壁も床も――何もかもが白いその部屋の中で、活けられている花が鮮烈な色として目に飛び込んで来る。毎日違う花がそこにあるのは、それだけこの部屋に訪れる人がいるからだと、左馬刻は知っていた。
ゆっくりと足を進め、左馬刻は部屋の中心へと向かう。
まるでスポットライトのような月明かりで照らされている寝台の上には、いつもと変わらぬ顔をした一郎が横たわっている。
見下ろすその顔は酷く穏やかだ。けれど、青白い頬。開かない瞳。以前よりもずっと細くなった腕や足――そして、身体中に付けられた沢山の管。その全てが、まだ一郎が目覚めていないという事実を語っていた。
「……いちろう」
掠れた声で名前を呼ぶ――けれど、その呼び掛けに返事はない。
わかっていたことだ。それでも、呼び掛けることを止めないのは、いつか応えがあると期待してしまうからだった。だって、一郎は眠っているだけだ。それを確かめるように、左馬刻はいつものように細い腕に指先で触れた。
己より少しだけ高い体温も、規則正しく紡がれる脈も以前と同じ。ただ、その瞳が開かないだけ――どんな宝石よりも美しい赤と緑は瞼の下にずっと隠れたままだった。
「なぁ、一郎。どうしてあの時、」
何度も繰り返した問を、左馬刻は今日も口にする。
当然のように答えは返ってこない――一郎が起きていたとしても、答えを教えてくれるかどうかはわからないけれど。
決定的な別離を経て、左馬刻と一郎は和解を果たしていた。同じチームを組んでいた頃のように、とは言わないが、それでも仲の良い友人と呼べるぐらいの関係を築けていたと、左馬刻は思っていた――一郎が、目覚めなくなるあの日までは。
一郎が長い眠りについた理由。それは、左馬刻を庇って刺されたからだった。
弟二人が自立して、イケブクロの家に一人になった一郎を左馬刻は何かと口実を作っては連れ出した。弟たちには三食きっちり食べろと言って朝から晩まで食事を作ってやる一郎が、その実案外一人では食事すら疎かになるほど生活能力が低いことを左馬刻は知っていたからだ。
あの日、一郎を昼食に誘ったのは左馬刻だった。
電話を掛けて、暇かと尋ねた。依頼はないと告げた一郎にじゃあ飯でも行くかと誘いの言葉を掛ければ、一郎は嬉しそうに頷いた――電話越しでもわかるぐらいに、嬉しそうな声だったのだ。
和解後、左馬刻がはじめて一郎に声を掛けた時、その顔には戸惑いがあった。いきなり萬屋ヤマダに押しかけた左馬刻を見る瞳が揺れていたことを、左馬刻は今でも覚えている。
一郎が左馬刻の誘いを断ることは殆どなかった。けれど、左馬刻が声を掛ける度、瞳や声にじわりと何かが滲んでいたことも、そしてそれがいつしか違うものと一緒になって溶けてしまったことも左馬刻は気付いていた。
けれど、それが何かということに左馬刻はずっと気付かないふりをしてきた。気付いてしまったらきっと、今の関係が壊れてしまうと思っていたからかもしれない。
一郎が傍にいることで、左馬刻は酷く楽に呼吸ができた。とても居心地が良かった――だからこそ、油断していたのかもしれない。
囲まれた、と気付いた時、チ、と舌打ちをして左馬刻はマイクを取り出した。こういった襲撃はそれなりによくあることだ。それは一郎も同じだろう。ディビジョン代表、元とはいえ、伝説のチームの一員――倒して箔をつけよう、なんて考える浅はかな奴らはどこにでもいる。
そんな有象無象がどれだけ束になって掛かってこようと意味はないと思っていたし、そもそも一郎が一緒なら相手が誰だって負ける気はしなかった。横にいるはずの一郎に視線を送る。イケるだろ――そんな左馬刻の言葉ない声に、一郎は笑って頷いた。
たったワンバース――それだけで勝負はついた。
拍子抜けする程のそれに左馬刻は単純に物足りないと思った。折角一郎とバトルをするのに、こんなに短時間で終わってしまっては楽しみもなにもない。お前もそうだろ、と同意を求めるように一郎のほうに視線を向けた瞬間、どん、と横から勢いよく突き飛ばされた。相手は一郎しかいないが、そんなことをされる理由はない。突然の衝撃にたたらを踏み、体勢を整えて怒鳴ろうと振り返った時、左馬刻の視界に入ったのはその場に立つ一郎と、その脇腹に深々と刺さるナイフ――そしてそこから流れる赤い血だった。
「一郎」
名前を呼んだ左馬刻に、一郎は振り返って笑ってみせた――笑って、良かった、と小さく呟いたのだ。
あの時の一郎の、流れる血の赤も、白くなるばかりの肌も、徐々に熱を失っていく指先も――何もかもを覚えている。
だから左馬刻は、こうやって一郎の身体に触れる。確かに生きているのだと、ただ眠っているだけなのだと、何度でも確認するために。
一郎が目覚めない本当の理由は、まだわかっていない。
刺された傷は深く生死の境を彷徨いはしたが、今は完治している。それなのに目覚めない理由について、はっきりしたことは言えないと寂雷は首を振った。ただ、言えることはいつ目覚めてもおかしくはないし、ずっとこのままの可能性もあるということだった。
左馬刻のせいで一郎は目覚めないというのに、誰も左馬刻を責めるものはいなかった。
兄を盲目的に慕う弟たちですら、左馬刻のことを慮った。そして、もう良いのだと告げる――もう、ここには来なくていいのだと。
可能な限り毎夜一郎の病室に来るのは、主にそれが原因だ――左馬刻を見る度に、苦しそうに歪む一郎の弟たちの顔を見るのが辛かった。
「……いつまで寝てんだよ、一郎」
ベッドの脇に備え付けられた椅子に腰を下ろして、じっと眠る一郎の顔を見つめた。
その寝顔は酷く子供らしく見えて、一郎がまだ子供であるという事実を左馬刻へと突きつける。
「なぁ、いちろ」
最後に一郎が浮かべた笑みが頭から消えない。心底安堵するようなそれは、あの日から左馬刻の心の一番柔らかい部分に突き刺さったままだ。
じくじくと痛む傷口は、けれど一郎の痛みよりきっとずっと軽いはずだ。
「いちろう、」
左馬刻は後悔していた。それは、あの日のことだけではない。それよりずっと前――一郎に、声を掛けたこと自体を後悔していた。
左馬刻はずっと気付いていた――一郎が自分に向ける感情に。わかっていて、ずっと気付いていないふりをしてきた。
一郎が望むものを返せないならば、最初から近付くべきではなかったのに。
それでも傍にいたかったのは、左馬刻の欲でしかない。
一郎から向けられる好意が心地よかった。傍にいることが楽しかった――一郎が、左馬刻のことで感情を揺らすことに、充足感を得ていた。
好きだと語るその瞳を、もう二度と手放したくなかった。
そんな左馬刻のエゴが、今の状況を招いた。
期待させるような素振りを見せて、けれど決して何も言わない左馬刻を一郎はどう思っていたのだろうか。どれだけ傷付けてきたかもわからない。一郎が向ける好意を意図的に無視していたのは、紛れもない左馬刻自身だ。
だから、あの時――一郎のあの笑みを見たときに後悔した。
最初から近付くべきではなかった――それができないなら、もっとはやく伝えておけば良かった。
そうすれば、一郎のあんな顔を見なくて良かったのに。あんなことにも、ならなかったのに。
「なぁ、一郎。お前に伝えたいことがあるんだよ」
――だから、目を覚ましてくれ。
呼ぶ声に返る言葉はない。触れる手が動くことはない。
――目覚めてくれ、と願うその祈りが届くことも、ない。
それでも左馬刻は何度でもその名前を呼ぶ。ただ、目を覚ましてほしいと願いながら。
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