下腹部の鈍痛。血が流れる感触。纏わりつく血臭。
一月おきにやってくる不快さは、何度経験しても慣れることはない。
よりにもよってこんな時に、と思ったが、周囲の優しさに甘えて苗木は自室に篭っていた。
体を小さく丸めて、息をつく。経血の量が多いのか。少しだけ貧血気味かもしれない。もしかしたら熱もあるかも。
そんなことを考えながら、少しでも楽になるように、と苗木は瞳を閉じた。
一人になると、色々なことを考える。前向きが取り柄の苗木だったが、身体が弱っている時には思考も弱ってしまうのだろうか。
ぐるり、ぐるりと廻る思考の中には、常ならば切り捨てるような悲観的なものも含まれていた。
いままでのこと、これからのこと、自分のこと、みんなのこと。
一つの事象が、次の事象に結びつき──それらは可能性を探る過程において、様々な色を見せる。
変えられない過去、還らない人、失った関係、のこされたもの。
それらは決して捨てられないものだった。ずっと、引き摺り、抱えていくと決めたことだった。
次第に、苗木はずぶずぶと、思考の海へと沈んでいく──同時に、意識も。
そして、それと気づかぬうちに眠りへと落ちていた。その頬に一筋の涙の跡を伝わせて。
ひやり、とした感触で目が覚める。
一眠りしたからか、先程までの不快感は少しだけ緩和されていた。
疼くような下腹部の痛みも、熱による頭の重さも消えてはいないが、大分楽になったようだ。
くらりとした一瞬の眩暈のあと、やっと苗木は近くにある気配に気付く。
「まことくん」
呼ばれた名前は紛れも無い自分のものだった。
身体を起こしその声のほうへ視線をむける──やはりというべきか。優しく微笑む恋人──狛枝凪斗の姿がそこにあった。
苗木と狛枝は、一時は離れていたけれど、再会し紆余曲折の末少しずつやり直していこうと再びその手を繋ぐことを決めた。
徐々に戻りゆく記憶の中の狛枝はいつでも苗木に優しい。それは今でも変わらない。
ベッドの横に椅子を置いてそこに腰掛ける狛枝の足元には買ってきたのだろうか、幾つかのビニール袋が見えた。
「なぎとさん」
苗木の掠れた声に、狛枝は足元の袋からそっとペットボトルを差し出した。
ありがとうございます、と一言礼をいって苗木はそれを受け取る。少しボトルを傾けて口に含むと、温い水が口内を潤した。
こくこくとゆっくり水分を摂る苗木を狛枝はただ優しく見つめている。
その視線が、どうにも擽ったくて苗木はそっと頬を赤くして顔ごと視線を逸らした。
そっと、狛枝の指が苗木の頬に触れる。苗木よりも狛枝の体温は低い。更に今は苗木自身の体温が上がっていることもあって、いつもよりもその冷たさが心地よかった。
ボトルの蓋を締めて腿の上に置く。そして、触れる狛枝の手を両手で握り自分からすり、と頬を寄せた。
いつもより素直に甘えてくる苗木に、狛枝は顔を寄せてその額に自分の額をこつんとあわせる。
「きもちい…」
「…やっぱりちょっと熱あるね、」
狛枝の手と額と。触れた箇所から伝わる温度が苗木には丁度よかった。
目を閉じて少しだけふわふわした言動の苗木をみて、狛枝は苦く笑う。
いつもより幼い反応を返す苗木はとても可愛らしいが、狛枝はそれが熱のせいだと知っている。
「ちょっとは楽になった?」
「うん。さっきよりはへいき」
「…よかった、」
その声には心からの安堵が含まれていた。
心配をさせてしまったことに、違う痛みが苗木を襲う。
「霧切さんにきいたんだよ。まことくんが具合悪そうだから今日はお休みだって」
「みんな、心配性でさ…大丈夫だと思ってたんだけど…」
そう思っていたのだが、先程までのことを考えると結果としては良かったといえるだろう。
結局、自分の体調のことは自分自身が一番良くわかっているようでわかっていないのかもしれない。
「まことくんは、無理し過ぎ。…もうちょっと休んでもいいのに」
「うー…わかった…」
少しだけ、怒ったような狛枝の言葉に、苗木は小さく肩をすくめた。
それをみて、狛枝は困ったように眉を下げる。
「ちょっと日にちが狂ったから今回こんなに重かったのかもね」
「…ふつか、ぐらいかなぁ」
「いつもわりときっちり来てるのにね」
うーん、と頭の中のカレンダーをめくりながら考える狛枝をみて、苗木は小さく笑った。
月の予定日をきっちり覚えている狛枝に今更苗木が何かをいうことはない。
苗木自身の身長体重スリーサイズからはじまって、月の予定日、そこからいつが危険日か、なんていうことまで狛枝は把握している。
大体苗木のことは苗木自身よりも狛枝のほうがよく知っていた。それは、付き合いだした頃からのことだったから、それに対して苗木自身も、凪斗さんが把握してるから楽だなぁ、ぐらいしか考えていない。
友人たちは揃って「おかしい」と言っていたけれど。当人たちが気にしていないのだからいいのだろう。
「まことくん、キツくない?横にならなくて平気?」
「うん、大丈夫だよ」
心配そうに尋ねる狛枝に、苗木は笑って答える。
大丈夫。大丈夫だからそんなに気遣わなくていいのに。
狛枝が苗木を大切にしてくれているのは知っている。だけど、苗木を心配する狛枝はまるで自分自身を責めているようで、見ているのが辛くなる。
「…ごめんね、来るのが遅くなっちゃって」
申し訳なさそうな言葉に、苗木は小さく首を振り、瞳を開いて笑った。
「だいじょうぶだよ、」
「…ボクが、大丈夫じゃないんだよ」
すぐに返された狛枝の言葉。それに、苗木は小さく目を瞠り、一言、ごめんと呟いた。
苗木の返事に、狛枝は深く息をつく。
そして、ぎしりと音をたててベッドの上にのった。慌てる苗木を後ろから抱き締め、首筋に顔を埋める。
苗木の下腹部に手をあてて、狛枝はそこを優しく撫でた。
「つらいときは、ボクを呼んでねっていってるよね」
首筋にかかる息と共に吐き出された言葉は優しい。しかし、そこに込められた意味に気づかないほど、苗木は鈍感ではなかった。
「ね、まことくん。ボクはキミの何?恋人だよね?」
ぽつり、ぽつりと呟く狛枝の言葉を、苗木はただ否定もせずに聞いていた。
否定することは、できなかった。
「…こんなことをいうのは、烏滸がましいかもしれないけど…、ボクはキミの恋人だ。そうだよね。…ボクなんかを選んでくれた。ボクのことをゆるしてくれた。ボクなんかを愛してくれる。ボクの望みを叶えてくれる。ボクが本当にほしいものをくれる。…でも、ボクがキミを心配するのは、ゆるしてくれないんだね」
吐露された狛枝の本音に、苗木はぎゅう、と胸が締め付けられる。
そういうつもりじゃない、といえればよかった。しかし、今まで狛枝が苗木へと言っていた言葉を振り返り、且つ自分の行動を顧みれば狛枝がそう思うのも無理は無い。
気にしてくれるのは嬉しいけれど、同時に申し訳なくなる。辛い顔までみてしまえば尚の事。
だから、心配されるのが苦手だ──そういって、自分のことで相手を悩ませることに対する罪悪感を持つことから逃げていた。
それも一つの思いやりといえば、そうなのだろう。そうして、自分の思いを潰して辛さを誤魔化して──それは苗木の無意識における行動だった。
けれど、そんな真摯なまでの思いが逆に周囲を悩ませるのだと、苗木は気づいていない。
狛枝にはそれが許せなかった。
本当の意味で心を暴かせてくれない苗木が──そして、何より自分自身が。
「キミがボクなんかを選んでくれたのは幸せだ。そして、またこういう風に一緒にいられることは奇跡にも等しい程の幸運だよ。…でもね、ボクは欲深い。烏滸がましいと思ってる。屑でゴミのようなボクが望むには不遜な感情だってこともね。でも、ね」
ぐるり、と狛枝は肩を掴んで苗木の身体を反転させる。
顔を向き合わせる体勢になり、苗木はそこではじめて狛枝が泣いていることに気がついた。
狛枝の大きな手で掴まれた肩に痛みを感じる。しかし、苗木はそれを口にしなかった。
痛い、と一言いえば狛枝はごめん、といって手を離すだろう。そして、罪悪感に満ち満ちた顔でまた自己否定を口にするのだろう。
──これは、自分の負うべき痛みだ。自分の鈍さが呼んだ痛みだ──それなのに、逃げるのは卑怯だ。
「キミがほしいよ。まことくん」
背筋を震わせるようなその声も強い視線も苗木に対する懇願だった。
真っ直ぐ胸を射抜くような狛枝の瞳はただ一人、苗木誠だけを見つめている。
「…ごめんね、痛かったよね」
そういって、肩から手を離した狛枝はそのまま苗木の腰に手をまわした。
「キミの心がほしい。キミに頼って欲しい。弱さを見せて欲しい。そう思うのはイケないこと?」
違う、と意思表示するように苗木はふる、と頭を振った。それをみて、狛枝は小さく笑う。
「これはボクの我儘だ。まことくんが、ボクやみんなにそういうところを見せたくないのはわかってる──」
でもね、と呟きながら、残る涙の跡をなぞるように狛枝は苗木の頬を撫でる。
「一人で泣かないで。辛い時はボクを頼って。キミの痛みを癒せるなんてだいそれたことを思っているわけじゃないけれど…」
寂しそうに笑って、狛枝は苗木の頬から指を引き──腕の中に閉じ込めるように苗木の身体を抱き締める。
優しい、しかしどこか一線引いているその抱擁に、苗木はただ身を預けた。
「キミが泣いてる時に、辛い時に…傍にいるくらい、ゆるしてほしい」
「…」
「どうせ、キミのことだから黙ってようとでも思ってたんだろうけど」
心中をあてられて、苗木の体が少しだけ強張る。そんな腕の中の変化に、狛枝は薄く微笑んだ。
「ねえ、まことくん。ボクの恋人。ボクは本当にキミがすきだよ。キミと一緒にいれる幸せで死んでもいいって思えるぐらい…」
「そんなこといわないでよ…」
「思うだけだよ。キミを遺して逝けるはずない」
いつもの口癖、いつもの応答。狛枝がそういうとわかっているはずなのに、苗木は言葉に詰まり俯く。
狛枝の胸で隠すように顔を押し付ける苗木は首まで赤く染まっていた。
「まことくんは病気のときは素直だよね」
「…」
くすくす、と笑う狛枝に苗木は狛枝に体重を思い切りかけることで反抗を示す。そんな可愛らしい抵抗に、狛枝はただ喜ぶだけだったけれど。
応えるように、狛枝は腕に力をこめた。
「無理させてごめんね。こういう時じゃないと、キミは聞いてくれないと思ってさ」
大丈夫?体きつくない?と気遣う狛枝の声からは、先程までの悲壮感は消えている。
苗木はただ、頭を二三度軽く横に振ることで答えた。
月経による痛みも不快さも消えてはいないけれど、心の中の漠然とした何かが今は昇華されていた。
安堵からか、とろりとした眠気が苗木を襲う。温かな腕のなか、ゆるゆるとその瞼は落ちていく。
「…全部本音だよ。ずっと思ってたことだった。…まことくん、ボクはね──」
狛枝の話を聞かなくては、と思うけれど、心地良い空間は苗木を眠りへと導いていく。そして、優しい声を子守唄に、苗木の意識は闇に落ちた。
「──なんだ…ああ、まことくん寝ちゃったんだね」
くたり、と力の抜けた苗木に、狛枝は苗木が眠ったことに気付いた。ぽん、ぽん、と苗木の背を優しく叩いて、狛枝は呟く。
「…ボクは卑怯かもしれないね」
そして、苗木を抱き締めたまま、身体をベッドへ横たえる。
狛枝はコートを脱ごうとしたが、何かに気付いてやめる。酷く柔らかな表情を浮かべているのは、苗木が狛枝のコートをぎゅっと掴んでいるのを見たからだ。
苗木の頬に何も伝っていないことを確認して、目尻に一つ、口付ける。
そして、そのまま跳ね除けていた毛布を引き寄せる。自分よりも小さな身体を抱きしめて、狛枝も瞳を閉じた。
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