苗木誠が絶望の残党との交渉中に姿を消したのは、二年前の事だった。
その報告のあった翌朝に見つかったのは、肘から先の焼けた右腕。そしてその近くには同じように右腕のない焼死体。
それだけなら、まだ希望を抱けた。なんらかの事件に巻き込まれてこちらへは帰ってこれないのだ、と。
しかし、落ちていた未来機関の身元証明書と、残された右腕についていた疵がそれを否定する。
どうして、と口にしながら、それでも未来機関は苗木誠を探し続けた。なにせ、貴重な未来機関の旗印、唯一の『超高校級の希望』なのだ、彼が絶望に襲われて身罷ったなどと、それこそ公言出来るようなことではない。
しかし、一月、二月が過ぎ、一年が過ぎた頃には、諦めきれずに探し続けるのは、かつての七八期生──現在は未来機関の一四支部と名を変えたけれど──の生き残りと、彼等によって救われたといっても過言ではない、七七期生たちだけとなっていた。
しかし、なんの成果もあげることのないまま、年月は過ぎる。信じたくはないけれど、ここまで何も情報がなければ、認めてしまいそうになる。
「希望を捨てちゃダメだ!」と、そう呼びかける声はもう、ないのだ。希望を紡ぎ、皆を導く『超高校級の希望』──その彼こそが、ここに、いないのだから。
「ただいま」
日向創の帰宅は遅い。それは未来機関に入ってからずっとそうだったが、ここ二年ほどは更に遅い。
その最大の理由は、『超高校級の希望』を失ったことで、未来機関の内部もまた少し変わったからだろう。
苗木誠が未来機関に入ってから、というもの、やはりわかりやすい旗印は、衆目の関心を惹くのにプラス要素となっていたのだろうか、支援者、賛同者などは、以前と比べると増加傾向にある、と誰かから聞いた気がする。
そして、それは日向たち──絶望の残党であった七七期生が未来機関に入ってからも同じことだった。
絶望の残党を匿い、更に未来機関へ──なんて、非常識だ。希望のための組織なのに、『超高校級の希望』もただの人か、などという声は勿論あった。寧ろ最初はそういった批判のほうが多く、苗木自身が絶望なのではないか、という意見さえ出たほどだ。
しかし、日向たちが未来機関に入り、一月、二月が過ぎた頃。はじめに誰が言ったのかわからないが、そんな絶望の残党すら、内にとりこみ、希望へと換えてしまうことなど、容易く出来るわけではない。
常人には出来るはずない、そんな芸当を容易くこなすそんな彼こそ、『超高校級の希望』に相応しい、といった声が出始めた。
最初は小さかったその声も、その意見がどんどん大きくなるにつれ、それが当たり前、になっていった。
苗木誠は、確かに『超高校級の希望』である、と。その頃には、さながら宗教のようにもなっており、それを苗木が困ったような顔をしながらぽそりと零していたことを思い出す。
苗木が表舞台から消えて、もう二年がたつ。
未だに、苗木誠という『超高校級の希望』の存在を求める声は高い──未来機関が苗木の現状については何も公言していないのだから、当然のことだ。
しかし、未来機関の中では、一部を除いて死亡扱いされている──死亡扱いする者たちの中には完全に神格化している者もいて、もうそれは完全に宗教と言っていいだろう。しかし、その死を認めず未だ捜索を続けるその一部すら、もう僅かな希望に縋るのみで、本当に苗木が無事だと信じているものは誰も居ない。
──たったひとり、日向創を除いて。
暗い部屋の中に入る。電気をつけて、まず先に向かうのは一番奥の寝室だ。
ぱちり、ぱちりと電気を付けて、扉を開く。ベッドと、本棚。そして、机の上にはPC端末と、散らばった──それは床も同様に──書類。
それが日向の寝室で、物は少ないが、普通の部屋と言ってもいい──ただひとつ、部屋の真ん中にある、檻の存在を除けば。
「ただいま、苗木」
部屋の電気を付けて、檻の中の人物に微笑みかける。
檻の中のベッドの上で、小さな身体を更に小さく丸めて眠っている人物──それは、死んだと思われている苗木誠その人だった。
部屋の中に入り、じゃらりと鍵を取り出す。キーケースに入った鍵で檻に掛けた錠を一つ、二つ外していく。
そして、全てを開き終えた後、日向自身もその内に入り、また一つ、鍵を掛けた。足首をつないであるのだから、この家から出ることは出来ないだろうが、それでも念には念を入れて、だ。
彼は、『超高校級の希望』である前に、『超高校級の幸運』なのだ。日向の知る幸運は二人しかいないが、それでも二人の幸運は確かなものだと、日向はそう思っているから。
鍵が壊れていた、なんてそんな不運笑えるはずがない。
ベッドで眠る苗木の横に腰掛けて、その柔らかな頬を撫でる。苗木のところへ帰ってくることが出来た、という幸福感は、伝う涙の跡に気付き霧消した。
ち、と舌打ちして一人、呟く。
「他の奴がいるからダメなんだな」
泣くのは、きっと外に出たいがためだろう。苗木は、例外を除いて涙を流すことはない。
日向の前では泣かないくせに、こういうふうに夢をみて涙を流すのを見ると、心の中に湧き上がるのはどうしようもない暗く、淀んだ感情だ。
コロシアイ学園生活から目覚めて、一月程経った頃に、日向は胸を焼く感情に気がついた。
最初は恩人だった。それが、気になる相手になって、支えてやりたい、という思いはそのまま恋情へと変化した。
その恋情ははじめ、皆の望む『希望』であろうとするそんな彼を支えたい、彼の弱さを知りたい、彼を、守りたい、という優しい感情で出来ていた。そのはずだった。
けれど、距離が近くなればなるほど、彼を知れば知るほど、欲は増えていく。触りたい、欲しい──そんな、口にできないような欲望まで含んでいった。
その頃には、もう見ていることすら辛いと思い始めていた。苗木の笑顔をみて、可愛い、と思うと同時にどうしてあれを向けられているのが自分じゃないのか、というどろりとした感情。
それでも関係を断つことなんて出来ないまま、日向はそんな暗い感情を押し殺し続けた、表には出さないよう笑顔を苗木へは向け続けた。良い友人のスタンスを守りたかった。
その箍が外れたことにきっかけなんてない。きっと、もう限界だったのだろう。
積もり積もって、澱の様に凝ったそれが、日向を埋め尽くし、それが表へと出て来た、きっとただそれだけの話。
もう、そうなってしまった日向に我慢なんて出来なかった。
誰かに笑う姿を見たくないのなら、自分の手の内に入れてしまえばいい。守りたいのなら、閉じ込めてしまえばいい。
たった一人だけだった。そんなふうに欲しいとおもったのは。彼に向けられる、感情や視線すら厭わしい。
だから、日向は、心に決めたのだ。
そのたった一人──苗木誠という存在を独占するために、この手の内にいれるために、日向はいろんなことをした。
それこそ、あのコロシアイ修学旅行から目覚めて、自分が使えるようになった、『超高校級の希望』、カムクライズルとしての才能まで含めて、使えるものは全部使って。
そうして、苗木誠という存在を殺し、この家の、この部屋の、この檻の中に閉じ込めて、日向だけの世界を作り出した。
最初は、どうして、嘘だよね、と震える声で日向へと問い掛けていた苗木も、時の経過につれ、日向の本気をわかったのだろう。
最近では、一人の時にぽつりと誰かの名前を呼ぶぐらいで、日向の前では何も言うことはない。帰りたい、帰して、と言ったって、日向がここから出さないことをきっともう理解している。
けれど、外に出れる、という希望を彼は捨てていない。もう外の世界にはもう帰る場所なんてないくせに、それでも苗木の瞳の色は濁っていない。
濁って欲しいわけでは勿論ないけれど(だって、好きになったのは間違いなく有りのままの苗木誠なのだから)、少しは変化があってもいいだろうと、日向は思う。
「……ただいま、苗木」
そう耳元で囁いて日向は涙の跡に舌を這わせた。誰かを思って泣く苗木の涙すら、自身のものになればいい。
日向の前で苗木が泣くことなんて、もうないのだから。
泣くだけでなく、笑うこともない。苗木が日向に向けるのは、咎めるような、そんな瞳だけだ。
泣きそうなそんな顔をしているのに、涙は流さない様を見ていると無理やりにでもその感情を揺さぶらせたくて、その度に苗木の小さな身体を無理やりに割り開くのだ。
そして、情事の間、生理的に流れる涙を見て、少しの充足感を味わう。それが苗木の心から流れたものではなくても、日向が、流させたものであることに変わりはないのだから。
「……ひなたくん」
顔に寄せられた感触に気付いたのだろうか、苗木はその瞳を薄く開く。
開いていく瞳に映るのは間違いなく日向の姿で、それを見るのが日向はとても好きだ。
映るそこには日向しかいない──つまりその瞬間だけは、間違いなく苗木は日向だけを見ていると認識出来るからだ。
「おはよう」
それだけで、先程のぐるぐるとした暗い感情が、一掃されて、単純だな、と心の中で一人で笑う。
けれど、苗木の表情が緊張で強張ったのをみて、また暗い感情がどろどろと流れだす。
わかっていたことだけれども、苗木にとっての日向は恐怖の対象でしかない。
檻の中に閉じ込めて、暴力紛いの性行為を強いる日向へと、どうして好意を抱けるだろうか。
それをわかっているから、日向はそんな苗木の表情を見るのがいやだった。
愛されないのをわかっているくせに、愛して欲しいと願う強欲さも含めて。
「また泣いたんだな、そんなに出たいのか」
帰る場所もないくせに。そんな事を心で呟きながら日向は苗木の頬に指で触れる。
柔らかな頬に少しだけ、爪をたてて。傷を残すような強さじゃないけれど、跡のつく、それぐらいの強さで。
「……出たいのは、外に誰がいるからだ?霧切?十神?」
「ちが、」
否定と共に小さく横に振られる首。けれど、苗木が誰かを想っているのは知っている。それが誰なのかはわからないけれど、日向にとってはどうでもいいことだった。
だって、きっとそれを知ってしまえば嫉妬の炎に焼かれてしまう。今以上にぐるぐると、どろどろとした暗い黒い感情が支配して、どうなるか、日向ですらわからない。
だからきっと、考えたらすぐにわかることかもしれないが、敢えて考えないようにしていたのだ。
(……帰りたい、っていうなら、苗木の帰りたい原因を消すだけ、でいい)
一人、二人。何度も繰り返したことだが、心の中でその対象を思い浮かべる。その手段も含めて。
苗木も、それを知っているからこそ今では外に出たい、と口に出すことはないのだ。
「そうだよな、苗木には、俺だけいればいいよな?」
そういって、日向はうっそりと嗤う。
目を潰してしまえばいいとおもったこともある。そうすればきっと苗木の目には誰も映らない。
けれど、同時に日向の存在も苗木の瞳に映らないことになる。それは認めることが出来なかった。
苗木の感じるもの、見るもの、聞くもの全てが日向だけであればいい。
苗木誠という小さな存在を構成するのが、自分だけであるのなら、どれだけ幸せなことだろう。
「……すきだ、苗木」
そう耳元で囁いて、小さな身体をベッドに押さえつける。そして、もう色の変わってしまった細い首筋へと歯をたてた。
痛みに漏らした声すらも愛おしい。これは、間違いなく、日向だけのものだ。
これからもずっと、離れない、放せない。
ここから出さずに、日向だけをみて、日向だけに感情を向ける苗木がいればそれでいい。
いっそ自分自身も、外に出なければどんなに楽だろう、と思うけれども、一筋の不安ですら認めることは出来ない。
今でも尚一四支部の面々が苗木を探しているのは知っている。そこで出た、情報を把握しておかなければ、どこからこの日向の作り上げた世界が破綻するかわからないからだ。
守りたいのは、この世界──苗木がいて、苗木に触れることが出来る、この一部屋の中で完結した世界だ。
そのための、苦労など、惜しまない。苗木という最大の賞与の前にどんな対価ですら、大きすぎるということはないのだから。
諦めたように瞳を閉じた苗木の胸元を開けさせて、日向はそこへと一つ、二つと唇を落とす。
ずっと、ずっと続いていく円環の中で、日向はただ、苗木だけを求め続ける。
それだけで、日向の世界は満たされるのだから。
自身の肌に舌を這わせ、唇を寄せる日向の存在を感じながら、苗木は滲む視界の中、ぼうっと天井を見つめていた。
きっともう、苗木の言葉なんて届かない。
ずっとずっと、日向は苗木の言葉なんて聞こうとしていない。
そんなことしなくても、ボクはキミが好きだよ、なんて。そんな言葉すら、もう彼の耳には届かない。
ぽろり、と流した涙の存在に、日向が気付くことはなく、そのまま情欲の渦に飲まれていった。
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