それは、仕事も終った午後六時過ぎ。残業がないのはいいけれど、いつもとすればかなり早い時間帯。俺は夕食をどうしようかと考えていた。
食べに行くか、買って帰るか。それとも折角はやく帰れるのだから最近使っていない台所を久々に活用するか。
突然狛枝から「今夜暇?」というメールが届いたのはそんな時だった。
絵文字も何もない、ただそれだけの簡素なメール。それはいつものことだが、狛枝からメールが来るのも久々だ。
大体用事は電話で済む。だらだらと会話をすることもないからそれで十分に事足りる。
不思議には思ったが、暇なことは暇だったのでとりあえず「暇だけど」と返信する。と、二分もしないうちに電話の着信音が鳴った。
「はい、──」
『一緒に飲まない?ボクが奢るからさ』
「狛枝?」
『じゃあ、こないだのとこにいるから』
いいたいことだけいったらハイ終了とばかりに切れた通話に、俺は小さく息をついた。とりあえず返事ぐらいしろと、あいつにいってやりたい。
それもなれたことだが。たまにいい加減にしろと怒鳴りたくもなるが、意味がないこともわかっていたから結局何も言わないままでここまできている。
大体、あいつが素直に言うことを聞くのは苗木の言葉ぐらいだろう。黒い烏も白くなるというぐらいの苗木への傾倒はいっそ褒め称えたい。
あいつなんかと恋人やってる苗木は凄いと思う。本気で。
…狛枝と苗木が同棲をはじめてどれくらいになるだろうか。とりあえずもう二年は過ぎたはずだ。
苗木への愛を隠そうともしないあいつは、俺や左右田なんかが飲みに誘っても大体拒否の返事を送ってくる。
その殆どの理由が「まことくんと一緒だからいかない」だ。五回に一回ぐらいは応じることもあるが、それも苗木の一言があってのことだと聞いて、俺たちは狛枝に対する苗木の影響力を改めて思い知った。
そんなあいつからの誘い。これがどういうことなのか──十中八九、苗木絡みのことだろうとは思うが。
数ヶ月前、苗木と喧嘩して、苗木のほうが家を出ていった時は狛枝はなぜか俺の家にきた。ただ、見たことないぐらい落ち込んだ様子で「まことくんがいないんだ」とやってきた狛枝は、大分はやいペースで持ってきた酒を空け、俺の家にあったものを飲みつくした。そして、限界まで達したのか何も言わずに机に突っ伏して寝てしまった。俺はその時はじめてあいつが潰れたところをみたのだ。
狛枝からの説明はなかったが、苗木からのメールで理由はわかっていた。メールには喧嘩の概要と、俺への謝罪、今霧切の家にいることが書いてあり、文の最後は狛枝のことをよろしく、という言葉で締めてあった。
次の日、起きると狛枝の姿はなかった。チカチカと光る受信ランプに気付いて携帯を開くとそこには苗木と狛枝のメールが一通ずつ。どちらも内容は一緒だった。仲直りした。という。
程度の差はあれど大体がこんな風だ──思い返してみると狛枝から俺の所に連絡が来る時は、大体苗木関連で悪い方に何かあった時だけだった。そして、大抵苗木のほうからそれについてのフォローがある。
それは狛枝のことをよく理解していると苗木を褒めればいいのか。それとも、そうでもしなければならないほど厄介な狛枝が悪いのか。多分両方だ。
まだ苗木からはなんの連絡はない。それをどう解釈すればいいのか、俺にはわからない。
考えていても、答えは出てこない。あまり待たせるとあとが煩いというのもあるけれど、俺は少しだけ足早に件の場所へと向かった。

大体左右田や九頭龍など、あの時のメンバーで飲む店は大概決まっている。誰の職場からもそれなりに近い飲み屋街の中にそういう店が幾つかあって、今回狛枝が指定した店もその中の一つだ。
そこは、それなりに安くてそれなりに旨い。何より個室になっているのが、一番の理由かもしれない。
「先に来てるそうなんですが」
それだけいうと、もう既に言ってあったのか、それとも顔を覚えられていたのかすぐに案内してくれた。
一番奥の突き当り。がらりと扉を開けるとそこには重苦しい空気を背負った男が一人いた。
「ああ日向クンはやかったんだねぇ」
「…今日はどうしたんだよ」
俺に気付いてへらりと狛枝は笑う。笑ってはいるが、これは割とやばいときの顔だ、と俺は今までの経験から判断する。
「まあ、座ってよ」
なんでもいいよね、といいながら狛枝は俺の前に置かれたコップを握った。酒を注いでくれるらしい。
「…さすがに生では飲まないぞ」
「あはは、まあ夜は長いしね」
以前の教訓から、コップに酒を次ぐ前に釘を刺す。酒は弱いわけではないけれど、始めから焼酎を生で飲むわけがない。
狛枝は笑いながらコップへお湯を注ぐ。はいどうぞ、と出されたコップに口をつけると釘を刺すのが遅かったのか、いつもより濃かった。
「…濃い」
「まあ、適当に薄めてよ。なにか食べる?」
悪びれもせずに狛枝ははい、とメニュー表をこちらへ向けた。確かに腹は減っている。だがしかし。
「…何があったんだ?どうせ苗木のことだろ。また喧嘩でもしたのか」
「…」
俺が空気も読まずに、本題を切り出すと狛枝はぴたりと口を噤む。そして、俯いて暫く経った頃、一気に手にしていたコップを煽った。
かたん、と音をたててコップを机の上に置く。据わった目をした狛枝はまるで独り言をいうように口を開いた。
「…結婚することになったんだけど」
「…」
相手については愚問だ。たった一人しか候補はいない。それ以外の可能性なんて有り得ない。
やっとか、という言葉はのみこんだ。正直俺はもうちょっとはやいものかと思っていた。
だけど、狛枝は多分苗木が傍にいてくれるというそれだけで満足していたのだろう。結婚したい、とかそういうことを狛枝がいったことはなかったように思える。
寧ろ──
「…そうか、おめでとう」
考えたことを吐き出す前に押し込んだ。とりあえず祝いの言葉を。内実がどうであれ、愛しあう二人が結ばれるというのは一般的にはめでたいことのはずだ。
俺の言葉に、狛枝は小さくありがとう、と呟く。
「こないだ、まことくんにプロポーズされたんだ」
ボクを幸せにしてくれるんだって。まことくんは本当かっこいいよねぇ。
薄く笑って、狛枝は呟く。その口元には笑みが浮かんでいて、先程までの重苦しい空気が嘘のようだ。
ぽつ、ぽつ、と狛枝は苗木からのプロポーズについて語る。
苗木のほうからさせるのはどうかと思うが、多分そうでもしないとこの二人は結婚しなかっただろう。狛枝は多分自分からは言い出さないだろうから。
ちびちびと酒を飲みながら、俺は狛枝の話を聞いていた。まことくんはね、まことくんがね。話題はどうであれ、内容はいつもの惚気だ。
ああそうだな、よかったな。そんな相槌を打ちながら俺はじゃあ何が問題なんだと考えていた。
プロポーズ自体は構わないのか。そうか、あいつが自分から告げるのを躊躇っていたのは、苗木を幸せにする自信がなかったからだったな、と思い出す。
つまるところ、苗木が幸せにするといってくれて、自分の幸せは狛枝とともにいること、とまで言い切られた以上は拒む理由はないということか。
純愛は純愛だろうが、大層面倒くさいやつだと思う。普通の女だったら愛想つかされても文句はいえないだろう。まあ、普通の女なんかに狛枝が目を向けることはないと思うけれど。
そんなことを考えていると、途中で嬉しそうに話していた狛枝の顔が曇り、口が止まった。ここからが多分本題だな、そう思いながら目で先を促す。
はぁ、と小さく溜息をついて、狛枝はのろのろとまた口を開いた。
「…こどもが、できたんだって」
「っ」
「日向クン、やめてよ」
「いや、悪かった。…って、子供?!」
あまりの衝撃に酒を吹いてしまった。その飛沫がかかったのか、狛枝が機嫌の悪そうな顔で俺を睨みつけている。
謝罪を告げたあと、俺は一番衝撃を受けた単語を口にした。
いや、確かに二人は恋人同士だ。やることやってるだろうし、そうしたら子供ができるのも有り得ないことじゃない。
だが、まだ結婚とかそういう話も出ていなかった二人に子供。しかもそれが狛枝と苗木ということに俺は多分衝撃を受けたのだ。
喜ぶべきことだろう。新しい命の誕生。しかし、その片手を担う男の表情を見てしまった俺は祝いの言葉を告げることが出来なかった。
「…お前は、」
俯いたその表情には、先程の幸せそうな色はない。そこから考えられることは、幾つかある。けれど、狛枝の性格や彼の持つ才能まで鑑みれば、答えはたった一つしか思い当たらない。
「…まことくんのね、お腹がどんどん大きくなっていくんだ。まだそんな目立たないけどもともと細いから多分日向クンもみればわかると思うよ」
ぽつ、と狛枝が再び口を開く。重苦しい口調。それが、狛枝の心の内を表しているように見えて俺は口を閉ざす。
「別にね、子供が嫌いなわけじゃないんだよ。ただ、あんまり自分から近づくことはなかったからなれてないけど」
それは何も子供に限った話じゃない。狛枝は限定された者以外に自分から近づくことはない。
それ以外の人間は、嫌いとか好きというそういう次元にすらいない。狭い狭い世界で狛枝は生きている。
その中心にいるのは言うまでもなく苗木だ。きっとそれは狛枝が狛枝である限り揺らぐことはない。
「まことくんはね、嬉しそうだ。そんなまことくんを見てるのは幸せだ」
少しだけ、笑顔を見せる。けれど次の瞬間、その顔がぐしゃりと歪んだ。
「でもね、ダメなんだ」
「ダメって、どういうことだよ」
まるで何かを吐き出すように、狛枝は大きく息をついた。そして、暫くの後、絞りだすように口を開いた。
「…今日もね、病院だったんだよ」
未来機関の上の人に言われたんだって。無理はしないで、子供のために頑張りなさいって。
「でもボクにはそれは違うことを言ってるように聞こえる」
狛枝のいう違うことが想像できる自分が嫌だった。しかし、俺が知っている未来機関の方針や俺達──そして何より苗木に対する態度から考えるとその考えは多分間違っていない。
つまるところ、未来機関の奴等が大切なのは『超高校級』という枕は消え──世界の『希望』として持ち上げられている苗木誠の自然受胎による子供。それを、未来機関は望んでいる。
そして、苗木とその子供が新たな未来機関の持つ希望の旗となるのだろう。
言葉にすると酷い扱いだ。
「悪阻がね、酷いんだ。まことくん…」
「…」
「まことくんを苦しめるモノ、ってしか考えられない自分がいやだ」
そこまで言って、狛枝は泣き出しそうな顔で呟いた。
「…愛せる自信がないんだ」


「まことくんのこどもならいいんだ。それがまことくんの遺伝子を受け継いで、まことくんの胎内から産まれる」
それなら多分大丈夫なんじゃないかな。なんて、狛枝はぼそぼそと呟く。
その視点はただ机の上をうろうろと彷徨っていた。
「でも、そこにはボクの遺伝子も混ざってる」
限りない怨嗟の篭った声に、俺は何もいえなかった。
苗木といることで変わったとおもっていたけれど結局狛枝は狛枝のままだ。
「まことくんは希望なんだ…ボクがどんなに穢してもその輝きは曇らない」
他の誰かがいったなら、笑い飛ばすだろうその言葉を俺は笑えない。
狛枝の中の苗木はもはや神にも等しい存在だ。神様なんて信じないといってる狛枝だから、それこそ唯一の存在が苗木なんだろう。
苗木の言葉は絶対で、苗木が望むから狛枝は生きてきた。それは多分間違ってない。
苗木がもしも、いなくなったら。そんなこと想像したくないけれど、こんな狛枝を見ているとそんな最悪の可能性もふと頭を過る。
「ボクはまことくんがいればよかった。まことくんだけでよかったんだ」
それは多分狛枝の本音だ。たった一人、苗木だけ。それだけで狛枝の世界は廻る。
けれど、苗木はそれを望んでいない。
「でも苗木はお前に家族をあげたいんだろ」
言わずにはいられなかった。
俺の言葉に狛枝は顔を上げてぼんやりとした視線をこちらへ向ける。
感情の読めない色の瞳。
俺の言葉を狛枝がどう捉えるか。知る必要なんかない。だけど俺は言いたかった。
「お前と、苗木と、苗木の腹の中の子供で、家族になりたいって苗木はいってるんだろ」
「まことくんはやさしいからね」
その言葉を聞いた俺は思わず溜息をついた。
苗木は多分狛枝が思うより、狛枝のことが好きだ。どうしてそれをこの男はわからないのだろうか。
やさしいから、じゃない。苗木は狛枝のことが好きだから家族になりたいんだろう。好きな男の子供を産みたいと思うんだろう。
俺だってわかるのに、どうしてこいつはわかろうとしないんだろうか。
段々苛立ってきた。苗木もこんな風に思ったりするんだろうか。
俺はゆっくりと二三度首をふる。多分これ以上俺が言葉を費やしたって無駄だ。
「受け入れろ」
限りなく端的に。俺はそういったけれど、狛枝は多分理解しようとしないだろう。
きっとぐだぐだとこれからも悩むに違いない。
だけどそれを救うのは俺じゃない。それこそ、苗木やこれから生まれてくる子供の役目だ。
「生まれたら、祝ってやる。苗木が幸せにしてくれるんだからそのまま受け入れればいいだろ」
もう、コレ以上の愚痴は聞かないぞ、と言外に釘を刺して俺はいつの間にか空になっていたコップに酒を注いだ。
黙ってしまった狛枝のコップにも注ぐ。敢えて薄めなかったのはさっきの仕返しだ。
これぐらいの意趣返し許されるだろう、と心の中で呟く。
(…ほんっとう、めんどくさいやつ)
それでも縁が切れないのが腐れ縁というやつか。大きな溜息一つついて俺は自分のコップを煽った。


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