じゃあね、と手を振り別れたその後。
部屋へ戻ろうとくるりと踵を返した苗木の手首を誰かが掴んだ。
何がおきたのか、そんなことを考える暇もなく苗木の小さな身体は壁に押し付けられる。
手首と肩と、そして背中。押さえつけられる力は案外強くて、苗木は痛みに眉を寄せた。
「……離して」
「いやだよ」
苦情のつもりで、呟くと、上から降ってきた声。
視線だけを向けると、冷めた視線で見下ろす狛枝がそこにいた。
目視で確認するまでもなく、狛枝だとは思っていたけれど。
服装だとか空気だとか、判断基準は色々あるけれど、何よりここにおいての選択肢が一つしかないというのが一番の理由かもしれない。
外の世界ならまだしも、この島において苗木は絶対的好意をもって受け入れられている。
その中で、苗木に対して露悪的な感情を向けるものはたった一人しかいなかった。
やっぱりか、と小さく溜息をついてから苗木はゆっくりと問いかけた。
「……どうしてそんなことするの」
狛枝の感情と行動。それは、彼の中では正当なものかもしれないけれど、苗木には理解できないことも多々あった。
これもその一つだ。唐突の拘束。声も掛けずに手を引かれたり、酷い時には殴られて気絶させられたこともある。
話があるのなら普通に呼び止めればいいのに、と内心では思っているが、同時に諦めてもいた。
そんな狛枝の行為は、苗木だけでなく、同じ未来機関の霧切や十神、そして今島にいる日向や九頭竜などに批難された。
それを聞く度に、狛枝はただ笑って一言答えるだけだった。いくらいっても改善されない。狛枝自身にその意志がないのだから当然のことだ。
最終的には、そういう扱いもなれていた苗木が匙を投げた。いくら身体に傷を負ったとて、痛みを与えられたとて、命に別状はないのだ。だから別にいいよ、と受け入れてしまった。
狛枝はそんな苗木の言葉に、つまらなさそうにふーんと言っただけだった。他のものからは今でも忠告や暴言があるけれど、結局そういう関係は今も続いている。
それでも、やっぱり理解はできなくてその理由を苗木は尋ねるのだ。
「苛々してたから」
いつものように、どうでもいいような理由に苗木はもう一度、更に深い溜息をつく。
狛枝の声からは、確かに不機嫌さが見て取れた。
刺激をしないように、だけどやられっぱなしも面白くないので、まるで癇癪を起こした子供に対するように、苗木は静かに口を開く。
「ボクなにもしてないでしょ」
それを聞いて、狛枝は大きな溜息をついた。そして、笑いながら問いかける。
「どうして、苗木クンは怒らないの?許すの?こんな酷いことされて」
酷いという自覚はあったのか、と内心苗木は頭を抱える。
あれもこれも結局意図的なものなのだ。知っていたけれど、こうやって本人の口から聞かされるとまた違う感情が生まれる。
痛む頭をおさえたかったけれど、残念ながら両手は塞がれている。はぁ、と大きな溜息を一つ。
「ボク、は──」
少し、考える。どうして許すのか。どうして怒らないのか。
幾つも理由はある。言ったって無駄だと思っているのが一番の理由かもしれない。
でもこれを、言ったらまた機嫌が悪くなりそうだ。
「……ボクは、狛枝クンのこと、きらいじゃない、し」
きらいじゃない。嫌いじゃない。
言葉にすれば、結構しっくりきた。
こういうことをされても、苗木は狛枝を嫌いにはなれない。切り捨てられない。
好きかどうか、と聞かれても即答はできないけれど、狛枝のことも大切だと思っているのは確かだった。
「あっは、」
ぽつりと苗木が呟いた言葉を聞いて、狛枝は笑う。
そして暫く笑った後、ぎりぎりの至近距離まで顔を近づけてそっと囁いた。
「ボクは苗木クンのこと嫌いだよ?」
ショックは受けなかった。だって、彼がそう言っているのを聞くのももう両手の指なんかじゃ足りないほどだったから。
にこにこと笑いながら、嫌いだよ、とはじめていわれたときはやっぱりショックだったけど。
それでも、やっぱりもうなれてしまったのだろう。苗木は狛枝凪斗という人をそういう人として、受け入れてしまったのだ。
「……それでも」
「それでも?」
「嫌われたからって嫌いになるって、そんなわけでもないと思うんだけど」
「……ふぅん?」
苗木の言葉に、狛枝は納得しかねるようなそんな表情を浮かべた。
狛枝が苗木を嫌いでも、苗木は狛枝を嫌いにはなれないのだ。
多分、嫌い合うことができれば楽なのかもしれないと思いながら、それでも苗木は狛枝を大切だと思うし、こうやって話してくれるのは嬉しいと思ってしまう。
どういう形であっても、その存在を認められているのだからまだいいだろう。
「でも狛枝クンも」
「何?」
「ボクのこと嫌いなくせにどうして?」
問いかけた言葉に、狛枝の表情が一瞬だけ凍る。
けれど、すぐにいつもどおりの表情になった。
「苗木クンのことは嫌いだけど、関心がないわけじゃないから」
「……そっか」
「うん、そうだよ」
好きの反対は嫌いじゃなくて、無関心だという。
多分、そういうことなのだろう。だから、狛枝は苗木へと手を出すし口を出す。
それは決して良いことではないけれど、それでもいいのかもしれないなあと思ってしまう。
ある意味でのコミュニケーションだと割り切れば、なんてことない。
「だって、だから苗木クンを虐めたいわけだし、苗木クンが苦しんでるとこ見たいって思うし、泣けばいいっていつも思ってる」
「結構最低だね」
付け足すように狛枝の言った言葉に、思わず本音が出てしまう。
それを聞いて、狛枝はただ笑った。変なスイッチを押さなくてよかったと、本気で思う。
痛いのも、辛いのもなれているけれど、喜んで受け入れるような性的嗜好は持っていない。
できれば避けたいとは思っているのだ。一応は。
「知ってるでしょ?」
「まあ、知ってるけど」
楽しそうな声で尋ねる狛枝に、苗木は正直に頷く。
最低だとは思っている。だって、特に意味も理由もないのに、いきなり首を締めたり、腹を殴ったり、ナイフを突きつけてくる男に対して最低と言わずに誰を最低と呼ぼうか。
楽しそうな様子でくすくす笑う狛枝に、苗木はまた溜息をつく。日向あたりがみたら、幸せが逃げるぞ、なんて言われるだろうか。
『超高校級の幸運』というよりも、『超高校級の不運』だと言われた身としては、逃げるような幸せが最初からあったのならそれでいいんじゃないかと思ってしまう。
違うことを考えていた苗木を現実へと引き戻したのは、狛枝の冷えた言葉だった。
「本当に無関心でいられたら、別にどこでキミが死んだって構わないんだけどさ」
さっきまでの楽しそうな声が嘘のような冷たい声。突き放すようなそれに、苗木はそっと目を伏せた。
「無関心だったら、それこそキミなんて無視するよ」
「じゃあ、狛枝クンがボクを嫌いって言ってる間は、狛枝クンはボクに構ってくれるの?」
問い掛け。そして沈黙。
暫くの後に、狛枝は小さく呟いた。
「……そうなる、かな」
狛枝が手に込めていた力が弱くなる。結構苦しかったそれに、心の中でそっと安堵した。
苗木の言葉を肯定したあとも、狛枝はまだ何かを考えているようだった。
「……じゃあ、ボク狛枝クンに嫌われたままがいいな」
狛枝の言葉を聞いて苗木が正直な気持ちを告げると、狛枝はわかりやすく驚いてみせた。
目を瞠る狛枝を見て、苗木は柔らかく微笑む。
「嫌いだけど、こうやってボクを相手してくれるでしょ?」
「……」
ね、と首を傾げると、沈黙していた狛枝がそっと息をつく。
「多分ずっと、だろうけどね」
「え?なにかいった?」
聞き取れなくて、苗木は思わず聞き返した。
そんな苗木に、狛枝は左右に首を振って薄く笑う。
「やっぱり、苗木クンなんて大嫌いだ」
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