどうかなんてわかんないんだよ」
今みたいにさ。
乱数は喋りながら枝豆を一つずつ皿に出していく。左馬刻はぽこんぽこんと飛び出るそれを目で追いながら、ぼんやりと乱数の言葉を考えていた。
「う……おはようございます……?」
暫く経って、どうやら目が覚めたらしい一郎がのろのろと頭を上げた。顔色は悪くないし具合も悪くなさそうだ。眠い目を擦りつつ、ぽやっとした顔で周囲をぐるりと見回していた一郎は、これまでのことを思い返して、どうやら寝落ちた瞬間を思い出したらしい。はっとした顔で、頭を抱える。
「いっちろ、どうしたの。頭痛いの?」
「頭は痛くねぇ……酒、飲んじゃったなって」
「別にいいじゃん〜一郎不良のくせに真面目なんだからぁ」
かわいい〜! とケラケラ笑いながら、乱数は一郎に焼酎用に準備していた水をコップに注いで渡してやる。じっと警戒しながらコップを受け取った一郎は、くんと匂いを嗅いで問題ないと判断したのかこくんと水を一口飲んだ。
「普通にジュースかと思ったけど、あれも酒なんだな」
「そだよん。まぁ見た目はジュースでもそこそこ度数あったりするから、一気に飲んだりしちゃメッ、だよ!」
実際に一郎が口にした酒は度数も低いものだったけれど、毎回そうとは限らない。注意を促すために乱数が少しだけ低い声でそう言えば、間違えただけだし、飲む気なんてなかったし……、と一郎は言い訳のようにぽそぽそと呟いた。その頭を左馬刻はいつものようにぐしゃぐしゃと掻き混ぜてやる。ぎゃ、と逃げようとする一郎の肩を掴んで、自分の元へと引き寄せた。ぐらりと体勢を崩した一郎が左馬刻の胸に倒れ込む。自然と上目遣いになった潤んだ瞳を見た時に、さっきの乱数の言葉が一瞬だけ頭に過った。けれど、すぐに違うと否定する。大切な後輩。息の合うチームメイト。可愛い妹分。本当の妹とは違うけれど、それでもこれが自分たちの距離なのだ、と――それはまるで自分に言い聞かせるように。
「未成年の一郎ちゃんには、いつか俺が酒の飲み方教えてやるよ」
だからもう、他のやつの前で飲むんじゃねぇぞ。
危なっかしいから、と取ってつけたような理由を口にすれば、一郎はなるほどと頷いた。乱数は、じとりとした視線を左馬刻に向けている。
今一郎は十八歳で、成人するまではまだ二年程ある。遠くはないが近いとも言えない未来を約束する意味を、左馬刻は一郎に告げるつもりはなかった。
「じゃあ成人したらおいしい酒、飲ませてくださいね」
そん時は、よろしくお願いします!
ぐ、と拳を握る一郎に勿論だ、と頷いた。
約束、と差し出された小指。子供の戯れのようなそれにのったのは、左馬刻自身酔っていたからかもしれない。それでも、左馬刻は疑ってはいなかった。一郎が成人した時、自分もそこにいるのだと無条件に信じていた。
まっすぐに見つめる赤と緑のヘテロクロミアに未来を誓う――約束した未来が来ないなんて、知ることもなく。
[newpage]
二章 one and only
壁は破られた。中王区の支配は終わり、ディビジョンという区分けもなくなった。早送りの映像をゆっくりと逆再生するように、次第に世の中は言の葉党成立以前に戻っていっているように見える。
見える、と言うのは、変わっていく先が前と同じわけではないからだ。たった四年間の出来事ではあったが、世界は確かに形を変えていた。言の葉党の政策は確かに無茶苦茶だったが、その中で救われたものだっている。左馬刻は言の葉党や中王区の女たちを忌々しく思っていたし、されたことを許そうとは思わない。けれど、その全てが悪だったとは思っていなかった。
行き過ぎた女尊男卑は確かに問題だけれども、それまでの考え方に一石を投じるという意味では中王区の台頭も無意味なものではなかったのでは、と言っていたのは誰だったか。一石というには余りにも大きく犠牲も少なくはなかったから、世間の反感を買って炎上したと聞いた気がする。左馬刻にとってはどうでもいいことだったから、あまり良く覚えていない。
実際、左馬刻の生活も前と然程大きくは変わっていない――とはいえ、中王区の見世物であるディビジョンバトルの開催はなくなったが、未だに争いはそこかしこに溢れていた。配布されたマイクは一部を除いて回収されたけれど、そのせいか違法マイクを使った事件は以前より増えたし、それに伴い駆り出される機会も増えた。そして、世間が不安定な時は良くない輩が増える。
つまるところ、今の左馬刻は言の葉党が政権を握っていた時よりもずっと多忙を極めていた。
***
日付を跨いでからの帰宅は、最近の左馬刻にとって珍しいことではない。
火貂組において、マイク絡みの案件であれば大体左馬刻に回ってくる。マイク――特にそれが違法なものであれば尚更――が及ぼす影響は未知数であって、それに対して一番耐性と適性があるのが左馬刻であったからだ。
しかし、耐性と適性があったとしても、楽かと言えばそういうわけでもなかった。寧ろ、シノギ絡みのバトルなど高揚感も何もないから、尚更面倒な『仕事』でしかない。だからといって、特例として通常のシノギが減るわけではなく、仕事を任せられるような部下はいても、自分のシマを管理するのは自分しかいない。その結果左馬刻の時間は削られていく一方だった。
蓄積された疲労と慢性的な睡眠不足。いつどこで狙われるかわかったものではないから、緊張感は常に持っているが、それすら投げ出してしまいたくなるようなそんな時。
舎弟の運転する車の後部座席で、煙草を吸いながら外を見ていた左馬刻が、それを見かけたのは多分偶然だったのだと思う。
「一郎」
見間違いかと思ったが、スモークガラスの向こう側。夜の中でも煌めく間違えようのない二色不揃いの瞳がそれを否定する。咄嗟に口から溢れた名前が運転席まで届いたのだろう。止めますか? と聞かれたが、いやいいと断った。車を止めてまで一郎に会うような理由は左馬刻にはない。そうでなくても逢うつもりなんてなかったが。左馬刻の答えに、舎弟は何も言わずそのまま車を走らせた。
煙を吐きながら、左馬刻は先程見た光景を思い出していた。
左馬刻が知る姿よりも少しだけ伸びた髪。あの頃から見ることのなかった女らしい格好。壁を壊してから――つまり最後に一郎と逢った日から数えて、もう一年が経っていた。きっとその間に伸ばしたのだろう。肩甲骨当たりまで伸びていたそれに、思わず昔を思い出す。
一郎は一人ではなかった。男と二人、並んで歩いていた。左馬刻の知らない男だった。
もう日付は変わっている。まだ街は明るいが、終電で帰るには遅い時間だ。そんな時間に男女二人でいるということはそういうことかもしれない。その想像に、なんとなく腹の底がもぞりと不快さを訴えた。その理由なんてわかりすぎるぐらいわかっている。単純に腹がたったのだ。
たまにうっかり距離感を間違えてしまうことはあるが、今も昔も一郎のパーソナルスペースは例外を除けばそれなりに広い。昔は警戒心の強い野良猫のようでわかりやすかったそれは、今は営業用の笑顔の内側に隠されているけれど。
かつて、左馬刻はその内側に入ることを許されたうちの一人だった。今はどうだろうか。誤解は解けた。和解もしたのだと思う。けれどそれだけだ。そう仕向けられたとはいえ、確かに左馬刻は一郎を憎んでいた。その発端となる出来事自体が作為的なものだったとしても、そこにあった感情は本物だ。左馬刻は一郎を切り捨てた。その挙げ句一郎を本気で殺したいと思っていたし、目の前から消えてくれと願っていた――そんな左馬刻を一郎は対立こそすれ、信じていてくれていたのに。
だから和解しました、はいそうですか。と、昔のように戻れるはずもなかったし、戻ろうとも思ってはいなかった。己を信頼していた子供を切り捨てたのに、自身がそれを望むのは、余りにも都合が良すぎると左馬刻は思っていた。
だから、一郎が誰と一緒にいようがどうでもいいはずだった。左馬刻と一郎の関係を表す言葉はいくつかあるが、全てその頭には『元』がつく。今の左馬刻と一郎を繋ぐのは過去しかない。左馬刻は一郎の交友関係に口を出す権利など持っていない。
けれど、左馬刻はその瞬間確かに怒りを覚えた。
それはたとえば、目をかけていた後輩が誰かもわからないような輩に傷付けられた時。あるいは、自分を裏切った子供がイケブクロのチーム、バスターブロスのリーダーとして左馬刻の前に立った時と同じような。
思わず大きく舌を打った。怒りに任せてどかり、と前の座席を蹴る。運転席に座る舎弟の体がびくりと跳ねたが、左馬刻にとってはどうでも良いことだった。
***
ポケットの中の携帯が震えていた。最初は無視していたのだが、着信が止む気配のない携帯を手にとって画面を確認する。そこには入間銃兎と表示されていた。このまま無視して掛けなおしても良いが、確実に後が面倒なことになるのはわかっていたから、同じ面倒ならば先に終わらせておくかと、左馬刻は通話ボタンを押した。捲し立てるような声に思わず受話器を耳から離す。そこから聞こえる言葉を断片的に拾い上げながら聞いていれば、どうやら左馬刻に用があるらしい。電話で済むような内容であれば良かったのだが、どうやらそうもいかないようだと左馬刻は大きく舌打った。それが向こうに聞こえていたのだろう。続けざまに小言めいた言葉をつらつらと並べ立ててきたのでぶちりと通話を切ってやる。即座に着信が鳴ったが今度は電源ごと落としてやった。逢った時が煩いだろうが知ったことか。勝手に言い渡された時間までは、あまり余裕がない。どちらにしろこのまま自宅に帰るわけにもいかないから、当初の予定通り事務所に行くしかないのだけれども。
後ろに控えていた舎弟に後を任せて左馬刻は待たせていた黒塗りの車に乗り込んだ。何も言わずとも、車は事務所に向って走り出す。
左馬刻はポケットを探り煙草を取り出す。潰れた箱の中に、二本しか残っていないことに気が付いて顔を顰めた。その貴重な二本のうちの一本に火を付けて煙を吐き出しながら考える。
事務所に買い置きはあっただろうか。少し考えたが、思い出せないから帰りに寄らせることにした。ヘビースモーカーである左馬刻にとって、煙草が余分にあったとしても何ら困ることはない。どうせ一週間も保ちはしないのだから。
道すがら煙草を買うことだけを言いつければ、短く了承の言葉が返ってきた。それに何を言うこともなく、左馬刻は視線を窓の外に向ける。雑な味を口の中で転がしながら流れる景色を見ていれば、この間の光景がフラッシュバックした。カッとなった衝動でがんと座席を蹴りつけて、無理矢理溜飲を下げる。血の匂いを嗅いだせいで昂ぶっているのかもしれない。自身を落ち着かせるために、深く煙草を吸う。肺の中を煙で満たし、ゆっくりと吐き出せば少しは気持ちも落ち着いてきた。
「カシラ、出てきます」
「おー」
コンビニに着くなり助手席に座っていた舎弟は外に出ていった。もしかせずともさっき左馬刻が言いつけた買い物だろう。既に左馬刻は残された二本目に手をつけていたから、丁度良かったと口は出さずに、肺から煙を吐き出した。例え事務所にストックがあったとしても、辿りつくまでは保たなかったなと改めて思った。頼んだ時にはそこまで考えてはいなかったが、結果オーライと言うべきか。
いつもの銘柄をワンカートン買ってきた舎弟は、封を切って一箱左馬刻に手渡す。受け取った左馬刻はこれから吸うための煙草を一本だけ取り出して、渡された箱をポケットにしまった。
事務所についてすぐにシャワーを浴びるために浴室へ向かおうとした左馬刻だったが、約束の時間まであまり余裕がないことに気が付いた。いきなり予定を入れてきたのは銃兎なのだから少しぐらい遅れても良いとは思ったが、ねちねちと文句を言われるのは御免だった。ただでさえ電話をぶち切った件で小言を言われるのは目に見えている。取り敢えず着替えるか、とシャツを脱げば思いの外血が飛んでいた。そこまで派手にやったつもりはなかったが、この分だと顔にも付いているかもしれない。
いつものアロハに着替えて鏡を覗く。見えるところには飛んでいないようで安堵した。
「カシラ、入間さんが来ました」
「おー、今行く」
呼びに来た舎弟に返事をして、応接室へ向かう。勝手知ったる部屋の中とばかりに、銃兎は定位置に腰を下ろしていた。左馬刻も控えていた舎弟たちを下がらせた上でその正面に座る。
「血の匂いぐらい落としてから来やがれ」
「テメェがいきなり来るつったんだろうが」
血そのものはついていなくても、匂いは染み付いていたらしい。左馬刻自身はもう慣れてしまっていて気付かなかったが、逢うのは銃兎だけだから問題ないだろう。この後にシャワーを浴びれば良い話だ。
「で、いきなり何だ? よっぽどのことがあったんだろうなぁ、ウサちゃんよ」
口に煙草を咥えて、じ、とジッポで火をつける。肺にためた煙を鼻から吐けば微かに甘い匂いがした。
「別に緊急でもないので、後からでも良かったんですけど」
それなら来るなと言いたかったが、言えばまた煩いことになる。電話を切った件についても銃兎が何も言わないのを良いことに、左馬刻は黙っていることにした。
どうやらまた横浜で薬が見つかったらしい。大体銃兎がこうやって来て話す内容と言えば薬か違法マイクに関するものだから、想定の範囲内ではあったのだが。
「今日の相手は、どんな悪いことをしたんです?」
話が落ち着いた後、銃兎も煙草を取り出した。ふう、と煙を吐いた銃兎は、意地の悪そうな笑みを浮かべて、左馬刻へと尋ねる。答えの代わりに、うるせぇ、と低く唸るが、付き合いが長くなった分だけ不機嫌な左馬刻には銃兎も大分耐性があった。大多数の者が逃げ出したくなる程の凶悪な顔を前に、けれど銃兎は怖気づく様子もなく尚もにやにやと笑っていた。
「お前が直接返り血を浴びる位だから相当だな」
「……」
左馬刻は何も答えなかった。これはシノギの一貫ではない。やらかしたヤツを処分したわけでもなかった。言うなれば左馬刻個人の完全な私怨である。けれどそれの詳細を知っているものは誰もいない。処理を任せた舎弟たちにすら何も話していない。そして左馬刻自身、誰に言うつもりもなかった。
「まぁ、いいです。どうせバレるようなことはしてないでしょうし」
聞いてきたのは自分のくせに、銃兎はあっさりとその話題を投げ捨てた。単なる好奇心から聞いただけで、そこまで興味はなかったのだろう。もしくは左馬刻が答える気がないことを悟ったか。多分、その両方だ。きちんと線の引き際を弁えている相手は、こういう時に楽だと左馬刻は思う。たまに単なるお節介で立ち入ってくることはあるけれど。
「じゃあ用事も済みましたので、私はそろそろ帰ります」
「おー」
煙草の火を灰皿で消して銃兎は立ち上がった。そして部屋から出ようとした瞬間、立ち止まる。振り返った銃兎は低く呟いた。
「……左馬刻、いつまで慣れないことをしているつもりだ」
ぽろり、と灰が落ちる。何がだ、とは言わなかった――言えなかった。
無言の左馬刻に、銃兎は眉間に皺を寄せながら告げる。
「いい加減、腹を括れ。いつか痛い目を見るぞ」
言葉の強さに反して、銃兎の声は酷く穏やかだった。一つ一つ区切られた言葉。言い含めるようなそれに、けれど左馬刻は反応しない。それに銃兎も何も言わなかった。
「今度逢う時までに、その面どうにかしておけ」
ハマの王様が湿気た面してたんじゃねぇぞ。
言い捨てられた言葉のあとに、扉の閉じる音がした。室内に一人残された左馬刻は、短くなった煙草をぐじぐじと灰皿に押し付ける。限界が近いことはわかっていた。けれどそれでも隠しておけると思っていたのだ。だから、銃兎の言葉は余計に左馬刻に刺さる。溜め込んでいた気持ちごと吐き出せないかと、重苦しい溜め息をついた。
痛い目を見るぞ――もう見てんだよくそったれ。
ぎりぎりと胸が軋む。ニコチンが足りないと、新しい煙草を取り出して火を付けた。深く煙を吸い込んだが気持ちは晴れることはない。左馬刻は苛立ち紛れにがりがりと頭を掻いた。
落ち着かない。理由はわかっている。わかっているが解消する手立てを左馬刻は持っていなかった。
慣れないこと――そうだな、と銃兎の言葉に心の内で返事をする。欲しいものは奪う――そう言葉で刻んだヨコハマの王にしては、酷く甘いことだと自分でも思う。
けれど、今更どうすれば良いのか、左馬刻にはわからなかった。
***
「あっれぇ、左馬刻珍しいじゃーん。今日は仕事? プライベート?」
「仕事だよクソッタレ」
用事があって渋谷を訪れていた左馬刻に声を掛けてきたのは乱数だった。
乱数のしたことを左馬刻は完全には許していない。それでも、あの時のことはある意味左馬刻の自業自得でもあった。確かに、仕組んだのは中王区で、トリガーを引いたのは乱数だったかもしれない。しかし、そのための種は既に左馬刻によって蒔かれていた。だから許せはしないが、憎み続けるのは違うと思ったのだ。
「ふぅん、何時まで?」
「あぁ?」
「左馬刻と久しぶりにサシ飲みしたいなぁって」
ダメ?
こてんと首を傾げる乱数は、けれど左馬刻より一つ下のアラサーの男だ。思わず顔を顰めた左馬刻に乱数は、もーそんな顔したらメッ、だよ! と大分強い力を込めて背を叩いた。思っていた以上の痛みに耐えながら、左馬刻は今日の終了予定時刻を口にした。
「……八時にはあがる」
「じゃあ終わったら連絡してね! 場所はこっちで勝手に決めとくから!」
左馬刻の仕事ってどの辺?
乱数の問に大雑把に場所を言えば、ふんふんと頷いて、わかったとにっこり笑った。同時にピロンと携帯に送られてきたのは店の場所だ。仕事が速い。流石、渋谷はボクの庭だからと豪語するだけはある。
「じゃあまたあとでね〜!」
バイビ〜、と手を振って乱数は去っていった。来た時も騒がしければ帰る時まで騒がしい男だと思う。だからこそ、完全に解消されていない蟠りがあったとしても、こうやって付き合っていられるのだろうが――その瞬間脳裏に浮かんだ顔に、小さく頭を振った。いっそ忘れてしまいたいと思う。けれどそれができないことを、誰よりも左馬刻が一番良く知っていた。
「おっつかれー」
かちんとコップを突き合わせる。乱数の手にあるグラスの中身は半分ぐらい減っていた。
八時にはあがるといった左馬刻だったが、用事は予想以上にごたついた。遅れると一言だけメッセージを入れたのは、それをしなかった時が面倒なことになると身を以て知っていたからだ。ここ数年ブランクはあるとはいえ、乱数とは半年近く同じチームにいて、その短い間で浴びる程一緒に酒を飲んでいた。り、と何が言いたいのだかよくわからない返信に既読だけ残した左馬刻は、結局一時間ほど遅れて店についた。店に足を踏み入れれば、話が通っていたらしい店員が奥へと案内してくれる。他の客から目につかないように配慮された場所。そこにオレンジ色のカクテルを煽る乱数が一人で座っていた。
「左馬刻今日はありがとね」
「おー」
遅れると連絡はしていたが、一時間も遅刻をしたのだから小言の一つや二つは覚悟していたのだけれども、どうやら乱数は酷く機嫌が良いらしい。んふふと笑いながらグラスの中のカクテルを飲み干して、さっさと次の一杯を注文している。
「左馬刻は?」
「取り敢えず生」
おっけー、と言って乱数は左馬刻の分のビールも頼んでくれた。料理はどうする? そう問われたが、適当に頼むとメニューも見ずに乱数へ任せた。どうせ食べるものに拘りなんてない。嫌いなものはあるが、それを避ければ良い話だ。それを咎める誰かも今はいないのだし。
「で? いきなりなんだったんだ」
「なーんにも。久しぶりに左馬刻に逢ったから、折角だし飲みたいなぁってそれだけだよ」
くふくふと笑う乱数の真意が読めない。本当にそれだけなのか疑ってしまうのは、相手が乱数であるからだ。
「まあまあ良いじゃん、気にしないでのものも! ほら飲み物来たよ」
注文の品がテーブルに並ぶ。うまく流されてやりながら、左馬刻は目の前に置かれたビールのジョッキをとって一気に煽った。
「おー、良い飲みっぷり。ついでに次も頼んじゃう? ゴッドファーザーとかいっとく? 左馬刻だし」
「洒落かよ……まぁ良いぜ」
左馬刻が了承の言葉を口にすれば、乱数は左馬刻の酒とついでに自分の分も注文した。
「……今お前何杯目だ?」
「えー、わっかんないなぁ。まあ何杯でもいいじゃん、お酒沢山飲めるの楽しいし」
左馬刻は約束の時間に一時間遅れてきた。一応メッセージは約束の十分ほど前に送っていたが、もう店についていたとすれば、乱数は小一時間一人で飲んでいることになる。機嫌が良いから多分間違ってはないだろう。乱数が酒に強いのもペースが早いのも知っているからこその疑問だったのだが、乱数は一切答える気はなさそうだった。とはいえ乱数だから潰れることもないだろうし、大して重要なことではない。もし今テキーラショットを注文しても、表情一つ変えずに飲み干してしまうだろう。乱数は、酒の飲み方は非常に雑な男だった。
「左馬刻さぁ、最近一郎に逢った?」
「……あぁ?」
乱数程ではないが左馬刻もそれなりに酒には強い。そして、自分のペースはわかっているから、よっぽどのことがなければ酷く酔うこともない。それでも、酒はいれているのだから酔いはする。数杯グラスをあけ、軽い酩酊を覚えていた左馬刻に乱数は冷水を浴びせるような質問を投げ付けた。
「さまときさまこわひ〜」
「……なんで俺様があのクソダボに逢わなきゃなんねぇんだよ」
それまでの酔いは一気に覚めてしまった。さすがに机を蹴飛ばしはしなかったが、その代わりにじろりと乱数を睨む。しかし、当の乱数はけろっとした顔で全く動じる様子はなく、左馬刻は大きく舌打った。
「あのね、こないだ池袋に行った時一郎を見かけたんだけど、ピアスしてたから」
だから、また左馬刻がピアス送ったのかと思って。
一瞬、左馬刻はぴたりと動きを止めた。一郎がピアスをしている。たったそれだけなのに――見たわけでもないのに。その事実一つで酷く落ち着かない気分になる。
「……俺様は何もしてねぇ」
「ねぇ、左馬刻。今お前どんな顔してるかわかってる?」
低い声。乱数の地声だ。顔を上げればひたりと見つめる双眸と目があう。
「あのさ、左馬刻。これは二人の問題だからボクは口出ししちゃいけないってことも、そもそもだめにしたのもボクだからボクが言うことも、間違ってるっていうのはわかってる」
それがわかってるなら言うなと話を打ち切ってしまいたかった。
これ以上乱数の話を聞いてはいけないと頭の中で警鐘が鳴っている。腹の奥底に隠してたものがぐつりと煮える音がする。ずっと抱え込んで溜め込んだ結果、どろどろになってしまったそれが溢れ出してしまう――けれど、左馬刻は何も言わなかった。言えなかった。いつもは軽い調子の乱数の声が、酷く切実な響きをもって左馬刻へ届いたからだ。
「でも、ボク言ったよね。『左馬刻は一郎がいなくても生きていけるけど』」
どこか泣き出しそうな声に、数年前に言われた言葉が蘇る。
「『――一郎がいなきゃだめになるよ、きっと』」
もう左馬刻はだめになっているのだと乱数は言いたいのだろう。
そして、その言葉を否定することは左馬刻にはできなかった。グラスを握る手に力がこもる。
「言葉が武器になる時代かもしれないけどさ、結局いつだって口に出さなきゃ意味ないじゃん」
乱数はゆっくりと過去を思い出すように、言葉を紡いだ。
口に出さなきゃ意味がない――それはわかっていた。結局、左馬刻と一郎が別れたのは言葉が足りなかったからだ。言葉がなくとも伝わると驕っていた。
一郎なら自分のことをわかっていてくれるのだと、左馬刻は勝手に思っていた。実際はお互い抱えた理想が決定的に違っていて、そこから歪みが始まった。けれど、それでも一言何かを言っていれば良かったと思うことはある。そうすれば、もしかしたら、一郎はまだここに――自分の元にいたのではないかと。
「あの頃だって、左馬刻は一郎の言うことはちゃんと聞いてたでしょ」
ふわりと乱数は微笑んだ。
「正直になりなよ――じゃなきゃ、いつかきっと後悔するよ」
乱数と別れてから、適当に時間を潰させていた舎弟にメッセージを一つ送って携帯をポケットに戻す。その代わりに取り出したのは煙草とライターだ。
歩きながら咥えた煙草に火をつける。肺の中を煙で満たして吐き出せば、一緒に胸の奥に溜まっているどろりとしたものも一緒に出ていくかと思ったが、そううまくはいかないようだ。
酷く気分が悪かった。理由はわかっている。さっき乱数に言われた言葉だ。
『いつかきっと後悔するよ』
一度目の別離は、未だ左馬刻の心に穴を空けたままだった。
可愛くて、大切だった。優しくしてやりたかったし、甘えさせてやりたかった。だからこそ、たった一つの裏切りが、左馬刻は許せなかった――その裏切りだって結局は偽りだったのだけれども。
そうと知らなかった左馬刻は一郎のことを酷く憎んだ。憎んで嫌って殺したいと思っていた。
けれど、もしも一郎が自ら戻ってきたならば、左馬刻は許していただろう。どんな理由がそこにあったとして、何を考えていたとして――左馬刻の元にいることを一郎が選んだのであれば、きっと。
仮定形なのは、そうならなかったからだ。一郎は左馬刻を選ぶことなく、弟たちとチームを組んで左馬刻の前に敵として現れた。
だからあの時は、一郎の弟たちが憎らしかった。一郎に対する憎しみとはまた違う種類の殺意を彼らに向けていた。一郎に庇護されるだけの存在。敵同士だから仕方ないとはいえ、一郎が仲間として選んだのが自分ではなく、弟たちであることが許せなかった。だからこそ、余計に弟に対する暴言や罵声を浴びせた自覚はある。
どうして隣にいないのか――どうして他の者がそこにいるのか。
どうして傍にいるのが自分ではないのか――そこは、俺の場所なのに。
――どうして、一郎は俺を選ばない。
そう気付いた時に、左馬刻の中に生まれたのは強い憎悪と怒りだった。同時に、左馬刻は絶望した。左馬刻にとって一郎は唯一であるのに、彼女にとっての自分はそうではないということに。
だからなかったことにしようと思った。己の感情に蓋をして見ないふりをした。
互いの間にある誤解が解けて、憎しみや怒りが消えてからも、一郎に連絡を取らなかった理由の一つがそれだった。
一郎がいなくたって左馬刻の世界は回る。そもそも一緒にいた時間のほうが短いのだ。時折ぽかりと空いた穴を意識してしまうけれど、それだっていつか慣れてしまうだろう――それは、左馬刻自身の希望的観測でしかなかったのだけれども。
自身のその考えが甘かったのだと気付かされたのは、あの日――夜の横浜で男と一緒に歩いている一郎を見た時だ。
結局あれは依頼人であり、仕事の途中だったのだと知って一応落ち着きはしたけれど、多分そうでなかったら直様相手の男は海の底にいただろう――まあ色々と調べた結果、結局同じ結末に辿り着いてしまったが、それは男の自業自得というものだ。
なぜ、と聞かれても、思い出してしまったからとしか言いようがない。
あの日一郎の横に左馬刻以外の『誰か』を認めた瞬間、左馬刻が感じたのは強い怒りだった。それは、一郎の隣にいる見知らぬ相手に――そして、自分以外の横にいる一郎に対しての。
だから、左馬刻はあの日一郎の隣にいた『誰か』を調べさせた。他の者の手を借りたのはそれだけだ。そのあとは全て左馬刻自身でやると決めていた。
どうしてと泣き叫ぶ男の前、真っ赤な返り血を浴びながら左馬刻は過去に乱数が言ったことを思い出していた。
『左馬刻は一郎がいなくても生きていけるけど』
『一郎がいなきゃだめになるよ、きっと』
――ああ、そうだな、乱数。そのとおりだ。俺は一郎がいなくても生きていける。だけど、どうしたって俺には一郎が必要だ。あの、声が、瞳が。身体が心が――山田一郎を形成する全てが欲しい。
だめになるというのなら、きっと離れた時からそうだった。一郎が俺から離れたあの日から。俺が一郎を切り捨てたあの日から。ずっと。俺は、一郎が。
あの時の別離は必然だったと左馬刻は思っている。何度繰り返そうが、あの状況下においてあれ以外の結末はないだろうとも。
だって、左馬刻にはもう守るべき相手――妹である合歓がいたし、一郎にも弟たちがいた。
左馬刻は合歓以上に大切なものを作るわけにはいかなかった。合歓を守らなければならない。それがずっと左馬刻を生かしてきた理由だったから。そしてそれは一郎にとっても同じだ。
敵として――そして味方として戦ってきたから知っている。年も性別も違うが、左馬刻と一郎の力量は殆ど同等だ。それ故に、左馬刻にとって一郎は特別だったし、一郎だってそう思っていただろう。隣通し――もしくは背中を合わせて――戦う時の全能感は、一郎以外の他の誰とも味わうことができないと、左馬刻は今でも思っている。
だからこそ、互いの大切なものが天秤に掛けられた時、躊躇いなど許されなかった。一郎に負ければ合歓が――その状況下で余裕なんてあるはずがない。一郎の力を誰よりも知っている左馬刻だからこそ、迷っている暇なんてなかった。自分の一番大切なものを守るため――そのために一郎を切り捨てることになろうとも左馬刻は立ち止まることなどできなかったのだ。
――そもそも抱いている理想が違ったのだから、あの時でなくてもいつか対立はしていたと思ってはいるけれど。
それでも、左馬刻は一郎のことが好きだった。初めて一郎が写る写真を見た時から惹かれていた。あの強く希少な色違いを欲しいと思った。自分のものにしたいと思った。けれど、それを認めてはいけないと思った。
だから、左馬刻は自分の感情を隠した。見ないふりをした。そうして、頼れる先輩の仮面をつけた。自分の内側にいれている自覚はあったが、それでもはっきりと線を引いた。
そうしないと、酷いことをしてしまうと知っていたからだ。何もかもを奪ってしまうとわかっていたからだ。左馬刻は、己の中にぐるぐると腹の底に渦巻いている感情が、いつか一郎を傷付けてしまうと確信していた。
けれど同時に、優しくしてやりたかった。誰も信じられないような目をしている一郎に、お前は一人じゃないと教えてやりたかった。欲しがることが下手で、甘えることが苦手で、愛されることをこわがっていた子供が、少しでも楽になれたらと、そんなことを思っていた。
奪ってしまいたいという激情と優しくしてやりたいという気持ちは、現状を鑑みれば両立するはずのないものだった。だからこそ、左馬刻は一つだけを選んだのだけれども。
だから、せめて隣にいられたら良いと思っていた。他の誰を好きでも、他の何を捨てても、一郎がそこにいて笑っているのなら良いと思い込もうとしていた――結局思い込もうとしただけで、他の誰かを好きでも、なんてそんな殊勝な気持ちは最初からなかったのだろうと今ならわかる。
きっと最初から決めていた。合歓もいつか自分の手を離れる時が来る。自分が守らなくても良くなる時が来る――それは決してあの時ではなかったが。
その時、自分は唯一の相手として、一郎を選ぶだろう。そして、その時には一郎も自分を選ぶに違いない。優しくして、甘やかしていれば絆されてくれるだろうという下心だってあった。
だって、その時の左馬刻は、一郎を一番に選ぶことができずとも、一郎から離れるつもりなんて全くなかったのだから。べたべたに甘やかして、優しくして、全ての選択肢を奪って、それから左馬刻がたった一人の特別として一郎を選んだ時。その時に、一郎自身に左馬刻を『選ばせる』つもりだった。
(だけど、一郎は俺から離れていった)
切り捨てたのは自分の癖に。それでも、一郎が悪いと思っていなければ――憎んでいなければ駄目になりそうだった。
だから、左馬刻は一郎を憎んだ――許せない理由なんて一つだけで十分だった。
左馬刻になら何をされてもいい、と笑った過去を思い出す。
何をされてもいい、と一郎がいったのだ。一郎は決してそういうことを考えていたわけではないだろうが、子供の純粋さに付け込んで、あの時無理矢理自分のものにしておけば良かったと、左馬刻は何度したかわからない後悔を心の中で呟く。
そうすれば、一郎は左馬刻を選んだだろうか。一度は離れてもまた自分の元へ返ってきただろうか。しかし、それらは全て仮定の話。過ぎ去った過去の話でしかないのだ。
時計の針は元には戻らない。過去を変えることもできない。変えられるのは、今この瞬間だけ。
欲しいものは奪えば良い――心が手に入らないなら、身体だけでも。
短くなってしまった煙草を地面に落として踏み躙る。
――一郎がいなければ、左馬刻はだめになる。
乱数の言ったことは正しい。だから、左馬刻は多分あの日――一郎を自ら切り捨てた時に、『だめになった』のだ。
[newpage]
interval
今日は珍しく何も依頼が入っていなかったから、一郎は最近手付かずだった事務作業に没頭していた。黙々と水分補給も忘れて作業をしていれば、流石に喉が乾く。机の上の麦茶を飲もうとして、コップの中身が空っぽになっていることに気が付いた。どのくらい経過していたのかと時間を確認すれば、時計の針は十一時三十分を指している。どうやら思った以上に集中していたらしい。水分補給して続けるにしても、どうせ中途半端になるだろう。それならいっそ昼食を食べてから再開しようと、一郎は軽く伸びをして立ち上がった。
その瞬間、タイミング良く机の上においていた携帯のうち、一郎個人のもののほうが小さく震えた。特にアラームを設定していた覚えはないから、着信かメッセージの受信だろう。止まらない振動に、どうやら電話のようだと震え続ける携帯を手にとった。そして、画面表示を見ることなく一郎は慣れた様子で通話ボタンを押した。
仕事柄、電話はよくあることだ。大体業務用のほうに来ることが多いが、個人の携帯に掛かってこないわけではない。
「はい、山田です」
『今暇か?』
けれど、携帯の向こうから聞こえてきた音声に、一郎は思わず携帯を落としてしまいそうになった。そういえば、画面にそんな名前が表示されていたような気がする――なんて、本当に今更でしかない事実に気が付いた。応える声は無意識のうちに固くなる。
「……どちら様ですか」
『恩知らずの山田さんは自分の先輩の声も忘れたんでちゅか〜』
耳元で響く低音。笑いを含んだ声音は、どこか楽しげで優しくて――酷く懐かしい。
くつくつと喉で笑う向こう側の男を、一郎は知っている。知っているけれど、わからなかった。今の一郎と男は、こうやって通話するような仲では決してない。
昔は確かにそうだった。けれど、今は違う。変わってしまった。そのはずだ――それなのに、その年月さえ感じさせない気軽さで、受話器の向こう側にいる男は笑っていた。
「……何の用だ?」
『今池袋にいるから、ちょっと面貸せや』
「は?」
『飯奢ってやるから。西口公園の入り口な』
一方的に用件ばかりを投げつけられて、話についていけない一郎に、気にすることなく好き勝手に自分の言い分を口にした男は、これ以上話すことは何もないとばかりに一方的に通話を切った。不通音の鳴る携帯を握りしめたまま、一郎はさてこれからどうしようかを考える。
行く必要はないだろう。だって一郎は何も答えなかった。暇か? と尋ねた相手に一郎は何も言わなかった。言う隙など与えてもらえなかったとも言うが。
暇か暇ではないかと問われたら、暇ではないと言うだろう。ただ、予定をあけろと言われたらあけられる程度の作業ではあった。だから、行く必要はないが、行けないことはない――けれど、相手はそれを知らないのだ。まるで一郎が暇であるかのように決めつけて、勝手に約束を取り付けて――でも、そういう人だったと思い出す。そしてあの男がそういう時は、決まって一郎が本当に来ることができる時だけだった。
「……何考えてんだ、アイツ」
いくら考えても答えが出るはずがなかった。答えを持つ相手はここにはいない。いきなり電話をしてきた理由。わざわざ一郎を呼び出す理由。一郎には何もわからなかった。
一つだけ、深い溜息をつく。そして、一郎は鍵と財布に手を伸ばした。
行かないための理由はある。それでも行くことにしたのは、一郎が行かなければ、向こうがこちらに押しかけてくると思ったからだ。どこまでも王様気質のあの男なら、そうするだろうということを一郎は知っていた。
それでもせめてもの抵抗とばかりに、なるべくゆっくりと指定された場所へ向かう。その間に、待ちきれずにどこかに行ってしまえばいい。本当にいるかどうかすらわからないのに――そう思いながらも、あの男はそこにいると一郎は確信していた。
そして辿り着いた池袋西口公園。見慣れたそこにその姿をみとめて、一郎は小さく息をついた。
「よぉ、久しぶりだな。一郎くんよ」
壁が壊れて一年間。
一切逢うこともなかった因縁の相手との再会は、驚くぐらいあっさりとしていた。
***
結局その日は電話の通り昼飯へと連れて行かれて、適当な時間で解放された。そしてその突然の電話は一度きりでは終わることはなかった。それからも左馬刻に電話で呼び出され、昼食を共にするだけの不思議な関係が続いている。
基本的には左馬刻が池袋に来るが、時には一郎が横浜へ呼び出されることもあった。時間はいつも昼飯時だ。夜のお誘いがこない理由をはっきり左馬刻から聞いたことはなかったが、あの頃、左馬刻が夜の街へ女と一緒に消えていくのを見たことは一度や二度ではなかったから、そういうことなのだろうなと一郎は一人で納得している。
連絡が来るのはいつも突然で、事前の約束というものはしたことがない。だから、自分の仕事との都合がつかなければ断っても良いのに、驚くことに左馬刻が声を掛けてくるのは、毎回一郎のあいている日ばかりだった。一度や二度ならばこういうこともあるかと気にもしていなかったけれど、回数が増えてくればこうもタイミングが合うものかと逆に不思議に思えてくる。暇なのか? と聞いたら、暇じゃねぇよとあっさり答えを返された。まぁ、そうだろうな、と思ったのは、一郎も左馬刻が忙しいということを聞いたことがあったからだ。偶然じゃねぇの、と一言で片付けられたが、まあそういうこともあるだろうと頷いた。どんな理由よりも、一郎にとっては偶然の一言で片付けたほうがよっぽど納得できたからだ。
忙しい左馬刻が、一郎の予定が空いている日に、わざわざ食事をするために連絡をしてくる意味を、一郎はあまり深く考えたくはなかった――そこに理由を求めるぐらいなら、その理由を知ってしまうぐらいなら。偶然で良いと、そう思ったのだ。
「なぁ、左馬刻」
「左馬刻『さん』だろ、なんだ一郎」
このやり取りも定番と化してしまって、もはや茶番と化している。左馬刻は毎回こう言うが、本当に敬称を付けて呼んだ時には妙な顔をしていたから、最早一郎も気にしていない。時々、敢えて付けてやる時もあるけれど。その度に、不機嫌な顔になるぐらいなら、『左馬刻さん』なんて言わせなければ良いと思う。
「毎回奢ってもらうのやっぱ悪いし、俺だって自分の分は自分で出せるぐらいは稼いでるんだけど」
大皿にどんとのった唐揚げを箸で掴んで一郎は言った。
萬屋は世間の情勢に左右されやすい不安定な仕事ではあるが、それでも食うに困らない程度は稼いでいるし、何かあった時の貯蓄も十分にある。これから迎えるであろう三郎の卒業、進学といったライフステージに対してもきちんと備えているから、少しぐらいの贅沢は決してできないことではなかった。
そして、左馬刻が一郎を連れて行くのは殆どが大衆向けの飲食店だったから、贅沢といってもたかが知れている。逆にいつもの礼として、一郎が左馬刻の分まで金を出しても良い。
そう思って申し出たのだが、これは今回に限ったことでもない。更に言えば左馬刻が一郎の言葉に頷いたことは一度もないし、寧ろその話題を出せば機嫌が悪くなる。今だってそうだ。一郎がその話題を出した瞬間、左馬刻は不機嫌そうに目を細め、その眉間にはあからさまに深い溝が刻まれた。
「おこちゃまは黙って奢られてればいいんだよ、クソガキ」
「もうガキじゃねぇし。とっくに成人してるわ」
二年前に成人を迎えたとはいえ、一郎は煙草と酒のどちらもまだ解禁してはいなかった。
煙草については嗜むつもりはなかったし、酒に関しては昔乱数が飲んでいたものを間違えて飲んでしまったことがあったけれどそれだけだ。合法的に摂取できる二十歳を過ぎてからも、一切口にしていない。勿論飲んでいないだけで、誘われたことは何度もある。一郎が成人を迎えてから、一緒に酒を飲もうかという相手はいくらでもいた――ただ、全部断ってはいたけれど。
「お前もう成人してたんか」
「なんだ左馬刻知らなかったのか。もう俺も二十二だぜ、パイセン」
左馬刻が箸を止める。そうか、と目を細める様を見ていれば、知らなかったわけではないのだろう。寧ろあんなに小さかった子がこんなに大きくなってというような生暖かな空気すら感じてむず痒さを覚える。六つしか年は変わらないのに、あの頃から左馬刻は一郎のことを酷く子供だと思っている節があった。そしてそれは今もそうだ。
今度誕生日が来れば、一郎はあの頃の左馬刻と同じ年になる。あの時の一郎には、二十三歳の左馬刻がとても大人に見えていた。一郎にとっての数少ない信じられる大人の内の一人だったのだ――そして月日が経った今、自分もその年に並ぼうとしているが、一郎はあの頃の左馬刻のような大人になれている気は全くしなかった。
「じゃあ今度は酒でも飲むか」
何でもないことのように左馬刻が言う。だから一郎も何でもないことのように返事をした。
「あ、でも俺まだ酒飲んだことないんだよな」
「あ?」
「え?」
何かおかしいことを言っただろうか。左馬刻の反応に、一郎はぱちりと目を瞬かせた。左馬刻のぽかんとしている顔なんてレアだな、と思いながら一郎は横の餃子に手をのばす。ラー油の浮いたタレにつけて食べれば思っていたよりも辛くて思わずコップを手にとった。
「一回も?」
「そー」
「……ほーん」
左馬刻が何を考えているのか、その表情からは読み取れなかった。けれど、二十二歳まで一郎が酒を飲んでいない理由に気付いているわけではないのだろう。そう思うと、なんとなくむしゃくしゃした。自分はあの頃の約束を覚えていたのに、言い出した当の本人が忘れているなんて。
「優しい先輩が酒の飲み方教えてくれるって言ったから、俺ずっと待ってるんだけど」
「……は、」
嫌味な言い方になったのは許してほしい。せめてもの意趣返しだ。さあどうだ。思い出したか? なんてちらりとそちらを見れば、呆けた顔の左馬刻がそこにはいた。
「なんだよ左馬刻」
「いや一郎、え?」
「どうせ忘れてたんだろ」
声に感情がのってしまう。気にしてないふりをしようと思っていたのに。冗談で済ませてしまうはずだったのに――多分どこかで期待してたのだ。覚えていてくれるのではないかと。
一郎が二十歳になった時、あの頃約束した左馬刻は傍にはいなかった。それを恨んだことはない。果たされなかった約束も、その時のことを考えれば仕方がない。それから二年が経った今も同じだ。
あの頃とは何もかもが違う。一郎があの頃憧れていた先輩はもういないし、左馬刻が可愛がっていた後輩ももういない。だから、あの約束がなかったことにされていても、忘れられていたとしても、一郎には何も言う権利はない――ただ、一郎が未練がましくそれを覚えていただけ。いつまでも期待してしまっていただけ。
「忘れてねぇよ」
……忘れるはず、ねぇだろうが。
だから、びっくりした。びっくりしすぎて箸で掴んでいた八宝菜のうずらが落ちた。けれどそんなことすら気にならないような視線がまっすぐ一郎を見つめている。
「……あ、そ」
向けられた視線を受け止めきれなかった一郎は、うずらを拾うふりをしてそっと下を向いた。視線を逸らしたほうが負け。そんなことが頭を過ぎったが、勝負じゃないからノーカンだ、と心の中で言い訳をしながら拾った卵を口の中に押し込んだ。
「一郎」
呼ばれた名前に一郎は反射的に頭を上げた。見つめる目は酷く穏やかで、それがまた落ち着かなかい気持ちになる。やっぱり負けているのかもしれない。これだから未だに子供扱いされるのだろう。
「飲むか」
「え? 今から?」
確かに依頼は入っていないが、昼から飲むのはちょっと遠慮したい。そんな一郎の心の声が聞こえたのか、それとも表情に書いてあったのか。まるであの頃のような顔で左馬刻は笑って手を伸ばした。ぐしゃりと、一郎の髪が掻き乱される――昔、まだ一郎の横に左馬刻がいた頃よくしてくれていたように。
「ばぁか。それでも良いけど明日お前仕事だっつってたろ。ちゃんと優しい先輩が酒の飲み方教えた上で美味い酒飲ませてやっから、ちゃんと時間がとれる時にな」
「……うん」
一郎は頷く。それ以上何も言えそうもなかった。
「都合の良い日、あとから教えろ。俺様はお前に合わせるから」
「全部左馬刻の奢り?」
「当然だろうが。成人も祝ってやれなかったしな」
あの日の約束が果たされる。それだけで、あの頃の自分の想いが報われるような気持ちになる。けれどそれを口に出す気はなかった。何も言わない一郎に、左馬刻は口角を上げて笑う。
「まぁ、覚悟しとけよ、ただじゃ帰さねぇからな」
「……おう」
左馬刻の赤い瞳がぎらりと光る。心底楽しそうな色をしているそれに、一郎は微かに身体を震わせながらも小さく頷いた。
[newpage]
三章 the only choice
酒を飲ませてやる、とは言ったけれど、どこがという場所の指定はしていない。
一郎を拾うために池袋の自宅まで迎えに来た左馬刻に、一郎はまずこれからどこに行くのかを尋ねた。持って当然の疑問だったかもしれない。時間はまだ昼を過ぎた頃だった。流石に今から飲みに行くとは考えなかっただろう。横浜と左馬刻が一言で返した答えに、一郎は多分いつものように昼飯を横浜のどこかで食べると思ったに違いない。じゃあ俺中華食べてぇな、なんて軽やかに笑う。
「中華なぁ、テメェ何食べたいんだ?」
「八宝菜とか餃子とか」
「それ前も食ってなかったか?」
確か、酒を飲む約束をした日も中華だったことを思い出す。メニューの端から端まで頼んでやったのだけれども、流石の一郎も全部は食べ切れなくて残していた。一郎なら全部食えるだろうと頼んだのだが、それを言えば、いつの話してんだよアンタなんて笑われた。それでも一般人と比べると良く食べていたほうだと思う。余った分は持って帰らせたのだが、詰められたそれらはその日の山田家の夕食になったのだと、後から聞かされた。
「いや横浜あんま行かねぇし、折角だからさ」
一郎を食事に誘うようになってそれなりに時間が経ったが、横浜に連れて来たのは数えるほどしかない。確かにその時に食べさせたのは中華ではなかったなと思い出す。
へぇ、と打った相槌は、存外低く響いた。
一郎はあまり行かないと言ったが、萬屋稼業で時折横浜に来ていることを左馬刻は知っていた。もうディビジョンという括りはないが、それでも横浜は左馬刻のシマだ。そこには目があり耳があり口がある。一郎と左馬刻は、敵対しているわけではないが、かつては殺し合い寸前とまで言われていた間柄だ。それ故に、他の誰よりも一郎の情報は左馬刻の元へと集まってくる。
けれど正直にそう言わないのは、あくまで仕事だからということか――それとも左馬刻には言う必要はないということか。どちらにしても、左馬刻にとっては面白くない話だった。
「で、どこ連れてってくれんの?」
「折角のとこ悪ぃが、店には行かねぇ」
「じゃあどこに」
行くんだ、という一郎の言葉を、俺様の家だ、と遮って告げる。その瞬間のきょとんとした一郎の顔がおかしくて左馬刻は小さく笑った。
「左馬刻の家?」
「しこたま酒準備してやったんだから感謝しやがれ」
酒を飲ませると約束をした――だから酒を準備してやった。それで一郎は納得したのか、おう、と嬉しそうに笑う。そんなに呑気でいいのかねぇ、なんて他人事のように思う。
本当は酒を飲むだけならばどこでも良かったのだけれども、左馬刻も一郎も二人共それなりに有名だ。外で飲んでいれば見知らぬ相手に――それがどういう形であろうが――絡まれる可能性があるということを、左馬刻はこれまでの経験からよく知っていた。
そして――これが一番の理由だ――、一郎は昔から良からぬ輩を寄せ付ける才能があった。
周囲に対する警戒はあっても、優しくされれば猫のように懐いてしまう。そして、誰彼問わずほいほい笑顔を見せるものだから、昔はそれにも苛立っていたことを思い出す。どんな格好をしていようが、誘蛾灯のように男女問わずして人を引き寄せる、自分に無頓着で無防備な子供。月日を重ね、かつてイケブクロディビジョンの頂点に立った彼女はそれなりに人を躱す術を覚えたようだが、左馬刻からしてみればまだ甘い。多分声をかける有象無象の抱くものに、好意と悪意以外のものがあるということをきちんと理解していないのだ。
明らかにそういう目で見られていることに一郎は気付かない――だからこそ、今ここで左馬刻が抱いている感情にすら気付いていないのだろう。
それで良い、と左馬刻は思う――今更一郎がそのことに気付こうが気付くまいが、何も変わらないのだから。
「お邪魔します」
「おー、あがれや」
左馬刻が一郎を連れてきたのは、正真正銘左馬刻の自宅だった。驚いているように見えた一郎に、どうした? と聞けば、本当だとは思わなかったとぽつりと呟いた。
「んな嘘つくかよ」
「……自宅なんて教えて良いのかよ」
むっとした表情の一郎が左馬刻を睨みつける。けれどその奥にある色はゆらりと揺れていた。それに気付かないふりをしてまるで昔のように頭を撫でる。その手を、一郎も拒むことはない。
「良いんだよ」
横浜には左馬刻のセーフハウスがいくつかある。多分、一郎はそのどれかに連れてこられると思っていたに違いない。だから、明らかに自宅であるここに連れてこられて戸惑った、というところだろうか。食事の回数を重ねたことによって距離が近付いてきてはいるが、それでもまだ互いの間にできた溝は完全に埋まってはいない。今の関係を言葉にするならなんて言えば良いのか。それは左馬刻にすらわからない。一郎だってきっとわかってはいないだろう。上辺だけ繕ってどうにか繋いでいるのが現状だ。
「まず昼飯だな。作ってやっから、適当に暇潰しとけ」
「……なんか手伝うことねぇの?」
何もしないでいることが落ち着かないのだろう。そういえば前からそうだったな、なんて昔を思い出して懐かしく思う。そしてこういう時の一郎は大概引かない。だから、適当に役割を振ってしまったほうがいっそ楽だということを思い出したが、昼食は軽くすませるつもりだったので、特にさせることもない。
「ねぇな。座ってろ」
だから正直にそう告げれば、一郎は所在なさげな顔をしてすとんとリビングのソファに腰を下ろした。きょと、とまるで全然知らない場所に連れてこさせられた野良猫のように周囲を見回している。そういえば、昔同じチームだった頃、家に初めて連れて来た時も同じような顔をしていたことを思い出して、左馬刻は思わず小さく笑った。
「……何笑ってんだよ」
どうやら一郎を見て笑っているのがバレたらしい。じろりとこちらを睨む一郎になんでもねぇよと答える。
そうかよ、と少しだけ拗ねたように呟く一郎は、左馬刻の言うことを完全に信用してはいないのだろう。からかわれていると思っているのかもしれない。それすらまるで昔のようで、酷く不思議な気分になる――一度した決意が揺らいでしまいそうになる。
「いつまでも拗ねてんなよ、一郎」
ほら昼飯だ。
そう言って一郎の前に皿を置く。メニューはサンドイッチとスープという簡素なものだが、あとのことを考えればそこまで食べさせてやれないから仕方がない。一郎も別に文句はないようで、丁寧に、いただきます、と手を合わせていた。
互いの近況を話す――とはいっても、最後に顔を合わせた時からそんなに時間が経っていないから、大きな変化はなく、小さな日常を共有するだけの他愛ない話ばかりだ。
一郎の話は――いつものように――二人の弟についてのものが多く、このブラコンが、と言えばむっとした顔で、シスコンに言われたくない、と返された。
そこから、ブラコンシスコンと言い争いをした時のことを思い出して、互いに笑う。
こんな関係も悪くはない――それも確かに左馬刻の本心だった。昔も散々思ってはいたことだが、やはり一郎は可愛い。だからこそ、甘やかして、優しくしてやりたくなる。無邪気にサンドイッチを食べる一郎を見つめながら、それだけでいられたら良かったのにな、と左馬刻は何度考えたかわからないことを改めて思った。
昼食を食べればそれなりに緊張も解けたのか。それとも、左馬刻のように昔に戻ったような気持ちになっているのか。一郎は後片付けのあと、楽にしてて良いと告げた左馬刻の言葉に従い、ソファに座って携帯を弄っていた。どうやらゲームをしているらしい。
それを眺めつつ、左馬刻は次の準備に取り掛かった。大量の酒と、それからツマミ。夕食代わりのものもまとめて拵える。事前に準備していたものもあるから、然程時間は掛からないだろう。夜のためにあとで仕上げをするだけにしておいたものはカウンターの端に寄せ、今必要な分だけをテーブルに並べる。ちらちらと準備をしている様を横目で見ていたらしい一郎がぼそっと呟いた。
「……凄い量」
「どうせ食い切るだろ」
「だから左馬刻、俺もう成長期とっくに終わってるんだけど」
わかってはいるが、今の一郎もそれなりに食べることを左馬刻は知っている。世間一般と比較すれば一郎は十分よく食べるほうだし、残ったとしても問題ない。
「あっちは夜用。今はこんだけだ。準備できたし今から飲むぞ」
「飲むってまだ昼……」
こっちに来い、と手招いた左馬刻に、一郎は困惑した表情を浮かべた。無理もない。さっき昼食を食べてからそんなに時間は経っていないのだ。いくら今日は休みだと言っても、こんな昼から酒を飲むなんていかがなものかと真面目な一郎は考えているのだろう。
しかし、いつ飲もうが酒は酒だ。飲める時に飲めば良い。どうせ外に出る用事もないのだし、そもそも今日左馬刻が一郎をここに連れて来たのは酒を飲むだめだ。
「ばぁか、沢山飲むんだから、時間はいくらあっても良いだろ」
「……どんだけ準備したんだよ」
「さぁな」
値段は二の次にして、うまいと聞いたものや、一郎に飲ませてやりたいと思ったものを買っていったらそれなりの数になってしまった。昼から飲んだとしても一日では確実に飲みきることのない量だ。そもそも左馬刻は、最初から一日で終わらせるつもりなんてなかった。怪訝そうな表情を浮かべる一郎に、にいと口端を釣り上げて見せる。
「さて、一郎ちゃんはどこまでついてこれっかな」
「えぇ……はじめてだからやさしくしてくださいね」
一郎の言葉に、当たり前だろうが、と左馬刻は笑う。
すぐ潰してしまっては面白くない。左馬刻は、一郎に飲ませるために大量の酒を買ってきたのだから。
ゆっくりとソファから立ち上がった一郎は、左馬刻に言われるがままカウンターテーブルの前に座った。カウンターに肘をついて、左馬刻は一郎に尋ねる。
「いちろ、お前甘口と辛口どっちが良い?」
「あま、から……? カレーは中辛……」
「あー、俺様が悪かった。じゃあ取り敢えず甘いほうからな」
甘口――となるとワインか。カクテル系も良いが、それはどこでもそれなりのものが飲めるだろう。だけどワインはだめだ。最初に飲んだものが不味いと、それ以降はワインが飲めなくなる。折角飲ませるのだから、うまいいものを飲ませてやりたかったし、飲むものの幅も広げてやりたかった。
「ビールとかじゃないんだ?」
「そういうのはあとからいくらでも飲めんだろ」
ほら、とグラスを手渡す。色々なものを飲ませるつもりだから、試飲のように少しだけ。それから好きな酒を選べば良い。
最初に選んだのは赤ワイン――月次ではあるけれど、やはり一郎には赤が似合う。
「い、いただきます……」
少し緊張しながら一郎がグラスを傾ければ、赤い液体が喉へと滑り落ちていく。こくん、と喉が動いて、赤い舌がちらりと覗いた。
「あっま……」
「どうだ?」
「いやおいしい……けど……」
これ本当に酒? なんてグラスを眺めて一郎はぱちぱちと目を瞬かせる。正真正銘酒だしなんならアルコール度数もそれなりだ。甘いからと飲んでればすぐに酔っ払ってしまうだろう。
「うまいっていってもワインだからな、ぱかっと一本あければ足に来るから気をつけろよ」
「これ、ワインなんだ」
はー、ともうなくなってしまったグラスの中身を見つめる一郎は少し物足りなさそうだが、普通に飲んでいれば酔っ払うだろうし、そもそもこれだけで終わらせるつもりはない。一つの酒を少しずつ。それで好みと限界を知れば良い。
「次はこっち」
「ん、これもあまい……これなに?」
躊躇うことなく次のグラスを受け取った一郎は、またもやすっと一口で飲み干した。
「林檎のワイン」
「へぇ……そんなのあるのか」
こっちもおいしかった、と一郎は空になったグラスをテーブルに置いた。
「これ俺にも買えたりする?」
「そこまで高くはねぇからなぁ、まぁ飲みたくなったらいつでも言え」
一郎がわざわざ聞くぐらいだ。よっぽどおいしかったのだろう。しかし、確かに金額としてはそんなに高くないのだが、どこでもあるような代物でもない。言外に、買ってやるからまた飲みに来い、と仄めかせば、わかっているのかいないのか。うん、と一郎は素直に頷いた。
「ほら」
「……んぅ」
次のグラスを傾けた瞬間、あからさまに顔を顰めた一郎にそっと準備していた水を手渡す。口直しをするようにごくごくと水を飲む一郎に、おこちゃまか、と内心で呟いた。
「あんま重いのは向いてねぇのか。白ならいけっか?」
くく、と笑いながら次の酒を渡す。今度渡したのは白ワイン。赤よりはよっぽど飲みやすいはずだ。
「あ、こっちは飲みやすい……」
「おーおー飲め飲め、でもあんま飲みすぎっと結構クるぞ」
空いた一郎のグラスに、気に入っていたようだった林檎のワインを入れる。それでも飲んで待ってろ、と言ってワインボトルを一本掴み、左馬刻はクッキングヒーターの前に立った。
さっき一郎が飲めないといった赤のフルボディ。自分用のグラスに一杯だけ注いだ後、残りのワインは少しだけ残して全部鍋に入れてしまう。その中に蜂蜜とシナモン、クローブ、あと適当に切った林檎とレモンを放り込んだ。中火で鍋をぐるぐる混ぜながら、手元のグラスを軽く煽る。それなりのものを選んだのだからまずいというわけではない――となるとやはり、一郎の口にはあわなかったのだろう。やっぱりガキだな、なんて思いながらカウンターの向こうにいる一郎を見れば、ちびちびとワインを飲みながら、机の上のチョコやチーズを摘んでいるようだった。
沸騰寸前で火を止めたあと、中のものを取り除いてワインだけをマグカップに移す。ふわりと香るシナモンの匂いに気付いたらしく、一郎の視線がこちらを向いた。
「何作ってんの?」
「ん、さっきお前が飲めねぇっていったやつ」
マグカップを手渡せば、まるで動物のようにくんくんと匂いを嗅いでいる。さっき飲めなかったもの、ということで警戒しているのだろうか。それとも熱さのほうのだろうか。ぺろ、と伸ばした赤い舌がマグカップの中のワインを撫でる。一郎は暫く、ちろちろとまるで子猫がミルクを飲むように表面を舐めていたが、大丈夫だと思ったのかそのまま口の中へと流し込んだ。
「おいしい……何これ」
「ホットワイン。飲めねぇやつはこうしてやればまぁ飲めるだろ」
今回は左馬刻がもし一郎がワインを飲めなかったら、と一応準備をしておいたが、シナモンと蜂蜜だけでも十分だ。それすらなければジャムでも良い。使用したワインの値段を思えば大層贅沢なホットワインだとも思ったが、一郎に飲ませるために買ったものだ。勿体ないと思うこともない。一郎の反応を見ていれば、それなりに満足はしてくれたようだった。あのワインも本望だろう。
「あとはサングリアとかにしても良いと思うぜ」
「サングリア?」
「また今度飲ませてやっから」
わかった、と一郎は無邪気に笑う。少しずつではあるけれど、やはりアルコールが回ってはいるのだろう。普段と比べるとどこかふわふわした印象になっている。端的に言うといつも以上に警戒心が薄いし無防備だ。ゆるゆると緩んでいく赤と緑に口角を上げるが、胸中の企みは表に出さずに左馬刻は次のグラスを渡した。
「あっこれもおいしい」
「これは赤ワインとコーラ。お前コーラ好きだから取り敢えず飲めねぇなってなったらコーラで割っとけ。大体それで飲めっから」
「はぁい」
さっき少しだけ残していた赤ワイン。それをコーラ多めで割ってやれば、案の定おいしいと言って飲んでいる。どんどんご機嫌になってきたらしい一郎は、ふふ、と笑いながら目の前のクリームチーズをクラッカーにつけて食べていた。
「じゃあ次」
「めっちゃ蜂蜜……!」
ほら、とグラスに注いだ蜂蜜色の液体に、一郎が溜息をついた。色も匂いも蜂蜜以外の何物でもない。ちろりと舐めた一郎は、はちみつ……ともう一度小さく呟く。
「蜂蜜酒だからな、俺様は甘すぎて飲めねぇけど、甘口派の一郎ちゃんは好きだろ?」
「おう……」
匂いからしてもう甘い。他の蜂蜜酒と比べても驚く程に蜂蜜だ。あんまりか? とは思ったが、結果を見ればこれで良かったのだろう。一郎は左馬刻が思っていた以上に、酒に関しては甘いほうが好きらしい。普段の食事ではそれなりに辛いものも平気なようだったから、辛口もそれなりに準備してはいたのだけれど、どうやら準備したもの全てをあける必要はなさそうだった。
それにしても、なんとなくわかってはいたが一郎はそれなりに酒に強い。少しずつとはいえ、それなりに飲んでいるはずなのに、未だ意識ははっきりしているし呂律もちゃんと回っている。まあこの程度で潰れて貰っても困るのだが。だって夜――時間としてはまだ昼だけれども――はまだ長いのだ。
「左馬刻水ちょうだい」
「おー」
グラスに注いだ水を一気に煽る。勢いが良すぎて口端から溢れたそれが顎を伝って胸元へと滑り落ちていった。
「溢れてんぞダボ」
「あ、わりぃ」
思い切りとは言わないがそれなりに濡れた胸元は、それでも目に毒だ。自身を落ち着けるために息を吐きながら、左馬刻は一郎へタオルを投げつけた。
「もう限界か? 一郎くんよぉ」
「んなわけないだろ、まだいける」
む、と口を尖らせた一郎は、左馬刻が投げたタオルを拾って濡れた場所を拭う。うぇ、びしょびしょだ……、なんて言いながら胸元を開く姿が気に食わなくて、左馬刻は思い切り舌打ちをした。
「うぇ……左馬刻いきなりなんだよ」
「なんでもねぇよ馬鹿。次は何飲みてぇ?」
「うん……? あー、ビール飲んでみたい」
甘いものばかりだったから、気分を変えてやろうと左馬刻が言えば一郎はやけに嬉しそうにそう言った。
「ビールねぇ」
「だって、左馬刻も乱数も美味しそうに飲んでたし」
だから飲んでみたかった、なんて頬を軽く染めながらいうものだから調子が狂う。溜息をつきながら、左馬刻は冷蔵庫の中から缶ビールを取り出した。
「グラス軽く傾けとけ」
「? おう」
斜めのグラスに滑らせるようにしてビールを注ぐ。下手に注げば泡だらけになってしまう。会社勤めでもしていればそれを知る機会もあるのだろうが、自営業一本でやってきて、今まで酒を飲んだことがない一郎ならそのことを知らなくても無理はないだろう。
なみなみと注がれたビールに、一郎は目をキラキラと輝かせる。一郎にとっては、これが一番『酒』らしい酒なのかもしれない。拘りがないから左馬刻も乱数も酒ならなんでも飲む。だがやはり飲み会の最初は『取り敢えず』でビールを頼んでいた。それをきっと一郎も覚えていたのだろう。
「いただきます」
にこにこと笑っていた顔は、けれど次の瞬間にきゅっと顰められた。今までの流れで一郎が酒に関しては甘口嗜好だとわかっていた左馬刻にとっては、半分ぐらいは予想通りの反応ではあったのだが。
「にが……」
「はは、ビールはだめか」
「なんか思ってたのと違ったからびっくりしてる」
もう半分は、炭酸だからまあいけるかもしれないとも思っていた。しかし、一郎はビール自体の味だけでなく、ずっとイメージしてきた皆がおいしそうに飲んでいる酒に夢を見ていたのかもしれない。だから、現実のそれが思っていた味と違って余計に衝撃を受けたのだろう。
うえうえ言いながら水を飲む一郎のグラスを奪い取って半分程飲み干す。残ったビールに白濁色の液体を入れて混ぜて渡してやった。
「じゃあこれは?」
「あ、飲みやす……何混ぜたんだ?」
「カルピス」
ビールが苦手なら他のものと混ぜてやれば良い。飲みやすいらしいと聞いていたそれを混ぜれば、一郎の舌にはあっていたようで、グラスを一気に空にしていた。
「カルピスとビールって混ぜていいのか?」
「別に何と何混ぜても良いんだよ。トマトジュースで割る時もあんぞ」
「え、トマトジュースとビール混ぜんの?」
「飲みすぎた時なんかは結構飲むぞ。名前が名前だから洒落で頼まれたりすっし」
洒落? と一郎は首を傾げる。
レッドアイ――トマトジュースとビールで作られるカクテルの名前を一郎に告げれば、なるほどな、と頷いた。単純過ぎる理由ではあるが、酒に飲まれれば人は総じて馬鹿になる。そうでなくてもからかい半分で頼まれることが多いのが、これとゴッドファーザーだ。
「左馬刻の目の色、赤いしな」
「テメェの目も片方赤いだろうが」
ちょっと待ってろよ、と告げて左馬刻は再度冷蔵庫を開けた。作るつもりはなかったが、折角だから飲ませてやろう、と料理に使うために買っていたトマトジュースを手にとった。
「……本当にトマトジュース入れるんだ」
「そういっただろ。卵入れることもあるけど、今回はナシだ」
塩やタバスコは好みで入れろとグラスを渡してやったが、一郎は何も入れずに恐る恐るそれを口に運んだ。
「トマトジュース嫌いなんか?」
「いや、たまに飲むけど……うん、まぁ、飲みやすい、かもしれない……」
一口飲んではグラスを眺める。飲みやすくはあるが、うまくはないとその目が言っていた。どうやらトマトジュース単体は嫌いじゃないようだから、やはりビールが一郎の口にはあわないということだ。
「無理してビール飲む必要はねぇけど、ジンジャーエールで割っても飲みやすくなるぞ」
酒は無理をして飲むものではない。仕事絡みならそうは言ってられないが、この年まで酒を飲まずにやってこれた一郎だ。口に合わないものを飲まずとも、何の問題ないだろう。
「というか、さっきも言ったけど酒は大抵ジンジャーエールかコーラで割れば間違いねぇよ」
「そうなのか?」
「おう」
へぇ、と感心している一郎に、さて次は何を飲ませてやろうかと考える。甘党なのはわかっているから、また甘めのを――と思ったが折角だから完全に路線の違うものを飲ませることにして、左馬刻は次のグラスを差し出した。
「うッえ……?」
飲んだ瞬間にグラスから口を離す。ぴ、と毛を逆立てた猫のようになった一郎がおかしくて、左馬刻ははは、と笑った。予想はしていたがそれ以上だ。嗜好からすると多分好まないだろうとは思っていた。それでも飲ませたのは、一郎の反応が見てみたかったからだ。
「やっぱり焼酎は無理か。乱数なんかこれをそのまま飲むぞ」
「はぁ……? まじで……?」
馬鹿にすんな、などと言うと思っていたが、それよりも驚きのほうが勝ったらしい。ええ、いやいや、なんて一人で呟いた一郎は最終的に、飲める気しねぇ、とグラスを左馬刻に突っ返した。
初心者向けに大分薄く作ったのだが、まあ匂いも味も独特だからなとそのグラスに口をつける。まだ麦や米ならマシだったのかもしれない。ただ、左馬刻が見たかったのは一郎のこういう顔だ。それを正直に告げてしまえば喧嘩になるだろうから言わないけれど。
「日本酒、は甘口ならいけっかな」
さすがに何度も遊ぶわけにはいかないと、次の酒を一郎へ渡す。よく冷えたそれは仄かに花の匂いがした。
「あ、うん、おいしい……」
さっきのこともあって、今度は透明だからと警戒を怠らなかった一郎は、ゆっくりと傾けたグラスに舌を伸ばした。ちら、と水面に触れた舌を一度引っ込めて口の中で味を確認し、そして一口、二口と飲んでからほわ、と顔を綻ばせた。
他にもあれこれ飲ませたが、やはり一郎は酒に強かった。確かに一つ一つは少量だが、飲ませた種類はそれなりの数だ。途中で様子が変わっていれば、少しペースを落としてやっても良かったのだけれど、まだ大分意識もしっかりしているし気持ち悪くなっている気配もない。ふわふわと楽しそうに笑っているから、悪い酔い方をするわけでもなさそうだった。
酒を飲んでいるうちに夜になったが、まだまだ左馬刻も一郎も限界には程遠かった。準備していた料理をテーブルに並べ、左馬刻自身もグラス片手に一郎の横に座る。一郎はどうやら林檎のワインが気に入ったようで、既に一本空にしていた。もうないのか、としょんぼりしていたのも束の間、さっきのんだ苺酒が飲みたいと左馬刻にねだる。
この飲み会の本来の趣旨は――大分遅れてはいるけれど――成人祝いなのだから、高いものをねだれば良いのにとは思ったが、一郎は値段なんて気にしていないだろうし――そもそも左馬刻も教えていない――本人が良いならそれで良いだろうとグラスに氷を入れて注いでやる。
赤い色の液体が氷をからんと鳴らした。
「なー左馬刻、今日はありがとな」
「……おー」
渡されたグラスを両手で握りながら一郎が呟いた。
「酒、たくさん飲ませてもらったし……飯も食べさせてもらったし」
左馬刻、絶対忘れてると思ってた、と一郎は小さく笑う。
「……ばぁか、忘れるわけないだろうが」
前も言っただろ、とぐしゃ、と僅かに伸びた髪に指を入れて掻き回す。それに、一郎はぱちりと瞬いて、さっきより嬉しそうに、うん、と頷いて笑った。
一郎は知らない。なぜ、左馬刻があの時あんなことを言い出したのかなんて。
成人したら酒を飲ませるなんていうのはただの口実だ。一郎の『初めて』の相手になりたかったという欲も、確かにある。
けれど、それ以上に、左馬刻は自身が変わらず一郎にとって特別な相手であることを示したかった――ただ、あの頃の左馬刻は、二年後も一郎が傍にいることを当然だと思っていたから、単なる保険でしかなかったのだけれども。
しかし、あの時の約束は果たされることはなかった。二十歳の一郎の傍に左馬刻はいなかった。左馬刻が当たり前に訪れると思っていた未来は、どこにもなかった。
けれど、一郎がその約束を忘れていなかったから。だから、左馬刻が掛けた保険は辛うじて意味を成していたといえるだろう。
『他のやつの前で飲むんじゃねぇぞ』――一郎は、そんな左馬刻の言葉を、二十歳を越えてからもずっと、大切に守っていたから。
だから、せめて筋は通さなければならないと思った。約束をした十八の一郎と約束を果たすはずだった二十の一郎と。そして今の――ずっと左馬刻との約束を信じていた一郎に。
「テメェこそ――」
左馬刻は一郎が『俺まだ酒飲んだことない』と言った時、酷く驚いた。
一郎が二十の時といえば、それこそまだ壁が存在していた頃――ディビジョンバトルでバチバチと鎬を削り合っていた頃だ。その時は和解はしていなかったにしろ、既に誤解は解けていたように思う。乱数から、一郎との因縁は中王区に作られたものだと左馬刻は聞いていた。一郎もまた同じようにあの時の真実を知ったのだと聞いている。けれどそれで関係が元に戻る程、簡単な話ではなかった。
そもそも、互いに抱く理想が決定的に違っていたのだから、早かれ遅かれ歪みは生じていただろう。単にそれが表面化したのがあの時だったというだけの話だ。その時には既に抱いていたはずの憎しみはなかったが、それでも異なる理想を抱く相手として左馬刻は一郎と戦った。多分、一郎も同じだろう。左馬刻と一郎は似ていると散々言われてきたし、左馬刻もそう思っていた。だからこそ、わかってしまうことがある。
一郎が忘れたと思ったのは、左馬刻自身が忘れようとしたからだ。忘れようとして、けれど忘れられなかった。けれど、一郎は忘れられなかったとしてもその約束をなかったことにすることができたはずだ。他の誰かと酒を飲む――それだけで良い。そうすれば一郎は忘れていたことにできる。忘れたから約束を果たせなかったのだと、そう言うことができるはずだった。
なのに、一郎はそうしなかった。だから、左馬刻は驚いた――一郎が忘れてなかったことではなく、未だにあの時の約束を大事に抱えて、守り続けていたことに驚いたのだ。
「……特別に目をかけてやってたかわいこちゃんがよ、いつか美味い酒奢ってくださいって可愛い顔してお願いすっから」
「なんだよかわいこちゃんって」
じろ、と上目遣いで睨みつけられても大して怖くはない――それどころか。
「テメェだよ」
はー、かわいい、とそのまま手を頭の上に滑らせてぐしゃぐしゃと掻き回す。抵抗することのない一郎に、まるで左馬刻はあの頃に戻ったようだと思ってしまった。何をしても許されていた。そしてそれを一郎自身も喜んでいた。左馬刻にされるならなんでもいい。そう臆面もなく左馬刻に告げる純真さが――そしてそれの根幹にある好意が左馬刻にとっては酷く心地よかった。
「っ、さまとき」
「んだよ、一郎」
力が入りすぎたか、と左馬刻は手のひらの下に視線を向ければ、そこにある一郎の頬は林檎のように赤く染まっていた。明らかに酒のせいではない変化に、左馬刻は深紅の瞳をそっと眇める。目の下のほくろに指先を滑らせれば、ぴくりとその身体が僅かに震えた。
「かわいいとか、左馬刻そういうキャラだったっけ……」
うろ、と彷徨う視線は左馬刻のほうを見てはいなかった。戸惑っているのは、左馬刻の態度が今までのそれと違い過ぎるからだろうか。しかし。
「お前は可愛いよ、一郎」
これは嘘偽りない本心だ。四年前から――初めて一郎の存在を知った日からずっと、左馬刻は一郎のことを可愛いと思っていた。傍にいた頃だって、ずっと口にしていた言葉に対して、ここまで今の一郎が照れるのは、やはり離別していた期間があったからだろうか。あの頃は、最初こそ照れていたものの、段々慣れてきていたというのに。
離れるべきではなかったとは思わない。あの頃の左馬刻には、合歓より大切なものは存在しなかった。そして、あの頃の左馬刻は気付いていなかったが、要素が一つでもあった以上、別れはきっと必然だった。
けれど、こうやって離れたことによる変化を目にしてしまえば、どうしたって考えてしまう。あの頃のままでいられれば――変わらない過去を嘆くなんて柄でもないが、それだけあの時のことが左馬刻にとって大きな傷になっているのだろう。
傷は治るが痕が残る。今の左馬刻はあの時の傷を、その残った痕をなくさないためにずっと引っ掻き続けているだけかもしれないけれど。
「……左馬刻、アンタめちゃくちゃ酔ってるだろ」
「テメェのほうが酔ってるだろうがダボ」
まああれだけ飲めば当然か、と水を注いだグラスを一郎の傍に寄せる。
それでも、まだほんのり頬が赤く染まった程度で、言動が少しずつ幼く甘えたになってきている以外にそれらしいところはない。
「うう……水じゃなくてお酒飲みたい」
「次何飲みたいんだ」
水の入ったグラスをぐい、と左馬刻のほうへ押しやった一郎は、自分のグラスの中身を一気に煽った。そして、えぇととカウンターに並んでいる酒に視線を移す。あれでもないこれでもないと言って選んだのは、蜂蜜酒だ。本当に大丈夫か、と思いながらも、これを飲むと言った一郎のグラスに注いでやる。左馬刻には甘すぎて飲めないから、一郎が全部飲んでくれたほうが良い。とろとろとグラスに注がれる酒を見ながら、一郎は酔ってない、と一言呟いた。
「は?」
「俺まだ、そんな酔ってないもん」
「酔っぱらいの常套句だぜ、それ」
呆れたように呟けば、一郎はきゃらきゃらと楽しそうに笑った。やっぱり酔ってるだろ、と心の中だけで呟く。どうやら一郎は酔ったら、感情の振り幅が大きくなるタイプらしい。
左馬刻と袂を分かつたあとの一郎は常に人の良さそうな笑みを貼り付けている。萬屋という職業病なのだろうが――左馬刻と一緒にいた頃の一郎は、寧ろ初対面の他人に対する警戒がとても強かったので――初めて見た時は世間なれしやがってと気に食わなかったことを思い出す。だからこそ、怒りであっても彼女の素の感情を曝け出せることに優越感を抱いていたのも事実ではあったが。
たった一人に向けられる特別――それが自分に向かっているのなら、その中身が何でも良いと左馬刻は思っていた。
「んん……まぁ、おいしいからいっか」
「良いのかよ」
そう言って、酒の合間にチョコレートを摘む。甘いものに甘いもの。左馬刻であれば――酒だけでも相当だが――胸焼けしそうだが、一郎は嬉しそうに口の中へ放り込んだ。
「おーおーご機嫌でちゅねぇ」
「だって、楽しいからさぁ」
んふふ、と笑って一郎は机に肘をつき、重ねた手に顎を乗せて左馬刻を見る。左馬刻は楽しくない? こてんと首を傾げる一郎におーおー楽しいぞ、と返せばそれだけでまた笑った。
「本当にさ、左馬刻とまたこういうふうに話せるなんて思ってなかったんだよ」
誰に聞かれるわけでもないのに、まるで子供が内緒話をするように、一郎は静かな声で言った。
「だから、うれしい」
「……おー」
俺もだ、とは言わなかった。左馬刻からの反応は求めていなかったのだろう。決して良い返事とは呼べないそれにも、気にすることなく一郎は笑っていた。
時間が経つに連れて、テーブルの上も段々片付いていく。最初はそんなに食べられないなんて言っていた一郎だったが、この分だと左馬刻の考えていた通り準備をしていた料理たちは綺麗になくなってしまうだろう。
一郎は尚も酒の入ったグラスを手にして、何が楽しいのかにこにこと笑っていた。
過去に自分が言った、『他の奴の前では飲むな』という言葉が守られていたことに、改めて安堵する。こんな無防備な姿が他人の目に触れるなんて、考えただけでも腹が立つ。
「お前本当、どこでも酒飲むなよ」
この状態になるまでは時間が掛かるだろうが、絶対ないなんて言い切れない。飲めるからこそペースが早くなることもあるし、下心がある相手なら最初から度数の高いものを飲ませることだって有り得るだろう。けれど、一郎はそんな左馬刻の胸中を知らずに、一郎はうん、と素直に頷いてみせる。
「また左馬刻が飲ませてくれるんだろ?」
煌めく色違いの赤と緑。とろりと溶けたそれは蠱惑的で、どこか幼さの見える表情にはいっそ不釣り合いだった。誘うようなその言葉に他意がないことはわかっている――わかっているのに、期待してしまうのは、男の性なのか。それとも惚れた弱みと言うべきか。どちらにしてもあまり変わらない。左馬刻はなるべく感情を表に出さないようにと、口元だけで笑みを作った。
「わかった」
「約束な」
嬉しそうにして一郎は右手の小指を左馬刻へ向ける。差し出されたそれに左馬刻が自分のものを絡めてやれば、一郎は嬉しそうに笑った。
「でもお酒っておいしいんだな」
ビールとかはおいしくなかったけど、なんて言いながら一郎はまた手元のグラスを持ち上げる。中を満たす、赤と白の二層からなるそれはアメリカン・レモネード。まだ未成年だった一郎が飲み干したあと寝てしまった酒だ。そういえば、と思い出し作ってやったのがさっきのこと。おいしいと飲みすすめる姿に、次はカクテルを中心に作ってやろうかなんて考える。
「寂雷さん見てたら、お酒はいいやって思ってたけど。やっぱり羨ましかったんだよな、多分」
「これからは、付き合ってやるから」
過去に戻ることはできない。だから、左馬刻は未来を口にする。
さっきも言っただろ、と続ければ一郎はきょとんとして、そうだな、と少しだけ寂しそうに笑う。
そして、ううん、と言い淀んだ末にぽろりと言葉を零した。
「……そういえばさ、左馬刻そろそろいい年だろ。結婚とかってしねぇの?」
唐突な話題に少々面食らった。
もうすぐ年齢が三十に届こうとしている今、そういう話はよく聞くが、大体無視している。流石に上から言われた時に同じ対応はできないが、それも忘れられない相手がいると――そう言えば大体相手は故人であると思ってくれる――告げれば、逆に気の毒そうな顔をして離れていくから色々な意味で楽だった。
だから、驚いたのはそれが一郎の口から出てきたからだ。
「しねぇよ。なんでだ?」
「いや、誰か特定の人がいるならこうやって逢うのやめたほうがいいのかなー、なんて、思って、ですね」
口調が徐々に重くなっていったのは、左馬刻が睨んだからだ。さっきまでは楽しそうにしていたくせに、すぐにこうやって離れていこうとする。もしも、そういう相手がいると言えば、一郎はさっと身を引くだろう。声を掛けても断られる。挙句の果てには逃げられる――それは想像に難くないことだった。
「そんな奴いねぇし、いたらこうやってテメェと一緒に酒飲んだり飯食ったりしねぇよ」
左馬刻が自分からその時間を割いてやりたい相手なんてそうはいない。その中で、一郎の言う『特定の相手』を選ぶなら、それは間違いなく目の前にいる一郎しかいなかった。
「お前は?」
「え?」
左馬刻の問に、一郎の目が丸くなる。
「お前は、そういう相手いねぇのかよ」
「そういう相手って、……好きな人ってこと?」
左馬刻の問いかけに、一郎は少しだけ考えて――それから、いる、と小さく、けれど確かに呟いた。
静かに心の中で落胆する。一郎の好きな相手。多分、どこかで期待していたのだ。
好きな人なんていない、という彼女の言葉を。もしかしたら、こんな穏やかな時間の中にずっといられるのではないかと。そうすれば、普通に愛を告げて、普通の幸せを手に入れられるのではないかと。
けれど、それは叶わない。一郎には好きな相手がいる。それだけで、腹の底がぐつりと煮えた。
ちらり、と一郎はこちらに視線を向ける。伺うようなそれをまっすぐ見返せば、諦めたように一郎は笑った。
「脈、はなさそうかなーっておもってる」
「そんなことは、ないんじゃねえか?」
そうだな、なんて心にもないことを口にすることはできなかった。
惚れた欲目もあるかもしれないが、一郎を好きにならない相手なんてそう多くはないだろう。太陽のように笑う姿は、光の下が似合っている。真面目で、お人好し――憎み合っていた頃、左馬刻は偽善者と呼んでいたけれど、一郎のそれが偽善などではないことは、左馬刻だってわかっていた。
しっかりしたところもあるが、親しい相手の前では油断したところも見せる。まるで子犬のように無邪気に懐いてくる様子は文句なしに可愛いと言えるだろう。
「……いや、多分、向こうは俺のこと、そういうふうには見てないから」
否定を口にできるほど、左馬刻は優しくない。そうか、と相槌を打てば、そうなんだよ、と小さい声で呟く。
正直聞きたくはない。けれど、この話を打ち切ってしまうこともできなかった。
「諦めたりは」
「……そうできたら、楽なんだけどな」
つまり、諦められないということだ。それだけ、一郎の好きな相手は魅力的なのだろう。一郎はそんな素振りを今まで微塵も見せては来なかったが、この様子ならその相手を好きになったのもここ最近のことではない。
「そんなに好きなのか」
「うん、すっげー好き。多分、ずっと好きだろうな」
だって忘れられねぇよ、なんて言って一郎が笑うから――だから左馬刻は何も言えなくなってしまった。
一郎はきっと告げるつもりはないのだろう。相手が幸せであれば良い。それだけで多分良いのだ。離れていても、その幸せを願い、己の愛を抱いて生きていける。一郎の中にあるのはそんな愛だ。
多分酒のせいで眠くなっているのだ。だからこうも口が軽くなっているのだろう。
「やっぱ、左馬刻さんには甘えちまう」
そういって、一郎は小さく笑った。
その声に、言葉に、勘違いしてしまいそうになる。アルコールで赤く染まった顔も、昔のような呼び方も、それに拍車をかけていた。
とろりととろけた赤と緑は、ただ左馬刻だけを見つめている。その眼差しがかつての少女のものと重なった。左馬刻になら何をされたって良い、と言った一郎。無防備で無自覚で、けれどそんなところも可愛いと思っていた。
だけど、一郎は別の相手が好きだという。
左馬刻になら運命を変えられて良いと言ったその口が、他の『誰か』への愛を語るのだ。
「……眠いんだろ。運んでやるから」
「ん、自分で、いける」
そう言いながらも、一郎はうつらうつらと船を漕いでいる。多分放っておけば寝るな、と左馬刻は一郎を放置して立ち上がった。これだけ酔っていて風呂に入るのは自殺行為だとわかっているから風呂を勧めることはしないが、顔だけでも拭いてやったほうが良いだろう。こういう時、女は面倒だなと左馬刻は思った。
戻ってきた時には案の定一郎は眠っていた。わかっていたことだったので、驚くこともない。最低限のことだけ終わらせて、左馬刻は眠っている一郎を見つめる。
乱数からピアスの話を聞いた時に、左馬刻は少しだけ期待していた。一郎が好きな相手は自分ではないか、という。けれど、一郎自身がそれを否定した。今何も嵌っていない穴もまた、その証明だ。
誰、と特定はできなかったが、特定できていたとしたら今すぐ殺してしまっていたかもしれない。いなくなったところで一郎の心はそいつのものかもしれないが、全てをとられるよりはマシだった。
「……なぁ、一郎」
すり、と寝ている一郎の頬に触れる。緩く反応した一郎は、少しだけ微笑んでいるように見えた。
でもこれがきっと最後になる。多分これからまた一郎は自分を恨むだろう――誤解も何もなく、今度こそ、本当の意味で一郎は左馬刻自身を憎むようになる。そうすれば、こんな穏やかな時間は戻ってこない。
本当は、一郎と二度と逢わなくても良いと左馬刻は思っていた。元々、一郎は光の下が似合う。そこで幸せに生きることができるなら――政権が変わって、逢わなかった一番の理由がそれだった。
一郎が好きな相手を想うように、左馬刻も同じことを考えた。
離れていても、相手が幸せなら――と。一郎は暗闇よりもずっと太陽の下が似合う。弟や仲間と楽しそうに笑う一郎を見た時に、左馬刻は本気でそう思ったのだ。
どうしたって自分は日陰に生きる人間で、一郎と同じところには立てやしない。それならば、と――けれどそれも思っただけで、本当は違ったことを、実際に思い知らされたのだけれども。
結局、左馬刻は一郎が他の誰かを選ぶことが許せないのだ。
だから、一郎が自分を選んでくれたなら、優しくしてやるつもりだった。けれどそうではなかったからもう良い。一郎の心が手に入らないなら、身体だけでも――けれど、それを伝えたところで、一郎が受け入れることはないだろう。未成年だからと酒も煙草もしないような女が、思いを寄せる相手がいるのに付き合ってもいない男に足を開くとは思えなかった。
一郎を抱き上げて寝室へ運ぶ。客室も一応用意していたが、やはり使うことはなかった。ベッドにおろして、その足首にかちんと金属の足枷を嵌める。じゃらりと鳴った鎖は長く、家の中を彷徨くのには困らないが、決して玄関までは届かない。
左馬刻は一郎をこの家から出すつもりはなかった。
一郎が好きだと思う男と逢う可能性を左馬刻は許せなかった。脈はないのだと一郎は言っていたが、そんなはずがないだろう。一郎自身が想いを告げるつもりがなくても、いつか相手が気付くこともある。世の中は何があるかわからない。絶対だと思っていた未来が訪れないことがあるように。
そうでなくても、弟たちという、帰るべき場所が一郎にはあるのだ。
弟たちにすら嫉妬する己の狭量さを笑う。自分とは違うチームを組んだ一郎。そのチームメイトである弟たち。一郎の隣を当然のように享受する様に腹が立った。そこは俺の場所なのに。
だから左馬刻は一郎を閉じ込める。そして、自分以外のものを見ずに生きていけば良い。
『いい加減腹を括れ。いつか痛い目見るぞ』
『正直になりなよ――じゃなきゃ、いつかきっと後悔するよ』
いつか言われた言葉が、脳内を回る。
痛い目はみた。後悔だってした。だからこそ、左馬刻はこんな方法しか選べなかった。
これが最善とは思わない。けれど、ずっとこのままでいられるはずがないことはわかっている。
他の誰かの元に行く一郎を見るくらいなら、どんな手段を使ってでも傍にいて欲しかった。
欲しいものは奪えば良い――心が手に入らないなら、身体だけでも。
「俺を、恨んでくれ」
恨んで憎んで、その結果、一郎に嫌われることになったとしても良いと思う。その中心に自分がいるのなら構わない――どうしたって、左馬刻は一郎を手放すことはできないのだから。
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