「籍、入れるか」
向かい側のソファに座っていた左馬刻がそんなことを口にした時、一郎の頭の中は一瞬で真っ白になった。
「……誰、と誰が?」
「何言ってんだよ。俺様とお前に決まってんだろ」
決まってない。全く決まってないです、なんて言い返すことも出来ない一郎が次にしたことは、携帯を取り出して今日が四月一日ではないことを確認することだった。画面に表示された日付は、一郎が思っていた通りの日付だ。目を擦り、瞬きを繰り返してもそれが変わることはない。
「えっと、左馬刻さん今日エイプリルフールじゃないっすよ」
「何言ってんだ? 一郎」
携帯から顔を上げた一郎に、当然じゃねぇか、なんて真顔で左馬刻は宣う。それはこっちの台詞です、なんてとてもではないが言えなくて、一郎はその代わりにはは、と乾いた笑みを貼り付けた。
何の話をしていたっけ――そうだ。施設の子供達の里親探しも終わったから、次は自分たちの番だ、と告げたのだ。
入所していた施設が経営不能になった。
一郎自身関与することになったサンセットビルで起きた先般の事件だけが理由ではない。施設ぐるみで行われていた人身売買が明らかになったためだ。
事件の当事者である施設長だけではなく施設の職員も多数逮捕され、残されたのは入所していた児童と非正規の職員のみである。
施設が経営不能になった以上そこに居続けることは出来ないが、行政も無慈悲ではないらしい。幸いなことに、暫くの猶予を与えられた。その間に、次の居場所を見つけろということだろうが。
高校二年生である一郎が、施設にいられる期限は高校卒業まで――つまり、あと一年程だった。そして一郎は、その期限を待たずに弟二人を連れて施設を出ることを決めていた。それが少しばかりはやくなっただけだ。定めた目標額にはまだ少しばかり足りないが、当面の間は支障なくやっていけるだろう。
だから、問題は他の子供達のことだった。
残された職員は皆いなくなってしまった。行政から派遣された世話人は、あくまで施設内における最低限の仕事をするだけで、子供達の心のケアをしてくれるわけでもなければ、次の行き先を探してくれるわけでもない。
残された子供の中で一番の年長者は一郎だった。次いで、二郎、三郎と続く。小学生以下の子供達が自分で行き先を探すなんて出来るはずがない。いなくなってしまった職員も、行政も頼ることが出来ない状況の中で、一郎は自分がどうにかしなくてはならないと考えた。
決して施設内の態度が良いとは言えなかった――二郎や三郎との関係が悪化していた頃でも、『一郎ちゃん』と呼んで慕ってくれた子供達を、一郎は見捨てることなんて出来なかったのだ。
だから、子供達の行き先が決まるまでは自分達のことは後回しだと決めた。与えられた猶予期間は決して長くない。里親探しも簡単ではないだろう。それでも、頼るべき大人のいない場所に、子供達を置いていくことなんて一郎自身が許せなかったのだ。
そしてそれも漸く終わった。一郎は子供達全員の里親を探し出し、新しい家族の元へと見送った。
その間に変わったことが幾つかある。左馬刻との関係もその内の一つだ。
少し前――件の事件の前までは敵対していたチームの相手で、今は同じチームの仲間だ。今一郎がいるのも、左馬刻の事務所である。未だ萬屋として固定した事務所を持っていない一郎は、暫定的に左馬刻の事務所の一角を借りていた――とはいえ、実際に事務所で話をすることは今の所ないのだけれど。それでも名刺に決まった住所があるとないとでは信頼に差が出るからと、教えてくれたのも左馬刻だった。
左馬刻は色々なことを一郎に教えてくれる。同じチームに入ったことで、それまでの扱いが嘘のように優しくなった。左馬刻の言うことに嘘はない――それがわかるからこそ、一郎の態度もそれまでのものとは一転した。
左馬刻は良くも悪くも正直な人間だと一郎は思う。けれど、そこが好ましいとも思っている。だからこそ、一郎も自分のことを話すのだ。頼りになる大人で、きちんと自分の話を聞いてくれる相手だと信じているからこそ。
じっとこちらを見つめる左馬刻の瞳に嘘はない。彼の言う通り冗談ではないのだろう。
だからこそ、どうして左馬刻がこんなことを言い出したのか、一郎にはわからなかった。
籍を入れる、の意味はわかる。けれど、一郎と左馬刻は決してそんな関係ではない。可能か不可能かと言われれば、法律上では確かに可能ではある。しかし、そうする理由はどこにもない。
左馬刻とは同じチームの仲間だ。一郎も左馬刻のことを好ましいと思っている。けれど、籍を入れるなんて、それだけで出来るようなことではないだろう。
そんな一郎の考えが伝わったのか、煙草の煙を吐き出した左馬刻はにこりともせずに口を開く。
「テメエ未成年だろうが。家借りるにも買うにも後見人の許可がいるだろ」
「そう、ですけど」
施設がなくなって、一郎の後見人と呼べる者はいなくなった。
一郎の法律上の後見人は施設長だったが、犯罪者として収監されその権利も剥奪されている。
あまりに日常が目まぐるしく過ぎていく中で、左馬刻に言われるまで思いつきもしなかったが、未成年の一郎では契約一つ交わすことすら難しい。
購入する家の目処はついていた。まだ事件が起こる前の話ではあるが、施設と後見人である施設長の名も出した上でそれなりに話も進めていた。流石に一括で、とは言えないが、頭金には十分足りる程度の金は貯めていた。それなのに、年齢一つでそれが叶わない。
改めて浮上した問題に、一郎は顔を俯かせてそっと携帯を握る手に力を込めた。
「俺様がお前と籍入れりゃ、テメエは法律上では成人と似たような扱い受けるからいろいろと楽になるだろ」
「……そうなんですか?」
一郎はあまり法律に詳しくない。けれど、左馬刻が言うならそうなのだろう。つまり左馬刻が言う『籍を入れる』とは、一郎が考えていた結婚とは違い、単なる書類上における契約でしかないということだ。それならば確かに愛だ恋だは必要ない。そこにメリットと、多少の好意があれば十分だ。
一郎は既に己の名字を掲げた萬屋ヤマダを立ち上げている。だから、名字が変わることは確かにデメリットに成り得るだろう。けれど、戸籍上の名字が変わろうが、萬屋ヤマダの経営者として、山田姓を名乗ることは問題ない――となると、それほど大きなデメリットはないような気がした。
結婚しただけで法律上成人扱いされるというのなら、左馬刻の言うようにこれからいろいろと楽になるだろう。
未成年の婚姻には親の許可が必要だが、戸籍上において親がいない一郎には関係ない話だ。だから、言われた当初は面食らってしまったけれど、よくよく考えてみれば左馬刻の言葉は、今から後見人になってくれるような相手を探すよりも、ずっと一郎にとって魅力的なものであった。
――けれど。
「俺はありがたいっすけど、左馬刻さんにとって何の意味があるんすか……?」
純粋な疑問だった。だから、一郎はまっすぐに左馬刻を見つめ、尋ねた。
まだ十七歳である一郎が成人するまで約三年。その間にあるだろう様々な手続きを他人に頼らなくて良いということは、一郎にとって利点でしかない。
しかし、左馬刻にとってはどうだろう。一郎にとってはメリットに成り得るそれも、既に成人済みである左馬刻には意味がない。籍を入れるということは、いつものような、食事を奢ったり家まで送ってくれたりすることとは次元が違う。チームメイトに対する親切心にしては行き過ぎている申し出だ。そこにはきっと何か理由があるはずで、けれども一郎にはその理由がわからない。
「……まあ、いろいろとな」
しかし、一郎の問に対して、左馬刻は明確な答えをくれなかった。
ふい、と逸らされた視線に、これは言いたくないのだなとわかってしまう。同時に、一郎は簓から聞いた左馬刻が特定の相手を作るつもりはないらしい、という話を思い出した。特定の相手がいない、ということは、不特定の相手はいるということだ。実際にそういう噂を聞いたこともあるし、四人で集まった後、簓と二人夜の街へと向かう背中を見送ったこともある。左馬刻自身からそういう話を聞いたことはなかったが、きっとその噂は事実なのだろう――となると、一郎の役割は女除けだろうか。言い寄ってくる女性達に対し、辟易しているように見えたから。つまり、誰でも良いわけじゃなくて、後腐れのない相手を選んでいるということだろう。
左馬刻が一郎と結婚すれば、そういう面倒な――言い換えれば本気で言い寄ってくる――相手は少なくなるに違いない。少々下世話な話ではあるが、決して可能性は低くないし、何より一郎に理由も言いたがらない訳もこれなら納得がいく。左馬刻は一郎に対して時にとても過保護だ。
左馬刻が理由を口にしない以上、これだって可能性は低くないというだけで、一郎の勝手な推測に過ぎない。けれど、左馬刻が明らかにしない理由がどんなものであったとしても、一郎は構わなかった。だって、一郎にとって悪いことにはならないだろうということだけは確信していたからだ。少々性格に難はあるが、面倒見が良く優しい人だということを一郎は知っている。卑怯なことはしない――というよりも出来ないのだろう。そんな左馬刻の真っ直ぐな生き方を、一郎は尊敬していた。
だから、左馬刻の返事に一郎は安堵した。この申し出は、一郎ばかりが得をするものではなく、左馬刻にとってもきちんと何かしらのメリットがあるとわかったからだ。単なる親切心で受けるにはあまりにも重い申し出ではあったが、左馬刻側にも理由があるならば、それは双方にとって利点のある立派な契約に成り得る。
結婚するなんて言えば弟二人はきっと驚くだろうが、理由を聞けば納得してくれるだろう。左馬刻のほうはどうだろうか、と尋ねてみれば、そこは心配しなくて良いとあっさり答えが返ってきた。
「寧ろテメェの弟たちはどうなんだよ」
今度は左馬刻が一郎を真っ直ぐ見つめながら問い掛ける。それを聞いて、一郎は思わず笑ってしまった。同じことを考えている――一郎と同様に、左馬刻にとって一番大事なものが家族であるのだから当たり前かもしれないが。けれど、その当たり前が一郎は嬉しかった。一郎が弟達を一等愛していることを理解しているからこそ、一郎の弟達のことも大事にしてくれることも一郎が左馬刻を好ましく思っている理由の一つだった。
少し前まで一郎が弟達と仲が良くなかったことを知っている左馬刻は、余計気にかけてくれているのだと思う。現在進行系で関係が修復していっていることを、まるで自分のことのように喜んでくれるし、食事に行った時だって、弟たちへの土産も一緒に持たせてくれる。左馬刻にとっては特別なことではないかもしれないが、一郎はそれがとても嬉しかった。
「びっくりするとは思いますけど、大丈夫だと思います」
一郎の返事に、それなら良いけどよと左馬刻はまた視線を逸らす。そして、かつんとその指先をテーブルに打ち付けてから、はぁ、と深い溜息をついた。
「……本当に良いんだな」
「左馬刻さんこそ、良いんですか」
暫くそっぽを向いていた左馬刻はぐしゃぐしゃと髪を指先で掻き混ぜて、それからまた一郎に視線を向けた。左馬刻が真っ直ぐに向けてくる真っ赤な瞳に一郎はこくんと一つ頷いて、逆に問い掛ける。
一郎の問に、左馬刻は俺様が言い出したことなんだから良いに決まってるだろ、とやけに早口で答えた。そして、もう一度――さっきよりも深く重い溜息をついてぽそりと低い声で更に問を重ねる。
「俺と、結婚するってことだぞ」
「はい」
「……碧棺、一郎になるんだぞ」
「わかってますよ」
左馬刻が重ねていく言葉に、一郎は淡々と答えを返す。
左馬刻の問はどれも一郎の頭に上がったものだ。けれど、そのどれもデメリットになることはないと一郎は結論づけた。だから返事も淀みないものである。
左馬刻に問われずとも、もう既に一郎は決めている――だから、返事なんて一つしかない。
「一郎――」
「大丈夫です、ちゃんとわかってます」
もしも他の誰かに同じことを提案されたらきっと断っていただろう。けれど、左馬刻だから――他の誰でもなく、相手が左馬刻であるから一郎はその申し出に応えたのだ。
それが伝わったのだろうか。左馬刻は問を重ねていた唇を一度閉じて、すうと大きく息を吸う。そして、ゆっくりと吐き出した後、最後の確認と問を口にした。
「本当に良いんだな。……俺と、結婚してくれるか」
真剣な瞳――単なる書類上の関係だとわかっていても、勘違いしてしまいそうになる程に熱い視線に一郎の心臓がとくんと鳴った。
「はい、……ふつつか者ですが、よろしくお願いします……?」
そして、膝の上に手を置いて一郎は深々と頭を下げる。プロポーズを受ける時の返事を思い出しながら、それをなぞるように口にした。しかしいつまで経っても反応がない。ああ、でもおう、でも良いから何か言ってくれたら良いのに――そんなことを考えながら、おそるおそる顔をあげた一郎が見たものは、何かを耐えるような顔をした左馬刻だった。
「左馬刻さん?」
小首を傾げた一郎に、左馬刻は顔面に手をあてて天を仰ぐ。そうして静かに「明日挨拶してから、婚姻届出しに行くぞ」と小さく呟いたのだった。
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