みひつのこい
不幸のあとには同等の幸福。
それは狛枝凪斗にとっての世界の定義であった。不幸は幸福を呼び込む為の布石である。その逆もまた然り。不運と幸運は当価値であり、その代償は身の周りのものによって贖われる。それは時に、大切にしていたものであり、親しい人たちであり、自分自身だった。幸運が訪れた時、ゴミクズのような自分には対価としての不幸が降りる。しかし、才能のある特別な人たちにはそんなことはきっとないのだろう。希望とは才能ある人だけが持ち得る恩寵であり、自分のようななんの才能もない、普通の人間が求めていいものではない。
だからだろうか。いつしか狛枝にとっての世界とは、なんの希望も持てないものとなっていた。自身のことは自身がよくわかっている。
たとえ、不運を期待したとしても意味が無い――だったら、最初から期待しない方がましだった。先に不運が訪れる場合はまだいい。その後には同等の幸運が舞い降りるのだから。しかし、先に幸運が訪れた場合は……?その後襲うであろうまだ見ぬ不幸に怯えなくてはならない。今までは寧ろ、不運が先に立つ幸運のほうが多かったが、これからもそうだとは限らない。狛枝が知っているのは、不運と幸運は等価値であること。そして、狛枝にとっての幸運とはなんらかの犠牲がなければ成り立たないものであるということだった。
――そして今、狛枝凪斗は相対する現実が自分にとっての不幸か幸運かどちらになるかを考えていた。
その夜、狛枝は自室のベッドの上でごろりと横になっていた。空腹を訴える自身の本能に、何か食べないといけないとは思う。けれども一旦横になると立ち上がり行動することがどうにも億劫で、結局かれこれ三十分ぐらい天井を見上げたままだった。狛枝には、夕食を作ってくれる人も、一緒に食べてくれる人も、食べないことを咎める人もいなかった。両親は幼い頃に飛行機事故で死んだ。引き取ってくれた人もいたけれど、様々な要因でいなくなってしまった。不幸を呼ぶ子、死神といわれた狛枝と関わることを嫌がった親戚の結論は、未成年の間は最低限必要な程度保護者としての名前は貸す。だけど、それ以外では関わらない、というものだった。
狛枝自身もそれでいいと思っていた。狛枝の所有する財産は未だ義務教育を受ける子供には不相応なほどのものであったし、何より自身を腫れ物のように扱う者たちをみているのが酷く苦痛であったからだ。
自身の体質――訪れる幸運とそれに付随する不運。それは、狛枝の身の回りを無差別に攻撃するものでもある。
故に、狛枝は人との接触を絶った。人付き合いは人並みに、それ以上は踏み込まれないようにと線を引いた。災厄にも似たそれを、狛枝は嫌っていた。憎んでさえいた。誰かが関わって、負の感情を向けられることが嫌だった。しかし、切り捨てることのできないそれは狛枝の一部である。だから、諦めた、手を伸ばすことを。触れることを。誰かを特別に思うことを。それでも、心の奥ではずっと望んでいたのだ。いつか、誰か。たった一人でいいから。一緒に――。
いい加減動こう、と思って起き上がろうとした瞬間。狛枝は誰かの気配を感じた。
「狛枝、クン……?」
聞こえた名前は自分のもの。自分以外誰もいないはずの空間で突如聞こえた声に、狛枝はその方向へと視線を向ける。横を向いた先にあるのは、鏡。その向こう側に映る見知らぬ少年の姿をみとめ、狛枝は無意識にそちらへと近づいていた。
その唐突過ぎる現実に頭は一瞬真っ白に染まる。そして、視界に入る情報を整理をするべく再び頭を動かしはじめた。
年頃は、どのくらいだろうか――同じくらいか、自分より下か。幼い顔立ちに似合わぬ黒いスーツ姿。それが彼の幼さを余計に強調しているように見える。目の前の彼は信じられないものをみるような目を狛枝のほうへ向けていた。
困惑、当惑。
無理もない。鏡にうつったのが自分自身の姿ではなく、違う誰か――この場合彼にとっては狛枝のことだ――であったのならば、それは当然のことだろう。事実、狛枝自身も驚いた。だって、普通は有り得ないだろう。鏡は目の前の現実をうつすものだ。それが、まるでモニターのように別の風景をうつしだしているなんて。そして、有り得ないことがもうひとつ――鏡の向こうで驚いたように目を瞠った少年は狛枝のことを知っているようだった。
「狛枝凪斗クン、だよね……?」
暫く後、少年は落ち着いた声でもう一度狛枝の名を呼んだ。その瞳には探るような色がみえる。それは、確認の言葉だった。少年の目に映る自身が、狛枝凪斗であるか否かの。
どうして、彼は自分の名を呼ぶのだろう。
その問いに狛枝が頷くと、少年は小さく微笑む。それは綺麗な、まるで花が咲くような笑みだった。
どうして、彼はあんなふうに笑うのだろう。
狛枝は、鏡の向こうの少年がよかった、と小さく呟いたのを聞く。その響きには心からの安堵が込められていた。
わからない――わからない。
鏡の向こうにうつる少年も、少年をうつす鏡のことも。
少年の笑顔の理由も、少年が自分を知っていることも。
――……だって、ボクは彼を知らない。
「……キミは、誰?」
思わず口をついてでたのは、あって当然の疑問だった。少年は少しだけ複雑そうな顔をして、しかし、すぐに笑顔を浮かべた。
「ごめんね、はじめまして。ボクは苗木誠です」
ぺこ、と軽く頭を下げて、少年――苗木誠は狛枝へと右手を差し出した。しかし、鏡があることに今更ながら気づいたのか、ちょっと罰が悪そうに照れながらひっこめる。それを見ながら狛枝は小動物みたいだ、と失礼なことを思った。
「はじめ、まして、」
釣られるように呟いた狛枝に苗木はうん、よろしくねと一つ頷いて笑った。
それが、狛枝凪斗の苗木誠との一度目の出逢いだった。
おやすみ、といってしばらくすると鏡に映る顔はよく知っている自分のものに変わっていた。男子学生の部屋にはちょっと不釣り合いに思える大きな姿見はさっきまでのことが嘘だったようにいつも通りの現実を映している。だけど、間違いなくさっきの時間は現実だった。彼は、また今度と言っていた。その言葉を信じて大事に抱え込むぐらい――たった一度の逢瀬ではあったけれど――自分の中で苗木誠という存在が大きくなっていることに狛枝は気づいていた。
目を閉じて、苗木との会話を、思い出す――苗木との会話でわかったこと。それは、狛枝と苗木の過ごす時間が違うものである、ということだ。
つまり、苗木が知っているのは未来の狛枝凪斗ということである。
信じられないかもしれないけれど、と彼は前に置いたが、既に鏡に見知らぬ誰かがうつるという非日常が目の前にある。日常とは思えない日常も、現実とは思えない現実も狛枝にとっては有り触れたものだったから、その言葉を受け入れるのは容易だった。
そして、これはただの勘だけれども、彼が嘘を吐くような人には思えなかったということもある。寧ろ、お人好しで人に騙されそうな彼がそんな荒唐無稽な話をわざわざ妙なトリックまで使って自分にしにきた、という仮定のほうが嘘臭い。どちらにしても、一つの不可思議な現象の前には、外に何が付随しようが関係ない。一つも二つも同じ事だろう。
苗木のいる世界――鏡の向こうの狛枝凪斗は苗木よりも一つ年上であるという。つまり、目の前にうつる苗木はどうやら自分よりもずっと年上ということだ。初対面の間柄でありそのような事情もあって、いつものように敬語で応対をしていた狛枝に苗木は困ったように笑ってこう言った。
「敬語の狛枝クンってなれないから、普通に喋って欲しいな…?」
苗木の世界の自分が苗木より年上だろうと、苗木がどんなに童顔だろうと、彼が二十歳過ぎた成人――詐欺だと思う、これは本当に――であり、今の狛枝からすると年上だということは揺るがない事実である。そんな相手にタメ口で話すなどと、中学生の狛枝にとって容易く「うん」と言って頷けることではなかった。
しかしながら、だ。
「ね、狛枝クン、ダメかな……?」
見た目は幼い苗木にちょっとだけ首を傾げて尋ねられると、狛枝は妙な罪悪感に苛まれた。ついでにときめいてしまったのは、何かの間違いだと自分に言い聞かせる。そのお願いに狛枝は「ダメ」ということができず、とりあえず敬語抜きの会話をすることになった――やっぱり時折敬語になってしまうのは不可抗力だろう。
わかったよ、と返した狛枝に苗木はありがとう、と笑う。その笑顔に再びときめいてしまった狛枝は、それを友人ができたからだと思い直した。
ともだち、ってこんなものだろうか。こんなものだっただろうか。
家族を失ってから、特別と呼べる存在を作らずにいた狛枝にとって、苗木という存在自体がどこか輝いて見えた。
未来の自分を知る相手。いつか出逢うだろう相手。
いつから一緒にいるかなんて知らない。わからない。けれども、彼が本当に未来の人物だと言うのなら、未来の自分と共にいるというのなら、きっと"今"の自分の災厄はそこには及ばない。それならば、手を伸ばしても大丈夫だろうか。傍にいてくれるだろうか。いつからか抱くことさえ諦めていたその感情が胸へと灯り、狛枝はただ目の前の存在をぼう、と見つめていた。
それから、鏡の向こうに苗木があらわれることが時々あった。その頻度は、三日連続というときもあれば一ヶ月に一回というときもあって、日によって様々である。もちろん、鏡の前に必ず苗木がいるわけではなかったし、狛枝もずっと鏡の前にいるわけではなかったから、法則性があるかどうかすらわからない逢瀬であった。鏡越しの逢瀬を重ねる間、狛枝は間違いなく苗木に親しみとまた違う何かを抱いていた。今までにあった誰とも違う感情。それは、鏡越しの出逢いという非日常からくるものかもしれないが、狛枝の知らないものだった。友人相手に抱くものかどうかすらわからない。そんな温かな感情が、狛枝を緩やかに変えていく。
話すことは様々だった。
未来のことは、あんまり話せないよ。と笑う苗木は、それでもぽつぽつと話をしてくれた。それは、他愛ない日常についてのことだったけれど、それでも狛枝は満足できた。何より、時折苗木の話の中にいる自分の名前がとても嬉しかった。
狛枝自身もいろいろと話をした。大体が自分でもつまらないと思うだろう話だったけれど、苗木は笑って聞いていてくれた。自分なんて、と自分自身を卑下する言葉を言えば苗木はそれは違うよ、と否定してくれた。
そんな包み込むような温かな優しさが心地よかった。手放したくないと、思っていた。
だから、忘れていた。気付きたくなかった――穏やかで平穏な幸せが長く続くはずがないということに。
それに気付かされたのは、家のポストに入っていた封筒を見た時だ。
《希望ヶ峰学園》からの、入学案内。
全ての高校生から、一人だけ選ばれる『超高校級の幸運』。七七期のそれに選ばれたという通知。これは、幸運か、不運か――苗木と離れることを思えば間違いなく不運だった。
別離の可能性を考えなかったわけじゃない。だって、法則性があるわけじゃないから、別れて次があるとは限らない。ずっとこのままでいられる。そういう漠然とした甘い思考を打ち崩されたような気がした。
それを否定するように、狛枝は最初に辞退を申し出た。自分のような、一般人が行くなど烏滸がましいと、本音九割、嘘一割で固めた手紙を返送した。
しかし、その暫く後再び通知が届いた。狛枝はやはり不運から逃げられないと知る。今度届いたそれは、抽選ではなく――狛枝の今までの経歴を見たのだろう――本物の『超高校級の幸運』として招き入れたいという正式な推薦状だった。狛枝の災厄とも呼べる幸運と不運は、《希望ヶ峰学園》によって『幸運』という名前の才能となった。
《希望ヶ峰学園》への入学はもう決定事項だ。きっと狛枝がどんな理由をつけたとしても、逃れ得ない運命。
――それは苗木との別離を意味していた。
入学することを決めた時から、狛枝はずっと苗木に伝えたいことがあった。聞きたいことがあった。何度も言おうとしたけれど、その度に「なに?狛枝クン」という苗木の笑顔を見ると言えなくなってしまう。そして、結局鏡から苗木の姿が消えた後に後悔することが既に習慣となっていた。
伝えたいこと。聞きたいこと。言わなければならないこと。言いたくなかったこと。狛枝の心につもった言葉たちは、喉に詰まり、そして、また次でいいやと諦める。今まではそれでよかったけれど、今日だけは出来なかった――もう次がないことを、狛枝は知っていたから。
ぐ、と拳に力を込める。頭の中にはぐるぐると幾つかの言葉が廻っていた。
家をでることが決まった時から、ずっとずっと、言わなければならなかったこと。言いたかったこと。言えなかったこと。聞きたかったこと。
「っ苗木クン、」
「狛枝クン……?」
意気込んだ狛枝の声が余りにも切羽詰まっていたように聞こえたのだろう、苗木は心配そうにその名前を呼んだ。見つめてくる大きな瞳にいつものように言葉を飲み込もうとして、やめる。
今日が最後だ。
言いたくない。でも言わなくちゃならない。
何度も何度も、言わなくちゃ、と思って、でも言えなかった言葉。
「っボク、明日から希望ヶ峰学園に行くんだ」
「……そっか、もう、そんな時期か」
やっと、絞り出した狛枝の言葉を聞いて、苗木は複雑そうに呟く。その表情はどこか、辛そうで、泣きそうだった。軽く俯いた苗木は、知っていたのだろう。一度だけ軽く頭をふった後、狛枝に向けて無理やりに笑顔を作った。
「寮があるから、そっちにいくんだよね。だから逢えなくなるってことでしょ?」
「苗木クン……」
「なんでわかったのかって?……エスパーですから」
ふふふ、と苗木は笑ったあと、冗談だよ、とそういった。そして、ふっと悲しげな色がその笑みに混ざる。
「そっか……当分、お別れだね」
寂しくなるね、と笑うその表情をみて、どうして間に鏡があるのだろうと狛枝は今更な事を考えた。狛枝と苗木の逢瀬に鏡の存在は大前提としてあるのだけれども。狛枝はその華奢な身体を抱きしめたいと、その時初めて思ったのだ。届かないことはわかっていたはずなのに、触れられないことがどうしようもなく辛かった。伸ばそうとした腕を押さえるために強く掌を握りこむ。
そして、伝えるべきことは、もう一つ残っていた――それは自身の能力についてのことだ。それによって希望ヶ峰学園への入学が決まったけれども、狛枝にとっては厄災しか呼ばないものだ。
幸運と不運の繰り返し――希望ヶ峰学園によって『超高校級の幸運』という才能へと名を変えたけれど、狛枝にとってはなくしたい、だけどなくせない自身の一部。このことを言ったら、苗木はどのように感じるのだろう――どのように言ってくれるのだろうか。
握りこんだ掌に力を込めて、口を開く。
「……苗木クンは未来のボクのことを知ってるんだよね」
「うん、知ってるよ。ボクより一つ上の先輩だ」
「じゃあ、ボクの【幸運】についても知ってる?」
告げたあと、苗木はそっと俯いた。そのため、狛枝には表情は読み取れない。
訪れるしばしの沈黙。
知っているか知らないか。知らないとしたら、この幸運と不幸の等価交換は未来の狛枝が持っていないものなのか。そして、知っているとしたら、苗木はそれをどう思うのか。
――それによって、苗木に不幸が振りかかるかもしれないと、わかっている、のか。
今までにないほど緊張していることに、狛枝は気付いている。緊張するのは、優しかった苗木の目が変わることが怖いからだ。どんなに憎んでいようが、厭っていようが狛枝の幸運はもう狛枝凪斗という人間を構成する重要な要素となっている。
それを、他の誰がそれを否定したとしても、苗木にだけは否定されたくなかった――認めて欲しかった。狛枝の【幸運】を知った上で、受け入れた上で狛枝凪斗という存在を肯定して欲しい。
痛いほどの懇願を込めた視線の先、苗木がゆっくりと顔をあげる。そこにあったのは、困惑の色だった。
それをどのように捉えていいのかわからなくて、狛枝は苗木の言葉を待つ。
「……うん、知ってるよ」
「じゃあ、」
知っている、という苗木の言葉にざわりと胸が騒ぐ。願いと諦めと二つの感情が鬩ぎ合う。答えを急く狛枝に、苗木は一つ頷く。そして、通り過ぎた過去の事柄を思い出すように口を開いた。
「ねえ、狛枝クン。ボクは割と長い間、未来のキミと一緒にいるんだ」
その言葉の意味がよく理解できずに、狛枝はただ苗木の次の言葉を待っていた。狛枝の揺れる瞳をみて、苗木は安心させるように小さく微笑む。
「……確かにキミの才能はキミから色々なものを奪ったかもしれない。それをキミは自分のせいだって気にしているかもしれない」
苗木は狛枝にまるで言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「等価交換って狛枝クンはいったよね。…確かに、キミの言っていた【幸運】はそういうふうに考えられるかもしれない」
それは、狛枝自身は苗木に告げたことのない話だった。つまり、それを苗木に言ったのは未来の――苗木の傍にいる――狛枝ということになる。それを話すほど、未来の自分と苗木の関係は近いものである。そう考えて、狛枝は無意識のうちに詰めていた息を吐き出した。
離れることは悲しい。寂しい。けれど、鏡の向こうにはまた彼と出逢える未来が待っている。そう思うことが、絶望的でしかない先を照らす一つの光となる。
苗木は狛枝の表情を見ながら、話を続ける。
「……でもね、不運のあとにくる幸運はそれと同じだけの、ううん、それより大きな幸運かもしれない。幸運がきても、不運はこないかもしれない。寧ろ同等の不運が来るとわかっているのなら、それを避ける事だってできるかもしれないよ」
かもしれない、ばっかりだけどね。と苗木は小さく笑ってみせる。
「考え方一つで変わるんじゃないかな。なんでも不運が、とか考えるんじゃなくって、前向きに、ありのまま、ね」
苗木の言った可能性は、あまりにも楽観的に過ぎるものだ。今までの反覆からすると、簡単には飲み込むことなどできないものだった。それでも、狛枝にとってそんな考え方は酷く新鮮で、希望に満ちていた。多分、それをいったのが苗木だから、ということもあるけれど。狛枝の中に苗木の言葉は容易に染みこんでくる――それはまるで、砂漠に水分を落とした時のように自然と。
狛枝は、不運が来ることにばかり怯えていた。幸運が訪れることで、全てを諦めていた。希望なんて持てずにいた。苗木の言葉はそんな狛枝の弱さを容易く撃ち砕く。
「不運がさ、幸運のためにあるって考えてもいいかもね」
「不運が?幸運の?」
「うん。例えばね、狛枝クンは今、希望ヶ峰学園へ行く事を嫌だって思ってる。そんなのいらない。不運だ、って顔してる」
わかるの?と尋ねた狛枝に、苗木はくすくすと笑う。
「うん、もう、本当行きたくないんだろうなって顔」
そこまで顔に出ていたか、と自分でぺたぺたと顔に触れるけれど分からない。この部屋の鏡は今目の前にあるこの大きな姿見だけ。だから、そこに苗木の姿を映し出している今は鏡としての役割を期待することは出来ない。笑う苗木に向かって、すこしだけむっとした顔を作ると、苗木はごめんね、とやっぱり笑ったまま謝罪した。
「でも、希望ヶ峰学園で、幸運を見つけたら。それが、どんな小さなものだったとしても、希望ヶ峰学園に入学して良かったってことになるんじゃないのかな。そうすれば、その不運も幸運の為に必要だったと考えられない、かな」
「……そう、だね」
希望ヶ峰学園に行くこと、というよりは、苗木に逢えなくなることが不運なのだから、そう簡単にはいかないだろうと思ったけれど、狛枝は一応肯いた。そんな考え方もあるのか。という小さな驚き。幸運は幸運、不運は不運。関連したものであったとしても、それが打ち消せるなんて考えたことすらなかった。そして、不運が幸運のためにある。という考えも。それならば、この不運に対するものは、苗木に逢えた幸運ではなくて苗木と再会する幸運だと思うことが出来るかもしれない。
伸ばした右手が鏡に触れた時、そっと、鏡面を滑る指先に向こう側にいる苗木の顔が少しだけ歪んだ。触れられない、ということを改めて思い知らされたようで、多分、狛枝も似たような顔をしているのだろう。
けれど、それは、交わる筈のなかった世界がこの鏡によって繋がっていることの証明でもある。触れられないという不運が前提としてあるけれど、今の逢瀬は間違いなく奇跡であり、幸運であると狛枝はそう考えている。そして、苗木が言うのはそういうことなのだと思う。触れられないという不運。だけれども、繋がっているという幸運。
それはどちらも、はじめからこの鏡が苗木の姿を映しださなければ、持たなかった感情。けれど、世界は交わり、狛枝は苗木と出逢った。
出逢えるという幸運を手にした今では、触れられないという不運よりも、出逢えなかったかもしれない、という仮定のほうが寧ろ不運になる。
考え方一つ。ただそれだけだけど、確かに前向きに考えることが出来れば、今までよりはずっと楽に生きられそうな、そんな気になる。
「狛枝クンは不運にばかり目を向けてるけど、そこにある幸運って本当に凄いものなんだよ」
もう一度、苗木は表情に笑みを浮かべた。
「辛いことがあったかもしれない。嫌なことがあったかもしれない」
痛ましいその顔に、苗木は今までにあった【不運】の中身を知っているんだろうと狛枝は思った。鏡面に触れる指先に力がぎゅうと篭る。白くなったそれを見ながら狛枝はその指を握りしめたいと思った。
「だけど、キミは生きてる」
震える声で、苗木は呟いた。その顔に笑顔はもうない。真剣に見据えるその表情が、いつもの苗木ではないように思えて自然と背筋が震える。
「キミは生きてる。どんな不運がキミを襲っても、キミは生きてるんだ。そして、キミが笑って暮らせる、そんな未来が間違いなくあるんだよ。……だから自分自身をそんなに憎まないで。諦めないで。……キミのせいじゃない。狛枝クンは狛枝クンが思うように、生きればいいんだ」
吐き出すように、綴られる言葉は懇願だった。自分自身を憎まないで、この先を諦めないで、と。
その先の未来をただ、見据えて生きろと苗木は口にする。
「希望を捨てちゃダメだよ、狛枝クン」
「きぼう……」
呆然としたように呟く狛枝に苗木は頷いてみせる。
「うん。希望だよ。……ねえ狛枝クン。ボクはね、どんなことがあったとしても、絶対にキミを嫌いになんてならないから」
ね、と真剣だった顔を緩ませて苗木は笑顔を無理矢理作った。あからさますぎるほどに作ったとわかるそれが、逆に痛々しい。苗木の言葉が本音だとわかるから、尚更だった。
揺れる瞳でぼうと見つめる狛枝に、苗木はそっと俯く。
「希望ヶ峰学園にいくって言ってたよね」
唐突に、出てきた言葉に狛枝の思考が戻される。苗木が何を言わんとするかがわからないまま、肯いた。それを受けて、苗木は言葉を続ける。
「多分狛枝クンは希望って、特別なものだと思ってる。特別な人、才能を持つ人だけが希望になるんだって」
そう言って、苗木は少しだけ息をついてから否定の言葉を放つ。
「それは違うよ」
真剣な表情は、すぐにはにかむような笑顔へ変わる。大きな瞳に映る色は変わらないままで。
「才能ある人だって、普通の人だよ。狛枝クンや、ボクなんかとあんまり変わらないんだ」
何かを思い浮かべているのだろうか、苗木はその口元に穏やかな笑みを浮かべていた。瞳の中に映るのは確かに目の前にいる狛枝自身だけれども、その時の苗木は多分他の誰かのことを考えていた。苗木の思考が他の誰かによって奪われていることが悔しかったが、狛枝にはそれに対して口を挟むことなど出来なかった。それほど、その時の苗木の笑みは神聖で犯せないものにみえた。例えるならば、触れられない何かに対する祈りのような。信仰にも似たそれに、狛枝は指を鏡面越しに苗木の指に合わせるようにして触れた。触れたい――その手に触れて、無理矢理にでもこちらを向かせたかった。それが叶わないと知っていたけれども。
「誰だって、普通の人で、誰だって、特別な存在なんだよ。……だから、誰だって誰かの【希望】になれるんだ」
希望は捨てちゃダメだよ、狛枝クン。
もう一度そう言って微笑む苗木に、狛枝は安堵した。苗木の瞳が間違いなく狛枝をみていることに。そして、同時に狛枝の頭にはいくつもの言葉が浮かんで、だけど消えていった。
苗木の言葉は、今までの狛枝の考えを根幹から揺るがすものだった。幸運は不運との対比によって、幸運となる。逆も然り。だから、不運は必ずしも不運ではない。幸運も、不運のためだけのものではない。自分自身の世界は今までそうだった。不運と幸運の繰り返しによって動かされてきた人生だった。自分自身を呪っていた。嫌っていた。自分がいなければいいと思った。好かれるはずがないと決めつけて全てを諦めてきた。手を伸ばしても触れられるはずがないと、望むことを放棄していた。
だけど、苗木は言う。狛枝の才能は決して厭われるものではないと。今のままの狛枝でいいのだと。諦めることなく、欲しい物を望んでいいのだと。
――普通の、平凡で平穏な生活を。
そしてその先にある、幸せに満ちた未来を。
「こまえだくん……」
呼ばれて、苗木のほうをみると困ったような顔で、こちらを見ていた。視線の先を指でなぞるとそこには涙が伝っていた。気づかなかったが泣いていたらしい。溢れる涙を手で拭っていると、苗木は笑顔を悲しみに歪める。
「ごめんね、偉そうなこといって」
泣いていた狛枝に罪悪感を感じたのか、眉をへなりと下げて苗木が呟いた。狛枝は慌てて鏡の枠を掴み、叫ぶ。
「それはちがうよ!」
ふっと顔を上げた苗木に狛枝はなおも続ける。
「苗木クンがそういってくれて、ボクは嬉しかった」
狛枝クン、という苗木の声に少しだけ笑みを浮かべる。
「……ボクは、幸せを幸せだと本当の意味で感じていなかったんだと思う。だからこそ、それによっておこる不幸にずっと怯えていたんだ。だけど」
こんなに必死になって誰かに伝えようとしたことなんてなかった。
親しくなったって、どうせ、皆いなくなる。
ずっとずっと、狛枝は諦めていた。どうせ、自分は不幸になるのだと。次はどんな不運が訪れるのかと。幸運を、諦めていた。不運と幸運の繰り返しの中で、ただ不運を呪っていた。来るだろう幸運を、ただの不運の対価であり純粋に幸運であると考えることができなくなっていた。
そんな狛枝の思考を変えたのは苗木だ。
「苗木クンと出逢ったことを幸せだと思った。話せて嬉しかった。それに対する不幸がキミに振りかかるんなら……全力で抗いたいって、思う」
本当は、多分、ずっとずっと、だれかにいってほしかった。
みとめてほしかった。ゆるしてほしかった。
狛枝自身が気付かなかった狛枝の気持ちを救ってくれた。
【希望】を抱かせてくれた。
――そして、いつしか苗木誠という存在が、狛枝の中で誰よりも輝く【希望】となっていた。
狛枝はもう一度苗木の指先の位置に鏡面に指を滑らせて、そっと笑う。繋がらないとわかっている。触れられないと理解している。ここにあるのは鏡一枚――しかし、それ以上に遠い距離が二人を隔てる壁なのだから。それでも、そうしたのは、少しでも近くにという願いのためだった。
「ねえ、苗木クン」
縋り付きたくなる。離れたくないと思う。しかし、これが今生の別れというわけではない。鏡がなくなるわけじゃない。家がなくなるわけじゃない。長期休みのとき、帰ってきた時に逢えるかもしれない。
何より、今どこかにいる自分の時間の"苗木誠"に出逢えるかもしれない。
可能性はいくらでも存在する。不運だとそこで思考停止することなく、幸運を求めればいい。少なくとも、未来――鏡の向こうの苗木の傍には、その時間の自分がいる。苗木と離れることが不運であると定義されるのなら、きっとそれに対する幸運なんて一つしかない。
だからそれまでは。
纏まった思考で、狛枝は笑う。それを受けて、泣きそうな表情を浮かべていた苗木も同じように笑みを返した。
「また逢おうね」
「うん、またね」
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