碧棺左馬刻は既婚者である――それは、昔からある噂だった。人の噂は七十五日というけれど、未だにそれが囁かれているのは、偏に当の左馬刻がその話を全く否定しないからだ。寧ろ、歓迎しているように見えるのは気のせいか。左馬刻は決してその噂を肯定しない――けれど否定もしない。そして思わせぶりに何も嵌っていない左薬指を撫でるのだ。だからこそ、碧棺左馬刻既婚者説は消えることがない――その相手は、明らかにはなっていないけれど。
 チームメイトである入間銃兎は、噂は所詮噂だと考えていた。なにせ左馬刻は顔が良い。そして同時にイイ性格をしている。だから面倒な虫除けのために噂を利用こともあるだろうと思っていた。
 銃兎がそれを単なる噂だと思っている一番の理由は、左馬刻に女の影が一切ないことだ――いや、正しくは一切ではない。左馬刻と切っても切り離せない関係の女が一人だけいる。その女がいるからこそ、銃兎は左馬刻が既婚者なんて思えなかった。
 イケブクロディビジョン代表、山田一郎――左馬刻とは因縁の相手である彼女は、かつて左馬刻と同じチームに所属し、背中を預けて戦っていた仲間だった。昔、二人が一緒にいるところを銃兎は何度か見たことがある。
 あの左馬刻の顔を見ていなければ――そして今の左馬刻の彼女への態度が違っていれば、きっとその噂を信じることができただろう。顔も知らぬ左馬刻の嫁の存在を、想像することも。
 けれど、左馬刻にとって『山田一郎』の存在だけが別格だ。それは逢えばバチバチと火花を散らすような関係の今でもそうだ。左馬刻の目には山田一郎しか映っていない。あの赤い瞳は、彼女を前にした時が一番嬉しそうに――そして、楽しそうに歪むのだ。
 そんな左馬刻にとって唯一といっていい特別がいることは、(いるかいないかもわからない)配偶者にとっては面白くないだろう。
 愛のない結婚なら有り得るかもしれない。しかし、それにしては左馬刻の態度が不可解であるし、何より本当に女の影がないのだから。一人暮らしで、女の元に通っているという話も聞いたことがない。派手な外見を裏切って、左馬刻の生活は仕事以外は大人しいものだった。
「で、本当のところはどうなんです?」
「……何が」
 噂は噂だ。けれど一向に消えないそれの真相を――もっと言えば、答え合わせがしたかった。単純に、気持ちが悪かったのだ。それをいつまでも放置していたくなかった、それだけだ。相手のプライベートに深入りする気はないけれど、それぐらいは教えてくれても良いだろうという気持ちもあった。
 理鶯がいないこの機会に聞いておこうと思ったことに、他意はない。それなりの量の酒を飲ませて軽く酔ったところで話を振ったことも、また。
 ただ、少しだけ、口が緩くならないかという期待はあったことは否定しないが。
「あなたの噂ですよ。結婚してるとかしてないとか」
「……」
 銃兎の問に左馬刻は持っていたグラスを一気に煽り、中身を全て飲み干した。そしてだん、と机に音を立ててグラスを置き、顔を上げる。その目は酷く楽しそうに見えた。
「俺様が既婚者かどうか、って?」
「……ええ」
「嫁はいるぜ」
 今まで否定も肯定もせず、ずっと事実を曖昧にしてきた左馬刻があっさりと答えを口にしたことに、銃兎は驚いて思わず咳き込む。
 大体、銃兎は噂は所詮噂で、左馬刻はそれに乗っかって利用しているだけだと思っていたのだ。それなのに、その噂自体が本当だ、と当人が口にしたのだから、それは驚く。
 最初から躓いた答え合わせに、それでも納得できなくて銃兎は問を重ねた。
「で、ですがあなた、一人で住んでますよね」
「……別居中だ」
 銃兎の言葉に左馬刻は大きく舌打つ。本当は別居などしたくないのだと、その表情が物語っていた。夫婦生活が円満かどうかはさておいて、どうやら左馬刻のほうは配偶者を憎からず思っているらしい。
「……つかぬことをお聞きしますが、奥様は仕事絡みの相手で……?」
「ちげぇ」
 恐る恐る投げた問はばっさりと切って捨てられた。仕事絡みではないということは、左馬刻の配偶者は一般人なのだろう。それならば、相手のことを思って別居していることも、表沙汰にしていないことも一応は納得できる。
「どんな方ですか」
「……かわいいやつ」
 その口元が少しだけ緩む。本当に左馬刻は相手を『かわいい』と思っているのだろう。
「なかなか甘えてきてくんねぇから、もちっと甘えてほしいんだけどな」
「そう、ですか」
 ぽつりとこぼれた惚気には、愛しいという色が満遍なく塗りたくられていた。今まで見たことのない左馬刻の姿に、もしかしたら藪を突いたかもしれないと思いながら、心を落ち着けるためにグラスを軽く煽る。
「妹さんと比べても?」
「……比べるモンじゃねぇだろ」
 左馬刻にとって、妹という存在がどれだけ大切なものかを銃兎は知っている。それと比較できない相手――それだけで、左馬刻がその人のことをどう思っているのか推測することは容易だった。
「……大切、なんですね」
「ああ、」
 その時に左馬刻が浮かべた笑みに既視感を覚える。心底嬉しそうな顔。幸せそうな、優しい表情。いつかみたことのあるそれに、銃兎は左馬刻が本当に心から配偶者のことを愛しているのだと実感した。けれど同時に疑問も抱く。これだけ左馬刻が相手を思っているのなら、愛のない結婚などではないだろう。
それならば、左馬刻が重い執着と強い愛憎を傾ける山田一郎の存在は配偶者からすれば面白いものではないのではないか――もしかしたら、それすら許してしまうほどに懐の広い相手なのかもしれないが。










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