「あ、雨」
部屋で作業をしていた狛枝は、さあさあと聞こえる雨の音に視線を窓の向こうへと投げた。それなりに勢いのある雨足に今日の天気予報を思い出す。
確かキャスターは一日晴れるでしょう、と大衆向けの笑顔を振りまいてそう言っていた。今日は買い物に行こうと計画を立てていたのに、と狛枝は内心落胆した。
洗剤などの常備品は切れかかっていたし、何より冷蔵庫の中身が少ししかない。
狛枝は別に一日二日食べなくてもどうってことはないのだけれど、恋人である彼 ── 苗木誠はそうはいかない。苗木は結構無精者で身の回りには無頓着だ。

とりあえず食べられればいいや。
まだ大丈夫だよね。
皺の一つや二つ、気にしなくて大丈夫。

そんな風に自身の健康や食生活にはあまり気を遣わない。それに対して同じ一四支部の霧切や十神が頭を抱えていたということはこの間きいた。
そのくせ苗木は狛枝にまともな生活を送らせようとする。
色々な要因が重なって倒れた狛枝が、放っておけば何を仕出かすかわからないんだから!と言って苗木の家に引っ張りこまれたのは多分半年ぐらいまえのことだろうか。
それからなし崩し的に同居が始まって今に至っているのだけれど。
そういうわけで、冷蔵庫の中身がないことを知ればきっと苗木はがっかりするだろう。もしかしたら家に帰ってきたあとにまた買い物に出かけてしまうかもしれない。疲れて帰ってくるだろう彼にそんなことをさせるのはとても忍びない。
本当ならば家事は全て狛枝がやるべきなのだろうけれど、料理だけは理由があって苗木の担当だった。特別上手というわけではないけれど、狛枝が作ることがないのだから必然的に役割はそうなってしまう。
気は進まないけれど、この雨の中外に出ることを決める。はぁと息をついて狛枝は外出の用意へと取り掛かった。

外に出るその時になっても、まだ雨は降っていた。止むどころか先程よりも少しだけ強くなったようなそれに、狛枝はまた小さく息をつく。
この不運の代償はどんなものだろう。そう考えて、思い出す。
今朝苗木は傘を持って行かなかったはずだ。はやくでなければいけないことを忘れていたのか、朝食もそこそこに出て行った。
書類を忘れた、とメールがきたことを考えれば、傘なんて絶対持って行っていないだろう。ニュースを見ていたって、多分傘を持っていくことはなかっただろうけれど。
買い物と雨に託けて、苗木を迎えにいくというのはどうだろうか。きっと苗木は驚いて、そして喜んでくれるだろう。
狛枝クン?ありがとう。そんなふうに言って満面の笑顔を浮かべてくれるはずだ。
想像の中の苗木はとても可愛い。そしてそれは多分現実も同様になるだろう。

ふと浮かんだことだけれど、それはとてもいい考えに思えた。
いつもだったら、視線で何かを訴える霧切も、まるで小姑のようにねちねちと嫌味をいってくる十神も、呆れたように溜息をつく日向も理由があれば何も言わないだろう。
別に彼らのことなんてどうでもいいのだけれど、後から困るのは苗木だ。その結果として恥ずかしがって拗ねてしまった苗木との接触が減るという不運が狛枝へと訪れる。
狛枝は、恋人同士のことに口を出すなんて無粋だと常々思っている。
だけど、同時に思うのだ。
狛枝の恋人は苗木だ。超高校級の希望と呼ばれる苗木誠だ。
これは、一等輝かしい光のような彼を独占できるという幸運に対する不運のうちの一つなのではないかと。
だから、狛枝は事を荒立てない。苛々することもあるけれど、大体はスルーする。
彼らが何を言ったってどう考えていたって苗木は狛枝の恋人だ。苗木が選んだのは狛枝なのだ。それを狛枝は心の中で繰り返し呟く。そうやって心の安定を図るのだ。
たまに意趣返しとして見せつけるぐらいはするけれど。
そう考えだすと止まらない。既に狛枝の中では、買い物よりも苗木を迎えにいくことのほうに比重が置かれていた。
先程までははやく止め、とまるで呪詛のように願っていた狛枝だったけれど、とりあえず苗木を迎えにいくその時まで降っていてくれればいい。
傘を二本とって、やめる。
狛枝用の緑色をした傘だけをとって外に出た。
ふんふん、と鼻歌を歌いながら雨の道を歩く。どしゃぶりでさえも、晴天のように感じられるぐらい狛枝は近い未来へ ── もっというならば愛しい恋人へと思いを馳せていた。

軽く買い物を済ませる。食料品、常備品、その他諸々必要なものを買い込んで狛枝は機関への道を歩いていた。
少しだけ荷物は重くなってしまったけれど、それも計算内だ。時間は丁度いい。雨もまだ降っている。



両手に買い物袋を下げ、表から堂々と足を踏み入れた狛枝を、入り口の所にいた警備員はちらりと見ただけだった。
機関の人間ではないけれど、狛枝凪斗はそれなりに機関の中で有名だ。
それは、絶望の残党の生き残りとしてだったり、七七期生の『超高校級の幸運』としてだったり。何より、あの『超高校級の希望』の恋人として。
だから、時折狛枝は機関を訪れるけれど、大抵において顔パスだった。たまの例外といえば、入り口で十神や霧切に不運にも出逢ってしまった時だろう。
入り組んでいる通路を、なれた足取りで狛枝は進んでいく。両手に買い物袋を下げる狛枝を見て、驚いたように振り返る人もいたけれどそんなのは些末なことだ。
狛枝の頭の中にはもうすぐ苗木にあえる、それだけしか存在しなかった。


「苗木クン、仕事終わった?」
一四支部に与えられたフロア。一切の遠慮もなく狛枝はその扉を開いた。
にこにこと笑う狛枝へと刺さる視線は、霧切と十神のものだろう。相変わらず過保護なことだと思う。
朝日奈は、あー久しぶりーとひらひら笑顔で手を振っていて、日向、腐川なんかは若干引きつったような顔で狛枝を見ていた。
葉隠は休みだろうか。その姿はそこにはなかった。

「こ、まえだくん?」
狛枝の目当の人物 ── 苗木は、ぱちぱちと大きな目を瞬かせて狛枝の名を呼んだ。いつもは掛けていない眼鏡が新鮮で思わず口元が緩む。
「どうしたの……?」
そして書類を抱えたそのままで狛枝のほうへと駆け寄った苗木は、その姿を見て少しだけ顔をしかめた。
「ちょっと狛枝クン濡れてる……?ってことは外雨降ってるの?」
「うん。苗木クン傘持って行かなかったよね。買い物に出たついでに迎えに来たんだ」
狛枝の肯定の言葉に苗木は窓の外へと視線を向ける。そうして外の状況を見て、本当だ、結構降ってるね。とぽつり呟いた。
「ありがとう、狛枝クン。すぐ支度するからちょっと待っててね」
そういって笑う苗木の後ろなどもうすでに狛枝の視界には入っていない。
ありがとう。そういって笑う苗木の笑顔は想像よりもずっと狛枝を惹きつけて、ただその身体を抱きしめる衝動を抑えるので精一杯だった。

「ごめんね、結構時間かかっちゃった」
それから狛枝は優に三十分は待たされた。苗木に渡されたタオルで濡れた所を拭きながら、苗木の仕事風景を眺めていたのだけれど、「すぐ支度するから」といった苗木の言葉はどうやら本当にはなりそうにはない。
それは苗木が嘘をついたわけではない。期限が迫っている。忘れていた。あの書類どこにあった。などと帰宅の為の支度をはじめようとしている苗木へと次々に声が掛かるからだ。
優しい苗木はそれを撥ね付けることもできずに、申し訳なさそうにその声にこたえる。中には確かに重要な案件もあるかもしれないけれど、その多くはきっとどうでもいいようなものだ。
何故ならば、掛けられる声の殆どが霧切と十神のものだったからだ。それは、あまりにもあからさますぎる邪魔だったけれど、狛枝は大して気にしていなかった。
いつもとは違う、仕事中の苗木の姿をこんなにも近くで見ていられる。それも一つの幸運だ。狛枝はソファーに腰掛けながら、端末と向かい合う苗木の姿を上から下まで、それこそ舐めるように見つめていた。
そうしているうちに、一人、二人とそのフロアをあとにする。朝日奈や十神、腐川を見送って十分ぐらいした後、狛枝の正面にやってきた苗木は申し訳なさそうにそういった。
時間がかかった理由は、ずっと見ていたから知っている。主にあの二人のせいだ。途中ぐらいからは、あまりにあからさまなそれに、日向や朝日奈は呆れた視線を向けていた。
「大丈夫だよ、苗木クンの仕事しているとこ見るのも新鮮だったし」
「でもすぐっていったのに」
そういって苗木はそっと瞳を伏せる。その表情に様々な感情がぐるぐると回り出す。
二人きりじゃない。でも見てるのは日向と霧切だけだ。別に苗木と狛枝の関係を知らないわけじゃない。けれど人前でそういうことをすればきっと苗木は拗ねてしまうだろう。でも。
「苗木……と狛枝。ほらもう雨やんだみたいだし今のうち帰れよ」
狛枝の思考と行動を切り裂くように、日向が横から口を出した。その顔にはでかでかと「外でやれ」と書かれていて、狛枝は複雑な心を抱く。
触れようとした腕を引っ込めて、ううんと考える。ここでの妨害は不運か幸運か。それもきっと、そのうちわかるだろう。
苗木は、日向の言葉に窓を見て本当だ。と呟いた。
「降らないうちに帰ろっか」
そういってにこりと微笑まれたら、狛枝には肯定しか返せない。
そうだね、といって笑顔を浮かべてソファーから立ち上がる。
そうして荷物を手にした苗木と共に、残った二人へと「お疲れ様」を告げて十四支部のフロアをあとにする。
外は夕焼けで真っ赤に染まっていて、さっきまでの雨が嘘のようだった。
相合傘をしたかったのに、と内心で肩を落としながら、二人並んで歩く。
少しして傘を忘れたことに気が付いたけれどまあいいかと思い直す。また雨が降った時にでも苗木が持って帰ってくるだろう。
「迎えにきたけど、必要なかったかもね」
「でも、ボクうれしかったよ。ありがとう、狛枝クン」
ぽつり、と狛枝が呟くと苗木は顔を少しだけ赤らめて微笑んだ。それはもしかしたら夕陽に照らされた赤色かもしれないが。
それを見た瞬間強く抱きしめたいと思ったけれど、それには両手の買い物袋が邪魔だった。
そんな衝動をごまかすように、狛枝はそれならいいけど、と呟く。狛枝の葛藤などきっと知らないだろう苗木はもう一度ありがとね、と繰り返した。
口角が上がるのが自分でもわかる。浮かれている。幸せだ。
こうやって二人で歩いていること。苗木がそこにいるということ。苗木の感情が自分へと向かっているということ。
それは、劇的なことじゃない。小さな、それでも確かな幸せ。
些細とも呼べる、そんな他愛のない一瞬が、多分狛枝がずっと求めていたものなのだろう。
そして、それをくれるのはいつだって苗木だ。
誰より、特別で、愛しい、そんな唯一が苗木誠という狛枝に与えられた最大の祝福で幸運で奇跡だと、狛枝は思っている。
「お、重いよねそれかたっぽもつよ」
おずおずと、苗木はその手を差し出した。
苗木に渡すことには躊躇いもあったけれど、少しだけ考えて、ありがとう、と狛枝は軽い方の袋を手渡す。
渡さなかったら渡さなかったで、多分苗木は拗ねるだろう。それは狛枝の望むところではない。
折角こうやって笑っている苗木の表情を自分の行動で歪ませるのはできれば遠慮したいところだった。
片手があくとなんとなく手持ち無沙汰だ。
「……」
そっと、手が触れる。驚いたように狛枝が苗木のほうを見ると、暫く俯いていた苗木がばっと狛枝の方を向いた。
それと同時に、苗木の手が狛枝の手を握りこむ。
「……て、つなご?」
苗木の赤くなった顔に、狛枝はただ小さく頷くことしかできなかった。
暫く、無言のまま歩く。それでも手から伝わる温度が嬉しくて、愛おしくて。狛枝は苗木への想いが今までよりずっと大きくなっていくのを感じていた。
付き合いだしてからそれなりの時間が過ぎたけれど、こんなふうに狛枝の想いはことあるごとに大きくなる。
「なえぎくん、すきだよ」
ぽつり、呟いたのは本当に小さな声だったけれど、苗木には聞こえたようだった。
視界に入った苗木は小さく俯いていた。その耳朶や首筋は夕陽のせいと誤魔化せないぐらいに赤い。
好きだよ、も愛してる、だって何度言ったって多分足りない。それでも囁くのは、言わずには居られないからだった。

「……ぼくも、すき、だよ」

ぎゅっと、言葉とともに繋いだ手に力が加わる。
驚いて狛枝が苗木のほうへ顔を向けると、苗木は顔を見られたくないというように反対側へと顔を向けていた。それでも覗く首筋や耳朶が先程よりもずっと真っ赤に染まっているのが見えて、じわりじわりと胸が熱くなる。
(……はんそく、だ)
苗木は滅多に狛枝に対して、『すき』も『あいしてる』もいってくれない。苗木の心を疑う気持ちは微塵もないけれど、それでも狛枝は苗木の口から聞きたかった。
それは何度聞いても信じ切れないというよりは、今こうやって苗木と一緒にいて、苗木に愛されているということは狛枝にとってあまりにも幸福過ぎることだったから。
もっというならばそれは奇跡に等しい。
有り得ない、夢のようなものだ。
傍にいられるだけで、幸せで。些細な感情や事柄ですら共有したいと考える。
そして、どんな他愛ないことでも震える程の歓喜を感じる事ができる。
狛枝にとって、そんな相手は苗木だけしかいない。
だからこそ、狛枝は苗木に触れて、声を聞いて、言葉を貰って。
そうやって、現実を現実として認識したいと狛枝は考えていた。
繋いだ手の温かさが嬉しくて。苗木からの言葉が幸せで。
狛枝はその手を引いてぎゅっと苗木を腕の中に抱き寄せた。どさりと買い物袋が地面に落ちる。卵は割れていないだろうか。考えて、多分大丈夫だと結論付ける。
「こまえだくんっ?」
慌てたような苗木の様子も、往来だからと照れて押し返すような素振りも、そして諦めたようにそっと背中に回された腕も。
その全てが愛おしくて、幸せで、どうしようもなく綺麗に見えて。
狛枝は真っ赤に染まった苗木の頬に優しく口付けた。




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