授業中、震えた携帯。以前と比べると鳴らなくなったそれに、ぎゅうと胸が締め付けられる。
私の携帯の着信は半分以上が彼だった。自分から連絡を取れない私に、彼はいつでもその手を差し伸べてくれていた。

学校が別になって、一ヶ月。声をきくと寂しくなって、毎日のように泣いていた私に彼は言ってくれた。
メールならいつでもいいから。返事がすぐに返せるとは限らないけど、お前の言葉が欲しい。
電話でもいいけど、俺も逢いたくなるから──こうやって、逢いに来れる時ならいいけど。
そういって抱きしめてくれたのは、もう何年前のことだろう。

彼に愛されて、本当の"すき"を知った。"愛"を知った。
ふわふわと幸せで、暖かくて、それはまるでおひさまを抱いたような気持ち。
天気のいい日に干したお布団の中で微睡むような、そんな心地よさ。
彼と一緒にいるときはただ楽しくて嬉しくて幸せで。私はここにいてもいいんだ、って思うことが出来た。

それでも不安は消えなくて。どうして彼が私を選んでくれたのか。私なんかで本当にいいんだろうか。ずっとずっと考えていた。
それを彼はいつも、お前がいいんだ、と言ってくれたけれど。
そんな風に卑屈な態度をとる私の手を彼は笑って、時には怒って握ってくれた。

……もう、半年?違う、まだ半年だ──誰よりも私を見てくれていた彼がいなくなってから。
言葉が欲しいのは私も同じだった。彼からのメールも手紙も全部全部とってある。
目を閉じれば、その声もぬくもりもまだ思い出せる。幻聴のように聞こえてくる彼の声に泣きたくなることもある。
だけど、怖くなる。一番最初に忘れるのは、その人の声からだとどこかできいた。
私はいつまで覚えていられるのだろう。私は、彼を好きでいてもいいのだろうか。

さいごに逢ったのは、あの日から数えて丁度一週間前だった。
久しぶりに私と彼の予定があった日。一緒に出掛けて、些細なことで仲違いをしてしまったあの日。
さいごだと知っていたら、なんて意味のない仮定を繰り返してしまう。
それでも、あの時からずっと抱いている願いは、時間を戻して下さい。ただそれだけだ。
あんなことを言わなきゃよかったのに。本当に私は屑な人間だ。
それは多分私が望むには不遜すぎる願いだったのだ。だからきっと罰があたったのだろう。

罰があたるならば、どうして彼だったのだろう。彼がいなくなったことで、様々なことが歪んでいく。
絶妙なバランスで成り立っていた関係は、今はもうそこにはない。当然だ、繋いでいた彼がいないのだから。
どうせいなくなるならば、私が消えればよかった。彼の代わりになれるならば、きっとそれは喜ぶべきことなのに。

色々なことを考えているうちに授業の終わる時間だった。チャイムの鳴る音で我に返る。
ばたばたと私は移動の準備をした。がしゃん、と音をたてて筆箱を落としてしまった。
大丈夫か、そんな声が耳の奥で聞こえた。それに泣きそうになりながら、私は慌てて筆箱を拾う。
大丈夫、私はまだ忘れていない。この声を覚えている間は私は彼を想っていることを許されているような気がして、何度も何度も耳の奥で繰り返す。

もうこれが最後の授業だ。
少しだけ研究室に顔を出してから帰ろうと思っていたけれど、どうにもそんな気分になれなかった。
そういえば、と携帯に手を伸ばす。今でも少しだけ心は震える。ありもしない名前がそこにあるのを望んでしまう。
携帯をぱかりと開いて、誰からかを確認した。ひゅ、と息がつまる。

「あいたいです」
タイトルも絵文字もない、ただそれだけの文面。
けれど、それをみた時に私はわかってしまった。
歪みが、形をかえるときがきたのだと。

私は一つ息をついて、ゆっくりと了解と今から行く旨を伝える文面のメールを作成し、送信した。


***


白い病室。そこにいたのは、幼い少女だった。
無邪気に笑う、可愛らしい女の子。

その愛らしさが憎らしく思うときもあった。彼はいないのに、どうして彼女が生きているのだろう。

嫌いじゃない、大切だと思っている。あたたかくて、しあわせなぬくもりをくれる大好きな"妹"。
嫉妬もした。ズルいと思った。それでも、私をすきだといってくれるその子にそんな感情をずっと抱けるはずがなかった。
苦手な子が可愛い子になって、可愛い妹になったのはいつだっただろう。

連絡を聞いた時、私は認められなかった。小泉さんが、西園寺さんが、澪田さんが慰めてくれる声さえ私には届いていなかった。
彼がいなくなったことを認めたくなかった。彼女が生きているときいたから尚更だった。

彼女が生きていてよかった、と喜ぶ前に私はどうして、死んだのが彼のほうだったのだろう。と考えてしまった。
大切な少女。大切な妹。それでも、私を救ってくれた、愛してくれた彼以上に大切な人なんて私にはいなかったから。

でも、彼の特別が、私の大切な子が壊れていくのを黙って見ていることなんてできなくて、残された彼との繋がりを断ちたくなくて、私は彼女の元に足繁く通った。
彼女は私のことを覚えていた。それは、単なるお兄ちゃんの同級生の女の子でしかなかったけれど。それでもよかった。
(……あの人と、恋人の振りをするなんていくら誠さんのためでも私にはできない)

彼女の元に通う中で知った、一つの事実とそれが産みだした歪み。
それは私に憎悪と怒りと殺意を抱かせるには十分過ぎるものだった。

だから、私はあの人が嫌いだ。元々苦手だったけれど、今は嫌いだ。
彼の望みと思いを踏みにじり、彼女の壊れた心を弄ぶような行為がゆるせなかった。

***

病室の扉の前、私は一つ息をついた。
緊張する。どうしてだろう、とてもこわい。
──ああ、多分私はわかっているのだ。
彼女が、私の一番知りたい答えを持っていることを。

「きてくれて、ありがとう。蜜柑ちゃん」

そうやって微笑んだ少女は、昨日までそこにいた幼い子どもではなかった。

「記憶、戻ったんですねぇ……」

涙がでそうになるのを堪える。純粋に、嬉しいと思った。
彼女の心が壊れているのを見るのは辛かった。
彼女のことを大切だと思う一方で、二人の──創さんと誠さんの繋がりをまざまざと見せつけられているようで。
おめでとうございます、と呟けば誠さんは申し訳なさそうにありがとう、と笑った。

「退院なんだ、明日で」
「……誠さん」

おめでとうございます、ともう一度呟く。
言われてみると、病室の中は大分片付いていた。
ベッドに転がっていたぬいぐるみはもうそこにはないし、飾られている花もお見舞いの品も大分その数を減らしている。

「……あのぉ、誠さん」

記憶が戻ったからといって、歪みが正されたわけではない。
誠さんの目が、正しい現実を映し出しているかどうかなんて私にはわからなかった。
おずおずと私は問いかける。答えを聞きたいけれど、聞きたくないような、そんな気持ち。

「創さん、のことは」

どくどくと心臓がなる。倒れそうなぐらいに、私は緊張していた。
怖いのかもしれない。それでも、私は話をきかなければならなかった。
日向創の恋人の──そして、苗木誠の姉の、罪木蜜柑として。

「うん、それも……思い出したよ」

ごめんね、皆に迷惑かけちゃった。と申し訳なさそうに、誠さんは俯く。
皆の中には、多分私以外の、お母さんやお父さんや妹さん、創さんのお父さん──そして、あの人も含まれている。

「……大丈夫、もう、大丈夫だよ」

誠さんはそうやって笑ったけれど、ちっとも大丈夫そうには見えなかった。いつ記憶が戻ったのかはわからない。
誠さんにとっては、これまでのことが一度に起こったような感覚だったのではないだろうか。
だけど、誠さんはそうとは見せないように笑う。その笑顔が創さんに重なって、改めて二人が兄妹だということに気付いた。

「……どうしても、ぼくは蜜柑ちゃんに逢わなきゃいけなかったんだ」

お兄ちゃんのこと、そういって、彼女は私に一つの箱を差し出した。
手のひらにおさまる程度の小さな箱は少し歪んでいたけれど、多分綺麗にラッピングされたものだったんだろうという予想ができる。

「これ、は……?」
「あの日、ぼくとお兄ちゃんが出掛けた時にかったもの、だよ」

誠さんのいうあの日は、半年前のあの日で間違いないだろう。
私の世界が凍りついてしまった日。歪みの産まれた日。

「お兄ちゃんはね、ぼくに、罪木に謝っておいてくれって……これは、渡すなっていわれたけど、それを決めるのは蜜柑ちゃんだと思ったから」

かさりと褪せてしまった包装紙を開く。出てきたのは小さな箱だった。

「……蜜柑ちゃんがいつまでも不安がってること、お兄ちゃんずっと知ってた。それが原因だったんだよね」

小さな仲違い──違う、私が勝手に拗ねていただけだ。
私はこんなにも、創さんがすきなのに。彼は違うんだと私はずっと思っていた。
久しぶりにあったのに、別れが惜しくて離れられなかった私と、いつものように家まで送ってくれた創さん。
まだそんなに遅くなかったのに、さよならなんてしたくなかったのに。
さいごは、私が一方的に怒って扉を締めた。
それから、創さんから来る電話やメールはみなかったし、とらなかった。
怖かった。いらないって、もういいって言われるのが怖かった。
連絡を聞いた時どんなに悔やんだことだろう。誰よりも自分が憎かった。
どうして、ごめんなさいといえなかったんだろう。いらない、なんてあんなことで彼がいうはずないってわかっていたのに。
いつになっても、変わらない自分がいやになる。結局、屑でドジで出来の悪いままなのだ、私は。

「お兄ちゃん、ごめんって。罪木の不安をわかってやれてなかったって……」
「っ、違いますぅ……!創さんは、悪くないんです……私が、私がぁ……っ」

ぼろぼろと涙が落ちる。どうして、こんなにも彼は優しいのだろうか。こんな女を選んで良い人じゃなかった。もっと良い人がいるとずっとずっと思っていた。
それでも好きだったから、その手を離したくないと初めて思った人だったから。
どんなに烏滸がましくても、私は彼と一緒にいたかったのだ。

箱をあけて、見えたのは銀色の光。小さなきらきらと光る石のついたそれは指輪だった。

「蜜柑ちゃんに、未来の約束をあげたい、っていってた」

多分お兄ちゃん、蜜柑ちゃんの未来を縛っちゃうのが嫌だったんだと思う。

「……誠さん、ありがとうございますぅ……」

縛って欲しかった。そう思った。どこまでも、たとえ彼がいなくても、私は彼のものでありたい。
ぐしゃぐしゃになりながら、私は指輪を手にとって目の前まで掲げた。
きらきらと光るそれは、何よりも尊い。

「これ、貰ってもいいんですよ、ねぇ?」

誠さんが頷いたのを確認したあと、その指輪を、左手薬指に自分で嵌める。
これはお守りだ。そして、自身への許しだ。
これがあればずっとずっと、創さんを思っていられる。愛していてもいいという免罪符。

「……蜜柑ちゃん、これからも逢えるよね?」

ぽつり、と誠さんが呟く。それは、私がききたいことだった。
私と誠さんを繋いでいたのは、創さんの存在だ。彼のいなくなった今、私には誠さんに逢う権利があるのだろうか。

「いいん、ですかぁ?」

心の奥に押し込めた、負の感情は多分消えない。けれど、それ以上に私は誠さんが好きだった。
創さんと比べたら、それは当然創さんのほうが上だけれども、その他のなかでは誠さんが一番だ。
大切な人の思い出を共有できる存在というのも大きかっただろう。
私は図々しいとは思うけれど、創さんという存在がいない今、誠さんとあえなくなることもいやだったのだ。

「……うん、だって蜜柑ちゃんはぼくのお姉ちゃんだから」

そういって、笑う誠さんの顔はやっぱり創さんにそっくりで、私は泣きながら頷いていた。


***

「ごめん、いっこお願いがあるんだ、」

そういって、誠さんは俯く。
彼女のお願いだ。断る道理なんてない。
できることなら、というと誠さんは小さく笑って、蜜柑ちゃんにしか頼めないんだ、といった。

「……あの人に、あいたいんだ」




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