夢を見る。
何より幸せで何より光が満ちていたあの優しかった日々の。そして、願っていた、来るかもしれなかった可能性の。
想い出と、想像だけで満たされる程この想いは綺麗なものじゃない。それでも、彼女の姿を見ることなどもうないのだからそれだけでもいいと妥協する。
苗木、苗木誠。
ボクの唯一の少女。たった一つの光。
幼馴染と呼ばれる関係だったボクらが離れたのはもう十年以上前だろうか。
ボクとまことくん。二人で遊んでいた所に知らない大人の人が来てまことくんを連れて行ってしまってから。
どうして、と泣き喚くボクをお母さんは、『誠君はね、神さまのお嫁さんなのよ』といいながら抱きしめてくれた。
そんなことで、納得できるはずがない。だって、ボクが。ボクだってまことくんをお嫁さんにしようって思ってたのに。
それは、幼いボクがはじめて知った【絶望】だった。
それから、時が流れてボクのまわりもすっかり変わってしまった。
まず、お父さんとお母さんが死んでしまったことで、ボクは育った町を離れた。
引き止める声もあったようだけれど、引き取り手はおらず。だからこそ、ボクは一人になった。
生まれ持った"才能"のせいで色々な場所を転々とした後、最後にここ ── 希望ヶ峰学園への入学が決まった。
『超高校級の幸運』と呼ばれるようになったこの厄介な体質は、それでもボクにとってはいつか来るだろう幸運のためなら喜ぶべきものでしかなかった。
まことくんと無理やり離されたという不運。あんなことさえなければ、きっと起こり得た未来。
それを思えば、この"才能"がきっとボクにとっての最大の幸運 ── つまり、まことくんとの再会を、約束してくれる。ボクは、そうずっと信じて生きてきた。
それが、ボクの中の唯一の【希望】だったのだ。
あの時、『約束だよ』って二人で指切りしたことも、『なぎとくんがすきだよ』って笑ってくれた顔も声もまだ鮮明に覚えている。
まことくんがいなくなってからの世界は、酷く色褪せていた。
色がない。これは、比喩でもなんでもない。
青いはずの空は灰色で、壁も時計も黒板さえもモノクロの世界になっていた。
どうして、と考えることもなかった。ただ、彼女の存在がないだけで"こう"なってしまう自分が正直だとそれだけ思った。
きっとボクは今迄、まことくんを通して世界を見ていたのだろう、彼女の存在なしには生きられない自分にゾッとした。
ああ、でももうこんなふうに焦がれるだけの世界も終わりだ。色褪せた世界も見納めだろう。
あの頃のように、なんて烏滸がましいことは願わない。それでも、ボクは彼女を奪いに行く。
この世界を覆いつつある【絶望】の中で、確かにボクが思う【希望】。それはまことくんの存在だ。
神様から奪うなんて、罰当たりだと誰かがいうかもしれない。だけど、はじめに奪ったのは向こうだ。
彼女が誰かのものになるなんて、許せない。彼女が誰かに触れられるなんて考えることすら厭わしい。
それが、神であったとしても、どうでもいい。自分じゃない誰かが彼女に触れる。それだけでボクの妬心は燃え上がる。
「……相変わらずの純愛ですねぇ、セーンパイ」
くすくす、と後ろから笑い声がした。
振り向くまでもない。
「もう出て行くんでしょう?外は絶望に塗れていくわ。そんな中でセンパイの希望ちゃんは無事でいられるのかしら」
下卑た笑い。その言葉が暗に示すのは、きっとその笑いと同じような下卑た想像なのだろう。
それを否定することは出来なくて、ボクははやくここから出て行きたかった。ボクには彼女に構っている暇などない。
「……キミはキミで色々あるんだろ、ボクに構ってないでさっさと行けば」
ボクにとっての【希望】がまことくんだとするのなら、同じようにきっと世界にとっての【絶望】が彼女なのだろう。
ボクに一つの可能性を示してくれたということに関しては感謝しているけれど、それだけだ。
他の絶望信者のように、彼女を盲目的に崇めることはボクにはできない。
「うぷぷ、そうですね。私とセンパイはただ利害が一致しただけ。誰よりも絶望に塗れた目をしているくせに、センパイ縋る相手だけは間違えないから」
楽しそうに、歌うように彼女は笑う。
それを見るのも、多分これが最後だ。ボクはこの場所を出て行く。
ボクにとってのタイムリミットはもう迫っている。
この学園で、彼女がすべきことはまだまだある。だから、絶望を振りまく彼女とはここでお別れだ。
「さよなら、江ノ島さん。キミの【絶望】がいつか打ち倒される日を願ってるよ」
「さよなら、狛枝センパイ。貴方の【希望】が【絶望】にぐちゃぐちゃのどろどろに侵される様を楽しみにしているわ」
怖い。ただ、怖かった。
どくどくと、うるさいぐらいに心臓の音がきこえる。
ぎゅっと手のひらの中に宝物を握りこんでぼくはただ、扉を開こうとする誰かの影を目で追っていた。
神様がきみを選んだんだよ。
そういって、知らない人たちに連れて来られたこの社。
それからずっと、ぼくはここに住んでいる。どんな不思議があるのかは知らない。ただ、ぼくはこの社から出ることが出来なかった。
外には出れる。だけど、この敷地から出ることは出来ない。階段を、降りることができない。同じように、ここの扉はきめられた人にしか開けることが出来ない。立ち入ることも許されていない。
神様の存在なんて信じない。そう思っていたけれど、こういったしきたりの他、実際に目にした不思議なことはたくさんある。
そのうちに──神様はいる。ぼくはそう思うようになっていた。
けれど、やっぱり受け入れることなんてできなくて、ぼくは多分ずっと諦めることができなかった。
いつか、王子様が。なんて都合のいいことは思っていないけれど。
誰かが言った、十六の誕生日。その日までには、ここからどんなことをしてでも逃げ出そうと思っていた。
思い出すのは、ずっと昔の『約束』。
彼 ── なぎとくんはもう忘れてしまっているだろうけど、ぼくはその『約束』をずっと拠り所にして生きてきた。
「……ぁ」
大きな破壊音がして扉が開く。そこから覗いたのは白い髪をした男の人だった。
多分年はそんなにかわらない。若い男の人を見るのは久しぶりだった。それには、ちゃんと理由がある。
暫く呆けたあとにやっとそれを思い出したぼくは、慌てて彼へとその決まりを告げた。
「ここの神様は男の人を嫌うんです、だからあの ──」
「……へぇ、だから、無事だったんだ」
ぼくの言葉に、彼は嬉しそうに、満足そうに笑う。その笑顔が恐ろしくて、ぼくは無意識に心の中でなぎとくんの名前を呼んだ。
「でもね、ボクは神様になんか負けない」
そういって、彼はぼくに向かって手を伸ばす。そして、腹部へと強い衝撃を受けたあと、ぼくの意識は暗転した。
男を嫌う神。それはきっと、ただの嫉妬だ。
神といっても、その心は大してボクたちと変わらないのだろう。
何があるかわからないから、と下から持ってきた鉈で社の中を荒らしながらボクはそんなことを考えていた。
御神体はどこだろう。それを壊せばいいのだろうか。それで解決するとは思わないけれど、それも一つの方法ではあるだろう。
注連縄、壁、柱、それを鉈で打ち付けながらボクは社の奥へと進んでいく。
そこで見つけた、他の所よりも大分囂々しい扉にボクは無意識のうちに口端を釣り上げていた。
思い切り、力を込めて、鉈を扉へと打ち付ける。
幾度目かの衝撃で開いた向こうには一枚の鏡があった。
こんなもののために、ボクとまことくんが引き離されたのか。そう思うと、憎しみしか湧いてこない。
それを手にとって、ボクはそれを地に落とした。がしゃん、という音とともにその鏡面が砕けて散らばる。
それを、更にボクは踏みつぶして粉々にした。
少しだけ、溜飲が下がる。それでも、まだ安心はしていられない。
神の存在なんて馬鹿らしいと思いながら、それでもそれが在ることをボクは確かに知っているから。
タイムリミットは、彼女の十六の誕生日。その日まで、あと一週間もない。
それまでに彼女を人に戻す。清純な巫女の条件を崩してやる。神の供物になんかさせやしない。
ボクがどうなったっていい。ただ、彼女を奪って死ねるのなら多分本望だ。
粉々になった破片が光を反射してキラキラと光る。
それすらボクにとっては厭わしく思えて、視界にいれまいと背を向けた。
そして、ボクは彼女の元へ戻る。
これからはじまることを考えて、自然と口角は上がっていた。
神事に使うのだろう、美しく染められた紅い紐を手にボクは気絶したままの彼女 ── まことくんを見つめていた。
それは、彼女の白い肌によく似合うだろう。手首と足首、あとはどこを縛ろうか。
抵抗はしてほしくない。できれば、まことくんに痛みなんて感じさせたくない。
本当は、普通に抱き合いたい。ボクがずっと望んでいたのは決してこんな形ではなかった。
けれど、ここでのボクはただの簒奪者だ。神の花嫁を奪う犯罪者。
ここにまことくんの意志は存在しない。はじまるのは、ボクの意志だけで行われる陵辱だ。
「…… 」
呟く声は音にはならない。自分の想いを殺して、欲をそこへと突きつける。
そっと、その瞼にキスをして、白い布で目元を覆った。
気絶したままのまことくんの服を少しだけ開ける。
合わせから覗く白い肌と申し訳程度に膨らんだ胸にごくりと喉が鳴った。
手を差し入れて、触れる。柔らかな感触にぞくりと震えた。
ゆっくりと揉み解しながら、胸元に口付けた。
吸って、痕を残す。赤い鬱血の痕が増えていく。
大きな痣にさえ見える鬱血の痕に満足して、ボクはそこから身体の線をなぞるように舌を這わせた。
そこから感じる、柔らかな産毛の感触やボクより少し高めの体温、匂いはただボクの欲を煽る。
結局、ボクもあれと同じなのかもしれないと思う。
だって、こんなにもまことくんが欲しい。この幼い身体を無理やりに開いてボクのものにしたい。
弄んで、固くなった胸の先端をそっと口に含む。舐めて、歯を立てて。もう片方を指で弄ぶのも忘れない。
この場所からまことくんは出たことがない。だから、多分経験なんてないだろう。自分でこういうふうに触れたことさえないはずだ。
「っ、」
びくり、とその身体が跳ねる。でもまだその目は閉じたままだ。
起きて欲しい、気を失ったままでいて欲しい。そんな相反した想いを抱きながら、それでも胸への愛撫はやめない。
そして、大きく胸元を開けさせてそのまま、唇を下へと下ろしていく。
唾液を塗り込めるように、少しも触れない場所などないように。自身の存在でまことくんを塗り替えるように。
足袋を脱がして、その爪先に口付ける。
小さな指、小さな爪。その一つ一つを口に含んで、唾液を絡ませる。
指と指の間も、それこそ粘着質な音が聞こえる程ボクは足先を舐め回していた。
齧り取りたい ── 足も、指も。
この身体の全てを腹に収めればボクの狭量な心は少しは満足するのだろうか。
ふと考えた思考を、即座に否定する。
一つになる。それはとても魅力的な考えだったけれど、同時にとても危険な誘惑だった。
そうすればもう二度とまことくんと触れ合えない。まことくんの声をきけない。
まことくんの存在は、何一つ損なわれてはいけない。
ボクの光。ボクの神様。ボクの ── 。
「……そんなキミにこんな仕打ちをするんだから、ボクは本当酷い男だね」
一人、自嘲するように笑う。
それでも、一度決めたことを辞めようとは思わなかった。
紐で縛った所は赤くなっていた。
その痕にも舌を這わせる。驚くぐらいまことくんには赤色が似合っている。昔のイメージからすると、真逆ではあったけれど。
ここで、どういう教育を彼女が受けていたかなんてボクは知らない。
だけど多分、性だとか欲だとか、そんな汚れたものからは徹底的に遠ざけられていたのだろうと思う。
触れた箇所から生まれる熱。きっとそれすら彼女は知らない。
恋を知る前に俗世から離されて、愛を覚える前に世界は閉ざされた。
そして ── 。
「……本当、ボクは最低だね」
それだけ呟いて、ボクは行為を再開した。
***
彼女は悪くない。彼女の思いは、だからいらない。
彼女は裏切ってなんかいない。これは、ボクの身勝手な思いで、ただの陵辱だ。
「……ね、啼きなよ。もっと声出して。つまんないから」
そんな風に囁けば、怯えるようにその身体は震えた。
声は確かにききたかった。だけど、言葉の真意はそこにはない。
まことくんは何を思っているのだろう。あの時からずっと、ただ神様のためだけに生きてきた ── 生きることを強いられてきた彼女は、こうやって見も知らない男に犯されていることをどう考えているのだろう。
幾度かの、絶頂。その果てにいつしかまことくんは気を失っていた。
まことくんの身体を清めて、彼女の自室の布団へと寝かせる。
その隣に腰掛けて、少しだけ苦しそうに歪んだ顔をそっと撫でる。
罰が当たるならボクだけでいい。決して彼女は悪くない。
こうやって彼女を奪うことが出来た。取り戻すことが出来た。それだけで、ボクの心に空いた大きな穴も少しは埋まる。
はじめて触れたまことくんの肌は想像よりもずっと、ボクを満たした。昔と変わらない幼い笑顔も、昔とは違う女の子らしく成長した身体も。
触れる度にただ、言葉にならない思いが胸へと湧き上がる。
ずっとずっと欲しかった。ずっとずっと夢見ていたし、焦がれていた。
柔らかな身体も、貫いた感触も。包み込むような温かさも、想像以上だった。
この腕で確かにまことくんを抱いた。それはボク自身が望んだ在り方ではなかったけれど、それでも目的は果たされた。
もうまことくんは巫女ではない。その条件はもう破られた。だから神の手はここには及ばない。もう、まことくんは神のものにはなれない。
その対価として、ボク自身にどんな災いが降りかかるのか、それはわからないけれど。
死んでもいいと、まことくんを抱くその時までは思っていたけれど、ボク自身思っていたより欲深かったみたいだ。
まことくんを離したくない。ボクが死ぬときはまことくんにも死んで欲しい。
ボクが絶命するその瞬間にその細い喉を掻き切って、まことくんの血に塗れて死にたい。
そっと唇に指をあてる、そのギリギリでボクは指を止めた。
柔らかな、唇。まだ触れていない、それはボクがボク自身に禁じたことだった。
触れてはいけない。ボクは彼女を犯す強姦魔だ。ただの簒奪者。それでよかった。
はじめて触れた時から、まことくんが十六の誕生日を迎えるその日まで。
それこそ、最低だと自分で思うぐらいにボクはまことくんを何度も犯した。
泣く彼女を無視してその身体を暴いた。胸は痛んだけれど、それ以上に喜びが溢れていた。
ボクも結局、無理やりここへとまことくんを閉じ込めた奴と変わらないのだと思い知らされた。
そして、十六の誕生の日を迎えて ── ボクは、どんな罰が訪れるのか、それだけ考えていた。
死ぬことさえ覚悟した。今迄のことを考えれば無理はない──けれど、不思議なことに何も起きなかった。
朝が来て、昼になっても。いつもと変わらぬ穏やかな一日がそこには流れていた。
神から巫女を奪うという重罪の罰は、まだ訪れない。
そんなことを考えながら、ボクはただなにもしないでまことくんを見ていた。
奪われないように逃げないように。
白い布で視界を封じられたまことくんは、当然ながら動くことはできない。
本当ならば、手も足だって縛りたかったけれど、それはいやだといわれたからしていない。
とりあえず部屋の柱に紐で繋いだからそれで妥協した。結局、まことくんがボクの視界からいなくならなければいい。だからいいのだとそう思って。
どれくらい経った時だろう。外はいつの間にか赤く染まっていた。
「……はなし、したいな」
ぽつ、と聞こえた声が信じられなくてボクは、思わず聞き返していた。
「……はなし?」
「うん、……ちょっとだけ」
お願い、という声に逆らえるはずなんてない。どうやったって、まことくんの言葉はボクにとって絶対なのだから。
対話というよりはまことくんの話を聞くだけ。それだけだった。
多分、まことくんはずっと話相手に飢えていたのだろう。
まことくんはここに来てからのことを話していたけれど、その話しぶりがあまりにも信じられなくてボクは申し訳程度の相槌しか返せなかった。
それは、例えるならば学校で友達へと日常的な不満を口にするような。
ボクに同意を求め、ボクが頷くと嬉しそうに笑う。
今の状況にそぐわないその態度が信じられなくて、口には出さなかったけれどボクの胸中は混乱で溢れていた。
そして話の中の時間が最近のことになり。
暫くの沈黙の後、まことくんはぽつりと呟いた
「……すきだよ」
呟いたその言葉。それはあまりにも有り得なくて、唐突で。
頭を暫くぐるぐると回って、やっと意味が理解出来た時、ボクは思わず呟いていた。
「……絆されてる、だけだよ」
すきだといった、まことくんの言葉を信用することはボクにはできなかった。
今迄彼女にした行為。それを思えば、当然だ。
まことくんにとっては、ずっと捉えられていた呪縛から解放した相手で、今ずっと傍にいるという。それだけしかない。
だからきっと、勘違いしている。
朝も夜もなく、ボクはまことくんを抱いていた。傍にいた。
まことくんは、ボク以外の人と逢っていない。まことくんにとって、この狭い世界で触れる人はボクしかいない。
だから、きっと間違えたのだ。
その、色々なものがないまぜになった感情を多分、愛情だと思ってしまったのだ。
恐怖を愛と取り違えるように、憎しみを恋と錯覚してしまうように。
「それとも、ねぇ。そんなに抱かれたいの?こないだまで処女だったくせに、」
嘲るように、笑う。まことくんのその好意を踏みにじるような、そんな裏切り。
ボクの言葉に、まことくんの顔がさっと赤く染まる。
それは羞恥か、怒りか。ぐっと唇を噛み締めたままの彼女に、ボクは続けて囁いた。
「きもちいい、っていうもんね。枷はずれちゃった?……淫乱」
ボクに抱かれるまことくんは、驚くほど乱れてくれる。泣きながら、ボクを求める。
もっと、もっとという、その声を聞く度にボクも勘違いしそうになる。
でも多分、まことくんにとってはボクじゃなくてもいいんだろう。
ずっと禁欲的な生活だったから、初めて知った快楽の味に溺れているだけなんだ。
──そんな風に、自分自身に言い聞かせる。だって、まことくんがボクをすきになる要素なんてどこにもない。
自業自得だ。理解っている。
そんなに抱かれたいのなら、とボクはまことくんに向かって手を伸ばした。
その細い手首を掴んで、押し倒して。いつものように犯せばいいだけだ。
それだけで、求められているという錯覚に陥ることができる。まことくんがボクのものだと。
ボクは、確かにその瞬間、幸せを感じることができるのだ。
けれどボクの指がまことくんの手首に触れるより、まことくんが伸ばす手のほうがはやかった。
「それは、違うよ」
とん、とまことくんがボクの身体を押し倒す。力はないけれど、逆らうことなんてできなかった。
「感謝だけなら、ボクはこんなことゆるさない。嫌いなら、もっとだよ」
そして、まことくんは仰向けになったボクの上に跨った。そして、ずっとその目を闇に閉じ込めていた布を取り去る。
久しぶりに見たその目は、ボクの目をまっすぐに見つめていた。
強い光。それは、何にも侵されない、彼女の強さ。ボクの信じていた【希望】の光。
「すきだから、なぎとくんがすきだから」
震える声で、まことくんは呟く。その大きな瞳に水膜が貼って、溜まって、大きな玉を作ってぽろりと零れた。
「ぼくを抱くのが、なぎとくんだから、ぼくは ──」
どん、とまことくんが胸をたたく。痛かった。胸が、じゃない。心が。
酷いことをした。最低なことをした。
いやだという彼女を無理やり暴いて組み敷いて。
それなのに、どうしてまことくんはボクをすきだといってくれるのだろう。
そして、何より。
「どうして、ボクをなぎとって呼ぶの ── ?」
ボクは名乗らなかった。まことくんも聞かなかった。
そしてまことくんがボクの姿を見たのは、再会のあの日と今だけ。
だから、まことくんがボクに「狛枝凪斗」と呼びかけることなんて、有り得ないのに。
「…… 」
「え?」
ぽそりと呟いた声は掠れていて、ただ泣きそうな声だな、とボクは思った。
聞き返したボクへとまことくんは、ボクの胸を更に強く叩いて殆ど叫ぶようにこういった。
「わからないはず、ない……っ!!」
「どうして、」
「忘れたりなんて、できないよ……ずっと、ぼくは、凪斗くんに逢いたかった……」
だから、声でわかったんだ。
人の記憶から真っ先に消えてしまうのは、その人の声だという。
それならば、その声を、ボクの声をまことくんが覚えていてくれた。それが示しているのが一体どういうことなのか。
わからない、わけがなかった。
── だって、それは、ボクだって同じだったから。
忘れないように彼女の声を何度も何度も脳内で繰り返した。馬鹿みたいに、彼女の声を夢想して、ずっとずっと呟いていた。
『なぎとくん』
幼い時のボクらの声はよく似ていて、だからボクはずっとずっと一人自分の名前を呟き続けた。
まことくんの声を、忘れないように。彼女の声を、耳に遺すために。
だからこそ、年を追うごとに低くなっていく声が嫌だった。彼女の声はきっとこんなものじゃない。それでも、やめられなかった。
「ずっと、待ってた。来るのが凪斗くんだったら、ってそればっかり考えてた」
「……どう、して」
絞りだすような、ボクの問い掛けにまことくんは泣きそうな顔で、笑った。
***
どこかのモニターに笑う少女の顔が映る。
それは、どこか物足りなさそうな、退屈そうなそんな笑みだった。
彼女の目論見は成功したのだろうか。それとも、結局失敗だったのだろうか。
「凪斗くん?」
きゅ、とまことくんがボクの手を引く。久しぶりの外の世界に不安を覚えているのだろう。確かに、この惨状は外を知らないまことくんからしたら大層衝撃的に違いない。
きゅっと眉を寄せた心配そうな顔もとても可愛いけれど、こうやって隣にいることを許して貰えたのだから折角ならば笑顔が見たい。
そう思って、ただボクはまことくんを安心させるためだけににこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ、さっきも言ったけどボクは幸運なんだ」
ボクの浮かべた笑顔を見て、まことくんもほっと息をついた。
ボクなんかの言葉でまことくんを安心させることができるのなら、いくらでも言葉を紡ごう。
前をみる。絶望に塗れた世界で、だけどボクの隣にはボクにとっての希望がいる。光がある。
それ以外に何の意味もないのだ。
彼女が何をしたって、学園がどうなったって、絶望だとか、希望だとかボクにはもう関係がない。
一等大切なものを手に入れた今、それを守るためならばボクはなんでもするだろう。
世界が絶望に満ちていたとしても、この世界には色がある。
まことくんが傍にいる限り、確かにボクは幸せだ。
*